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第七章 心の行方 1

 兄のデュオンが、妹のローズマリーを訪ねてハッシュラーザ侯爵家に現れたのは、翌日の午後だった。

 兄と母の元に、しばらくエリザベスの世話になると手紙を書きしたため、侯爵家の使用人に託したのは昨日夜遅くのことだ。

 その時には時間が時間だったため、兄からは取り急ぎ妹の外泊を認める言葉と、後日改めて侯爵家に向かうと書きしたためられた手紙だけが返って来たが、夜が明けて早速事情を確認するために足を運んできたらしい。

 無理もない、ローズマリーが手紙に書いたのは外泊の許しを願う言葉だけではない。レイドリックとの婚約を、無かったことにして欲しいと告げる言葉も一緒だ。

 それを直接自分の口では言わず、屋敷にも戻らなかったローズマリーの様子から、兄なりに妹と親友の間に何かあったと察したのだろう。

 そしてデュオンの予想は、実際にハッシュラーザ侯爵家に訪れ、ローズマリーと顔を合わせた時点で確信に変わったに違いない。本来ならこんな顔で兄と会いたくなかったと思うくらい、ローズマリーの目元は真っ赤に腫れて、痛々しい有様だったからだ。

 これでも朝からずっと、濡れたタオルで冷やしていたので随分マシになったのだが……案の定、自分の顔を見た兄が、それはそれは深い溜め息をついて寄越す。

「全く、お前達と来たら」

 自分のことだけではなく、レイドリックまで含めた兄の呟きに、また目が熱くなった。

 俯き、零れそうになる涙を必死に堪えようとしたところで、大股に近付いた兄に力強く抱き締められて、一瞬息を止める。身を固くする妹の華奢な身体を抱き締めたまま、デュオンはゆっくりとその、自分と同じ色の黒髪を撫で続けた。

 ローズマリーが身体を強張らせたのは最初の内だけで、次第に身体の力を抜くとそのまま兄の胸に顔を伏せる。そうするとまた、折角堪えようとした涙が溢れて、ぽろぽろと零れ落ちて行く。

 普段は癖のある言動をする兄だが、こうしてローズマリーが本当に落ち込んでいたり迷っていたりする時には、躊躇いのない愛情を示してくれる。

 こんな風に兄に抱き締められるのは、何年ぶりのことだろう。幼い子供の頃は幾度と無くあったことも、お互いに成長し、ローズマリーが年頃になった頃からはあえて兄が、自分とこうした接触に距離をおいたことにローズマリーは気付いていた。

 こんな風に抱き締めて慰めるのは、いずれは夫となる男の役目だからと、きっとそんな風に考えていたのだろうと思う。でもその役目を兄が他者に譲るのは、もっと後のことになりそうだ。

 すん、と鼻を鳴らし甘えるように擦り付くローズマリーの額に口付けて、もう片方の手で頬を撫でられる。その温もりと感触が心地よい。そして、とても安心する…自分が間違いなく愛されていると感じられるから、尚更に。

「何の障害も無いと言うのに、どうしてわざわざ自分達で問題を作り出しては、泥沼にはまり込んでしまおうとするのだろうね。お前も、レイドリックも」

「……ごめんなさい、お兄様…」

 確かにその通りだ。二人の間には、障害など無かった。少なくとも、彼の心と自分の心以外の問題は、何も。お互いの心だけでは解決出来ない問題を多く抱える、他の恋人達から見れば、何と贅沢なと呆れられても文句は言えない。

「まあいい。しばらくはお前の好きなようにしなさい。母上には私から上手く言っておく」

「心配させてごめんなさい」

「妹を心配するのも、手を掛けさせられるのも、全て兄の役目だ。気にしなくていい。ただ、忘れないでおくれ、私はいつもお前の幸せを願っているよ」

「……ありがとう、お兄様。愛しているわ」

「私も愛しているよ、可愛い私のローズマリー」

 もう一度、ローズマリーの身体を強く抱き締めて、頬に口付けてからデュオンは妹から身を離すと、すぐ傍で兄妹のやりとりを見守っていたエリザベスに深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしますが、しばらくの間、妹をお願い致します」

