愛を乞う人 1
あなたはまず、自分がどれ程愚かな女性であるかを自覚しなさい。
最近ずっと、あまり夜が眠れず困っていると、主治医である医師に相談した。
その時に彼が、ルイーザに向けた言葉だった。
言われたその時には、思い掛けない辛らつな言葉に驚いて沈黙してしまい、咄嗟に返答に詰まってしまった。この医師は元々、少しばかり毒舌というか厳しい物の言い方をすることがあるけれど、ここまではっきりと「愚か」と言い切られたことはない。
一体彼の本意は何なのだろうか。
じっと見つめ返しても、医師、ジャック・マントルはその答えをルイーザに与えてはくれない。
自分より十五近く年齢を重ねた、目尻にうっすらと皺の入った顔は冷静そのままで、静かにルイーザの顔を見返してくる。
とたん、何だかとても居心地が悪くなった。遅れてじわじわと、ショックが襲ってくる。
既に数年に及び主治医として信頼していた人の目に、自分はそんな女に見えるのか。
彼に言われるまでもなく、ルイーザは自分が愚かしい女であることは自覚しているつもりだ。
臆病で、卑怯で、不器用で、これまでの人生の中で後悔することは山ほどあっても、これで良かったのだと納得出来ることは皆無に近い。
誰よりも自分を大切にして欲しいと他人に求めるくせに、自分は他人を同じように大切には出来ない。誰かに依存し、縋らないと生きて行けない、そんな弱い女である。
それでも、判っていても他人から指摘されれば、傷つくだけのプライドは持ち合わせている。この時ルイーザに出来たことは、無言のまま口を噤み、精一杯、何でもないことのように微笑み返すことだけ。
そうしたルイーザの顔を見つめたまま、ジャックも微笑んだ。
瞳の奥には、どこか憐れみさえ感じさせられるような色を浮かべながら。
医師から処方された睡眠薬を飲んで、やっと眠りにつくことが出来ても、迎えた翌朝は快適な目覚めにはほど遠かった。
重くじわじわと襲ってくるような頭痛と、その痛む頭に突き刺さるような、朝の静けさを打ち破る、女のように甲高い男の声。
一体何事か、と侍女を呼び寄せて理由を聞くまでもなくその原因は理解出来た。と言うのも、
「ルイーザ! 出てこいルイーザ! 隠れても無駄だぞ!」
まるで罪人を引っ立てるような荒々しい口調で、屋敷のプライベートな部分にまで踏み込んで来る、無粋な男の声がさらに近付いて来た為である。
どうやらあの男の侵入を執事も止められなかったらしい。
「ルイーザ様はまだお休みでいらっしゃいます。どうか、少しお待ち下さい」
扉の前までやって来たその男が、部屋の中に踏み込む手前で必死に侍女のメアリが押しとどめている。
まだ朝も早い時間帯、休んでいる女の私室に堂々と立ち入ろうとするなど、夫でもない男のすることではない。けれどその男が、そのとんでもなく非礼で誰もが眉を顰める行動を、自分には許されているのだと思い込んでいる理由も存在する。
はなはだ、ルイーザにとっては迷惑極まりないことだけれど。
やっとの思いで男が部屋に入ることを阻止し、サロンで待っていて貰うことに成功したメアリが、心なしかぐったりとした様子で部屋に戻ってきた時には、もうルイーザの目はすっかりと覚めてしまっていた。
「おはようございます、ルイーザ様」
「おはよう」
「あの……朝から申し訳ありません、リチャード様が…」
「判っているわ。すぐに支度をするから、手伝って頂戴」
あれだけ部屋の前で騒がれれば、嫌でも目が覚める。今頃イライラとした様子でルイーザが現れるのを待っているだろう男の顔を想像すると、それだけで不快感が込み上げて来た。
本当なら会うこともせずに追い返してしまいたいところだ。けれどそれでは、何も問題が解決しないことも判っている…とは言え、会って話をしたところでその問題が解決するとも思えないのだけれど。
朝早くから屋敷に押しかけてきたその男は、名をリチャードと言う、一年半程前に亡くなったルイーザの夫であるボローワ伯爵の甥である。かといって、これまで特別親しい付き合いがあったわけではない。
その甥が度々屋敷に足を運ぶようになったのは、夫が亡くなってからであり、訪れる頻度が頻繁と称しても構わないほど増えたのは、喪が明けた頃からだった。
