第十章 あなたに捧げる思い出の花 3
目を閉じ、自嘲混じりに口元を歪ませるレイドリックの笑みは、笑っていてもどこか仄暗い悲しみが見える。
「今まで信じていたものが、全部覆されるような気分だった。彼女の裏切りも酷く辛かったけど、一番恐かったのは今までの自分の存在価値が、足元から崩れていくような感覚だった。俺は、一体何だったんだろう。何の為に必死になっていたんだろう、俺は結局必要のない人間だったんだろうかって」
その後に、今度はルイーザから一方的な別れの手紙が届いた。
あなたを愛している、けれどあなたの愛は私を救ってはくれない。だから私はあなたを裏切りますと。確かに彼女の言う通りだったかも知れない。
けれど、だからといってこんな残酷なやり方は無い。
「意味が判らなかった。俺には、こんな仕打ちが愛情からなせることだとは、思えなかったし判らなかった。彼女が綺麗過ぎると言った愛し方しか俺は知らなかったから……愛しているのにこんな風に人を傷つけることも出来るのだというのなら、それからどんな風に人を愛せば良いのか、判らなくなったんだ」
まるで途方に暮れる子供のようだった。どうすれば良いのか判らなくて、何を信じて良いのかも判らなくなって、一時は考えることから逃れるように騎士の訓練に集中した。
けれど目の前の目標だった騎士叙勲が成立してしまうと、また何をすればいいのか判らなくて、その答えを探すように様々な女性と付き合った。
でも本当の意味でこれが愛だと思えるような気持ちは見つけられなかった。
どんな女性と付き合っても、綺麗だと思う、可愛いと思う、楽しいと思う……でも思うのはそれだけだ。心に何も、響かないし残らない。
「俺のそうした内面は、付き合っていた女性達にも伝わっていたんだと思う。誰とも長続きしなかったよ、俺から別れを切り出すこともあれば、相手の方から別れを告げられることもあった」
決して女性を粗略に扱ったことも、意図的に傷付けようとしたこともない。彼女たちの名誉を穢すような真似もしていない。
相手の女性が嫌だと言えばあっさり引いたし、相手が望むことは出来る範囲で叶えた。でも今考えればそれは、ある意味粗略に扱うよりも残酷な行為だったかもしれないと今になって思う。
なぜなら、どうとでも出来る交際は、付き合っているのに相手に対して全く執着していないのと同じだったからだ。いつも心の何処かでは、自分の意に添わなければあっさりと裏切るのだろうと、そんな穿った目で女性を見てしまうようになっていた。
愛し方を探したかったのに、気がつけばその感情を疑うようになっていたのだ。
傷つくのが恐かったから。自分を否定されることが、恐かったからだ。
「情けないよね。恋多き男と言われながら、そもそも俺は恋をすることも愛することも、判らないままだったんだから」
もしかしたら、自分はもうずっとこのままなのかも知れない。そんな風に思っていたときに、フラフラといつまでも落ち着かない息子を見かねた父親から持ち込まれた話が、ローズマリーとの縁談だったのである。
「正直、縁談を聞いた時には驚いたし、戸惑ったよ。君は俺にとって本当に妹のような存在だったし………何より、もう二度と絶対に傷付けたくない子だったから」
「もう二度と?」
「一度傷付けただろう? 姉さんの婚約披露パーティの夜」
「………覚えていたの?」
あれから一度も何も言わないから、レイドリックはもうあの時の出来事は忘れてしまっているのだとばかり思っていたのに。でも、違ったらしい。
「忘れるわけ無いよ。あの時のことは、ずっと後悔していた。君はただ、俺を気に掛けてくれただけなのに……その優しい気持ちさえ、あの時の俺には受け入れられる余裕がなかったんだ。今更だけど、本当に悪かったと思っている」
「……もういいわ、過ぎたことだもの」
あの時胸の中に抱えたわだかまりが、今の彼の謝罪によってやっと綺麗に洗い流されたような気がした。苦笑するローズマリーに、レイドリックも苦笑しながら言葉を重ねる。
「もう一つ謝らせて欲しい。…舞踏会の夜も、俺は決してあんな風に君を泣かせたい訳じゃなかった。さっきも言ったけど、むしろ傷付けたくないと思っていた、これは本当だよ」
「………」
「ローズ、君はね、俺にとって宝物みたいな女の子だったんだ」
「宝物?」
おうむ返しに言葉を繰り返すローズマリーに一つ頷いて、レイドリックははにかむ様な照れくささと、少しばかりの戸惑いを含めた表情をする。