「迷惑だなんて、そんなことは決してありませんわ。私はローズと一緒にいられてとても嬉しいですもの。出来ればこの先も、ずっとそうしたいくらい」

 悪戯っぽく微笑むエリザベスの声音は、冗談半分、本気半分と言うところだろうか。そんな妹の友人に、デュオンは少しばかり苦笑しながら肩を竦め、

「近いうちにお礼と共に、返して頂きに参ります」

 と、しっかりと釘だけは刺して男爵邸へと帰って行った。

 ローズマリーを迎えに行ったはずの当主が、たった一人で戻って来た姿を見て慌てたのは、男爵家の近侍であるライナスだ。

 ライナスはデュオンの父の時代から仕える執事の息子であり、今はその執事である父が主人の代わりに領地を任されているために、王都では執事代理を務めている青年である。

 デュオンやローズマリーとも生まれたときからの付き合いで、付き合いの長さだけで言えばレイドリックにも負けない。デュオンのもっとも信頼する者の一人でもある。

「旦那様、ローズマリー様はいかがなさったのでしょうか」

 だからこそ、主人に疑問を問いかけるという、本来なら使用人の立場では禁止されている行為も許されている。てっきり二人で帰って来ると思っていたのに、と言わんばかりのライナスの顔には、いつもと様子の違う男爵家の雰囲気を案じている様子だ。

「何、心配しなくて良い。ローズはしばらく、ハッシュラーザ侯爵家で羽根を伸ばすそうだ。レディ・エリザベスが招待してくれたらしい。女同士ゆっくりと戯れることが出来るのも、嫁に行くまでの間のことだからな。大目に見てやれ」

「……そうですか、でしたら良いのですが。……ですが、レイドリック様がお嬢様にお会いしたいと、先程からお帰りをお待ちになっていらっしゃいます。如何致しましょうか」

「レイドリックが?」

 ライナスの言葉に応接室へと足を向けたデュオンは、そこで所在なげに座っている親友の姿を認める。いつも男爵家に訪れるときは、我が家と変わりなく寛いだ様子でいるくせに、今の彼はまるで借りて来た猫のようだ。

 そんな彼の普段と違う様子が、また使用人たちの不安を誘うのだろう。恐らく殆どの使用人が皆察しているはずだ、レイドリックと、ローズマリーの間に何かあったのだろうかと。

「これはこれは、レイドリック卿。我が家に何の御用かな」

 ことさら芝居がかった口調で彼の名を呼んだのは、もちろん嫌味だ。

 デュオンにしてみれば、誰よりも大切で幸せになって欲しいと願っている妹を泣かせた、張本人である。いくら親友であっても、今はとてもではないが歓迎出来る気分では無い。

 デュオンの言葉の棘には、レイドリックも敏感に気付いた様子だ。

 さっと表情を強張らせながらも、それでもデュオンの周囲を確かめるように視線を寄越したのは、きっと共にいるはずのローズマリーの姿を探してのことだろう。

「ローズならいないぞ。レディ・エリザベスの元にいる。暫くはあちらで世話になるそうだ……まあ、平たく言えば家出だな」

「家出…!? またか、どうしてお前はそうやって、妹に甘いんだ」

「兄が可愛い妹に甘くて何が悪い。大体ローズが家出をする原因を作ったのはお前だろう、レイドリック」

「…っ…」

 それを言われると辛い、とばかりに押し黙るレイドリックの向かいに、物憂げな仕草で腰を降ろす。そのデュオンの様子から何を感じたのか。ちらと、盗み見るような視線を投げて寄越した。