彼の訪れてくる理由は、なんてことはない…簡単に言ってしまえば、夫が残した財産についてだ。
伯爵として充分な領地を持っている上、商売でも成功していたボローワ伯爵の残した財産は莫大な金額で、現在その遺産を相続しているのは妻であるルイーザ一人だ。
それが、ボローワ伯爵の身内には気に入らない。それでなくとも、伯爵が若い娘を妻にすると知った時の身内の反発は相当な物だったと聞いている。
ただ、当時は伯爵の力が大変に強く、そうした異議を唱える者達を力尽くで黙らせることも難しくなかったため、これまで表面化してこなかっただけの話で、その押さえ付ける力を持った人間が亡くなれば、当然充分想像出来た問題でもある。
そうした身内の者達が鋭く切り込んでくる一番の弱点は、夫が死んだことで宙に浮いてしまった伯爵位である。
夫が亡くなった後も、ルイーザはボローワ伯爵夫人と名乗ってはいるが、本当のところは元伯爵夫人と表現する方が正しい。爵位を持っていたのはあくまで彼女の夫であって、彼女自身ではないからだ。
外から嫁いで来たルイーザには爵位の相続権はなく、また二人の間に子も産まれなかったことから、直系で爵位を継げる者がいない。その為、現在ボローワ伯爵の爵位は王室に一度返上した形となっており、身内の中で最も血の近い男子が継ぐまで保留となっている。
本来であれば伯爵が亡くなったすぐ後に、一族で相談して間を置かずに新たな伯爵を決定するのだが、一族の間でも様々な思惑があり、ここまで来てしまった。
ボローワ伯爵の死があまりにも突然で、後継者について定めていなかったことと、下手に財産が莫大であることから身内で争い合うような揉め事にすら発展していたのである。
それが、最近になってようやくこの甥であるリチャードが継ぐことに決定になったようだ。
それ自体は仕方がない。ルイーザにどうこう言えるようなことではないし、伯爵家のことはその血を継ぐ一族が考えるべきことだ。
けれども物事をより複雑にしているのは、この甥であるリチャードが伯爵となった暁には、伯父の妻であったルイーザと結婚しようとしていることだった。
普通に考えて、義理とはいえルイーザとリチャードは伯母と甥の関係だ。
国教会の定めでも、近親婚は固く禁じられていることから、まともに考えれば通る話ではない。
けれどリチャードは、ボローワ伯爵とルイーザとの間に子供が産まれなかったことを理由に、二人の結婚無効を申し立て、結婚そのものをなかったことにして、改めて自分がルイーザと結婚しようとしているのだ。
もちろん、無茶苦茶な理屈である。宗教にも道徳にも反するし、実現させれば周囲からの白い目は逃れられない。だと言うのに、その無茶なことも金を積めば通ることもある。
他に必要なのは、ルイーザの同意だ。
リチャードは、夫の喪が明けたこともあり、充分義理立てはした。今後の家と生活の面倒は見てやるから、自分に従えとしつこく意気高にルイーザに迫り、良い返事を返さないと、今度は愛していると囁き出す始末である。
恐らくリチャードがルイーザに惹かれているというのは本当の話だろう。結婚当初から、彼の自分を見つめる眼差しには、男の露骨な欲が含まれていることには気付いていたし、そもそもそうでなければ、こんな無茶な申し立てをしようと考えるはずもない。
だからといって、それが自分に対する純粋な愛情だとはとても思えない。
結局彼が目当てとしているのは、ルイーザが夫から譲り受けた莫大な遺産なのだ。伯爵位を継げば、伯爵家の財産は彼の物となる。だがボローワ伯爵が個人的に妻に残した遺産は、あくまでもルイーザの物であって、新伯爵の物にはならない。
それを、結婚という形でルイーザごと囲い込み、全てを自分の物にしようとしているのだ。
こんな状態で、いくら愛の言葉を囁かれても、下心が透けて見える言葉にどんな価値があるだろう。
きっと結婚したところで、持てはやされるのは最初だけで、すぐにないがしろにされるに違いない……一時容姿で引きつけることは出来ても、長い時間を自分の元に止め置くことが出来る魅力が、自分にあるとは思えないから。
そもそも……愛とは一体、何だろう?