「きらきらしてて、綺麗で、愛情に満ちた子供時代の思い出を共有する女の子。今の俺には触れちゃいけない子だと思うとの同時に、でももしかしたら、同じように育った君だったら俺の愛し方を認めてくれるかもしれないとも思った」
お互いに努力しようと決めたあの馬車での会話の中で、ぽつりと呟いたレイドリックの「ローズだったら」と言う言葉は、そう言う意味だ。
ローズマリーだから傷付けても良いと思ったのではなく……ローズマリーだったら、もう一度自分らしく女性を愛せるかもしれない、と。
「だから努力しようなんて言ったの?」
「そう。でも意識して接したのは最初の内だけで、その内努力なんて忘れてたよ。君は俺の記憶にある頃よりもずっと女性として成長していて、いつの間にか妹だなんて思えなくなっていた」
さっとローズマリーの顔に朱が走る。異性として気持ちを揺さぶられていたのは自分だけではなかったと、言われたも同然だからだ。
「君と過ごした時間は、本当に楽しかった。君はとても素直で、その心を疑う必要なんて無かったし、ただ純粋に一緒にいられる時を楽しめていたよ。それは嘘じゃない。自分を偽らなくても良いし、怒られることさえ嬉しかった。君の隣で俺は、随分楽に呼吸が出来ていたと思う」
出来るならばこの先も、こうして共に過ごしたいと思うほどに。
「……でも、それでもやっぱり俺は臆病で、どうしても立ち止まってしまう。君が俺を裏切る訳がないと判っていても、どれ程信じたいと思っていても、心の何処かで歯止めが掛かるんだ。いつか君が…彼女のように、俺の理解出来ない女性に変わってしまうのではないかって」
ルイーザとローズマリーは違う人間だ。言われるまでもなく判っている。
ローズマリーが不安に思っていることも気付いていたし、確かな言葉を欲しがっていることも知っていたのに、それでもどうしてもあと一歩先に進むことが出来ずにいた。
未だ完全には癒えきっていない心の傷に触れられることが嫌で、情けない自分を知られたくもなくて、同時に何も言わなくても自分を信じて欲しいなどという身勝手な思いも鎌首を持ち上げて、結果があの舞踏会の夜だ。
「彼女のことはこの六年の間に、自分なりに吹っ切ったつもりでいたんだけど……駄目だな、俺は。彼女の顔を久しぶりに見たとたん、割り切ったはずの過去の記憶が一気に蘇って、馬鹿みたいに動揺してしまった」
「…ルイーザ様のことを、好きだった?」
「好きだったよ。あの時は、他に誰も見えないくらい、この人だけだと思っていた」
ローズマリーの表情が苦しげに歪む。嫉妬と悲しみと怒りと悔しさと、その他説明出来ない様々な感情が入り交じって、胸が苦しい。でもそれと同じくらい切なくもある。
レイドリックがどれ程愛情深い少年だったかは、ローズマリーも良く知っている。幼馴染みである自分に対しても、あれほど暖かで優しい愛情を向けてくれた人だ、この人と思った女性にはそれ以上に心を捧げただろう。
だからこそ、その分だけ彼の心の傷も深い。たかが女、たかが一度の失恋で六年も引き摺るなど情けないと笑う人間もいるかもしれないが、それだけ彼が本気で愛していたのだと思えば、ローズマリーには到底笑えなかった。
どうしてこの人が初めて心から愛した人が、自分ではなかったのだろう。
どうしてルイーザは、この人をこれほど傷付けるくらいに、手酷く裏切ったのだろう。
いくらやむを得ない事情があったとは言え、もっと他にやり方があったのではないかと、そう思ってしまう。
何度説明されても理解出来ないし、きっと理解したくない。ただローズマリーが目を向けなくてはならないのは、過去にあった出来事ではなく、今とこれから先の未来だ。
「……今も、ルイーザ様のことが好き?」
聞くには勇気が必要だった。もしも頷かれたら、自分の心はあの舞踏会の夜の比ではないほどのダメージを受けるだろう。
さすがに真っ直ぐに彼の目を見て問いかけられる度胸はない。それでも聞かなければ、先に進めない。
怯えるように瞳を伏せたローズマリーに、レイドリックは苦笑混じりに微笑む。そして首を横に振った。
「正直に言えば、未練はあったよ。俺は嫌いで別れた訳ではなかったから」
「……」
「それ以上に恨めしくて憎くて…そして悲しかった。だけどもう、そんな感情は充分だ。彼女には、幸せになって欲しいと思う、俺には関わりのない場所で。そう言う意味では、もう愛してはいない」
「本当…?」
睫毛を上げ、確かめるように問う、ローズマリーの頬にレイドリックの指先が伸びてくる。避けることもせずにじっとしていると、やがて両頬を包み込まれてお互いの額が、こつりと触れ合った。間近で彼の顔が大写しになる。
「……あの日、君を失うかも知れないと思ったとき、恐怖で世界が終わったような気がした。君のこと以外は他に何も考えられなくなった。それが今の俺の真実だと思う」
「……っ」
「ローズ、俺が今大切にしたいと思うのも、好きだと思うのも彼女じゃなくて君だよ。君がいなければ俺はまだ、自分の心を偽って逃げ続けていただろう」
「……そのうち、他にまた素敵な人が現れたかも知れないわ」
「でも今、俺の目の前にいるのは君だよ。他の誰かじゃない」
泣くものか。絶対に、泣かないと思った。
でもその意思に反して涙は勝手に滲んで、一つ二つと眦から零れ落ちて行く。わななく唇を固く閉じ、ぎゅっと目を閉じるとその瞼に、涙を拭うように彼の唇が降りて来て、その温もりと柔らかな感触に陶然とする心で身体が震えた。
「…あなたは狡いわ、レイドリック」
「うん、そうだね」
再び苦笑して。それから瞳を伏せると、胸を射貫かれるほど生真面目で真剣な眼差しを向けられる。
「それでもいいから、君が欲しいんだ。親のお膳立てなんて無くて良い、改めて今の俺自身の気持ちで言うよ。………君を愛している、どうか結婚して欲しい。君と、この先の人生を生きて行きたいんだ」
何の裏表もなく、ただ懇願する言葉が胸に染みる。真っ直ぐで飾り気のない、望むままの言葉だと判るから、いつものように冗談だと、からかわないでと言えなくなる。
朦朧とした意識の中で聞いた、雨の夜の彼の言葉が真実なのだと思えてしまう。
狡い人だ。臆病な人だ。悪いところを数え上げたら、それこそ両手両足の指を使っても足りない。
なのにローズマリーはきっと彼の良いところを上げろと言われれば、他人にはとてもそうは思えないところまで数え上げて、そして最後には好きだと言うのだろう。仕方がない、それが自分の素直な心なのだから。
気がつくと、みっともないほど涙が溢れて止まらなくなった。しまいには子供のように泣きじゃくって、彼の胸に顔を埋める。嗚咽を上げるその背を撫でながら、抱き締めてくれる腕の温もりは暖かく心地よすぎて、多分もう二度と抜け出すことは出来ないだろう。
この人が好きだ。
幸せになりたい、そして幸せにしてあげたい。他の誰かじゃない、この人と、幸せになりたい。
ひっくと小さくしゃくり上げて、ローズマリーはやっとの思いで口を開いた。
「…もう、他の人のところには行かないで」
「うん」
「他の人は見ないで」
「うん」
「渡り鳥は廃業よ」
とたん、レイドリックは笑った。
「そんなの、とっくに廃業しているよ。俺は臆病な鳥だから、一度ここと決めたら、もうどこにも行けないんだ」
顔を伏せた彼の胸から、少しだけ早い鼓動が聞こえて来る。その鼓動と、今の自分の鼓動とでは、一体どちらがどれだけ早いのだろう。
胸に頬をすり寄せ、それからローズマリーは顔を上げると両腕を彼の首裏に回す。お互いの間に僅かな隙間もないほど、より一層深まる抱擁に身を委ねながら彼の頬に口づけた。
涙混じりの口付けを受け、ローズマリーの背に回った彼の腕に力が籠もる。
「ローズ。……俺は、俺らしい愛し方で、君を愛したい。それを君は、許してくれるかな」
返事は言葉にならなかった。答えなくてはと思うのに、出て来るのは嗚咽ばかりで、せめてとばかりに精一杯頷いて、抱きつく己の両腕に力を込める。
まるで小さな子供に戻ってしまったかのように泣いて、真っ赤になって、首元にしがみついたまま、なかなか顔を上げようとしないローズマリーの背を何度も根気よく撫でて、呼吸が幾分落ち着いた頃にようやく顔を上げさせると、彼は言った。
「キスをしても?」
どこか悪戯っぽい眼差しは、最初馬車の中で約束した言葉を思い出させた。あの頃は必要な約束だったけれど、今それを聞くのかと羞恥で顔が真っ赤になる。
「…ばかっ!」
涙で濡れた瞳で睨むのと、その唇を塞がれるのとは殆ど同時だった。
雨の中で受けた初めてのキスは、残念ながら朦朧とする意識の中であまりはっきりとは覚えていないけれど。二度目のこのキスは、ローズマリーの記憶の中に決して忘れられない思い出として、深く刻み込まれる。
二人の関係が幼馴染みでも、仮でも偽りでもなく、真実の恋人に変わった瞬間だった。