それがルイーザには判らない。
幼い頃から両親に特別愛された記憶もないし、他の身内から注がれたことも記憶にない。
リチャードに限らず、夫であったボローワ伯爵からも、向けられたのは欲望ばかりだった。伯爵はルイーザを大切にしてくれたし、それなりに平穏な結婚生活ではあったけれど……彼が自分に望んだことは、彼の装飾品になることだ。
隣に立たせて周囲の目を惹きつけるような見かけの美しさを保つことばかりで、その内面を気にしてくれたことなどただの一度もなかった。だから彼は、ルイーザに子を産ませることも望まなかった。
子を宿せば、どうしても母体の身体のラインは崩れてしまう。それが金を掛けて手に入れ、そして維持していた彼にとっては、跡継ぎを得る喜び以上に許せないことだったらしい。
それを辛く思うことがなかったのは、ルイーザ自身、不自由のない生活を与え、煩わしい出来事から守ってくれればそれで良いという以上の、愛情を求めなかったからだ。
そうした二人のある意味、望む凹凸が嵌った結婚は周囲の目には、幸せな結婚生活を送っているように見えたらしく、不満もない。
ただ、空しい。
とてつもなく、空しかった。
唯一、これが愛なのかもしれないと思ったものは、いつか失うかも知れないと言う恐れから、自分で手放してしまった。後悔したときには既に遅く、取り戻そうとしてもそれは叶わず、自分の手から遠くへと離れて二度と戻らない。
大切なものは失ってから気付く、というのは本当のことだと思った。どうして自分は呑気にも、今もまだ彼が待っていてくれるだなんて期待を、当たり前のように出来ていたのだろう。
そんなことを期待出来る資格すら、自分にはなかったのに。
……考えて、重たい溜め息を付きながら頭を振った。そうすることで、この考えを忘れてしまいたかったけれど、頭を振ったことによって増したのは頭痛だけだ。
気分が悪い。
最近ずっと眠りが浅く、体調が優れないのはこの遺産問題と結婚問題が大きなストレスになっているからだ。そして……初めて経験した、失恋も。
しばらくそっとしておいて欲しいのに、こういう時に限ってそうはならない。
メアリの手によって、固く締められたコルセットが、肺の中に僅かに残った空気も吐き出させるようで、余計に苦しい。そうした最悪な体調の中で身支度を調えて向かった、リチャードとの会話はさらに、ルイーザの気分を悪くさせた。
彼は言った。
これまでに何度も承諾を得ようとしても、首を横に振り続けるルイーザに痺れを切らしたのだろう。この時も同じように結婚を提案されても、決して頷くことをせずにいると、ひどく不機嫌な表情をして、吐き捨てるように言われた。
「どうせ綺麗なだけの人形のくせに。人形は人形らしく、黙って主人に抱かれていればいいんだよ! それしか出来ることはないんだからな!」
ぶつけられたのは言葉だけではない。
無造作に伸びてきたリチャードの手は、ルイーザの腕を掴むと強引にソファの上に引き摺り倒し、つい先程身支度を調えたばかりのドレスを乱暴に引き剥がそうとする。
「止めて…! 何をなさるの!」
必死に暴れても、押さえ込む力はびくともせず、悲鳴を上げようにも恐怖で喉が凍り付いて、まともな声も出ない。メアリがリチャードに取りすがり、止めてくれと懇願したが、そうした侍女の願いも乱暴に振り払われて叶わず、露わになっていく自分の肌に絶望を感じた時だ。
「…失礼、お取り込み中でしたか」
こうした状況には場違いな程、淡々とした声と口調が割り込んで、リチャードの行為を邪魔した。
視線を向けた先にいるのは、つい先日ルイーザを愚かな女だと言い切った、医師のジャックだ。失礼と言いながらも、彼はサロンから立ち去る気配を見せず、ただこちらの成り行きを見定めるような眼差しで、黙って入り口に立っている。
さすがに第三者の目の前で行為を続けるふてぶてしさはないのか、リチャードの手が緩んだ隙にソファの上から逃れ、距離を取ればリチャードは忌々しげに口元を歪め……それから、
「これで助かったと思うなよ!」
捨て台詞を残して、入り口に立つジャックを突き飛ばすようにして部屋から立ち去って行った。
「ルイーザ様…!」
ほっとその場に崩れ落ちるルイーザの元に、真っ先に駆け寄ったのはメアリだ。そのメアリの手に縋りながら、やっとの思いで顔を上げれば、視線の先にいるのはやはりジャックだ。
「……ありがとうございました」
意識する間もなく礼が零れ落ちた。もしもジャックの訪問がなければ、ルイーザは自分の意思に関わらずリチャードに手籠めにされていただろう。
結果それを周囲に吹聴されて、彼の要求に従わなければならない状況に陥れられていたに違いない。
大きく息を付いて手元に視線を落とせば、僅かながらに両手が小刻みに震えている。その震えを止めるように、ぎゅっと握りしめたときだ。
「礼には及びません。私は別に、あなたを彼の手から救う為に来た訳ではないのですから」
浴びせられたのは、冷水のような冷たい言葉だった。