「……怒っているな、お前」

「心から笑っているように見えるなら、今すぐ医者の元へ行くことを薦めるよ」

 返される言葉の全てに棘が見える。

 普段ならのらりくらりと躱すレイドリックも、ことがことなだけに今はそれも出来ず、全てがまともに突き刺さる様子だ。それくらいの反応は見せて貰わなくては、とてもではないがローズマリーをあれほど泣かせた男を許せそうにない。

 とはいえ、いくら今は憎らしい男であってもレイドリックも、デュオンにとっては親友だ。ちくちくと虐めるような棘ばかりの会話をしていても仕方がないと、溜め息を付いて本題に入る。

 少なくとも昨日の今日で、すぐに足を運んできたことだけは及第点をくれてやろう。これで何の反応もなかったら、それこそ即刻、縁談の断り状を突きつけてやるところだ。

「それで、お前は何の為にここに来た? 今更ローズに何の用がある」

 言外に、結婚の話は無くなったのだろうと含めれば、それにもレイドリックは気付いたようで、酷く苦しげに表情を歪めて見せた。

「……彼女に謝りたくて来たんだ。……夕べ、俺は………ローズを傷付けたから」

「それで? あわよくば許して貰って、捨てないでくれと縋るつもりか? それともやっぱり君とは結婚出来ないことを許してくれと、より残酷な言葉を吐き出すつもりか?」

「そんなことは……!」

「レイドリック。はっきり言っておくが、ただ、自分が楽になりたいが為だけにローズに許しを得たいと言うのなら、二度とローズの元には来ないでくれ。ローズがお前の自己満足に付き合う義務はない、迷惑だ。あれは充分傷ついている、これ以上傷を広げようとしてくれるな」

「デュオン!」

「私は、お前にならローズを任せられると思ったから、エイベリー子爵の申し出を受け入れた。だがお前がローズを悲しませ、不幸にするのなら私はいつでも、お前を切り捨てるぞ。あれにはもっと、相応しい相手を探す」

 真っ直ぐに射貫くような視線を向けるデュオンの眼差しに何を感じたのだろうか。静かな怒りを向けて来る親友に気圧されたのか、あるいは昨夜自分を見上げ、大粒の涙を零した少女の顔を思い出したのか。

 笑った顔も、怒った顔も、拗ねたり照れる顔も、ローズマリーは実に表情豊かで、どんな表情も見ていて楽しいと思えるけれど、あんな泣き顔だけは例外だ。子供のように声を上げるのでなく、ただ静かに涙を零す泣き方を彼女はいつの間に身につけたのだろう。

 あんなふうに、泣かせるつもりではなかったんだ。

 小さく口の中で呟く言葉も、ただの言い訳にしか聞こえないと、自分でも自覚している。ただあの時は、あんな言葉しか出てこなかった。

 ローズマリーには、絶対に知られたくない過去の傷を知ろうとする彼女を遠ざけるために、わざと傷つくだろう言葉を選んだ自分の愚かさを、レイドリックは今、深く後悔している。

 どうしてあんなことを言ってしまったのか。多分自分は、彼女に甘えてしまったのだろう。ローズマリーなら、例え自分が何を言っても、仕方ない人だと呆れながらも、結局許してくれるだろうと。何も言わなくても、理解してくれるだろうと。

 これまでがそうだったから、今後もそうだと思い込んでしまっていたのだ、無意識のうちに。

 それがとんだ勘違いだと思い知らされて、想像以上に動揺している自分がいる。ローズマリーがこれまで黙っていたのは、理解してくれていたのではなく、ただ自分の心を憚って、黙っていてくれていただけだ。

 とにかく一刻も早く謝罪したくて訪れた男爵邸だったが、デュオンの言葉はレイドリックに頭から冷水を浴びせるような、辛辣な、けれど兄として充分納得出来てしまうものだ。

 多分自分が同じ立場だったら、相手の男を許せないだろう。

「なあ、レイドリック。お前はもう、ここで終わるのか?」

 視線を上げたレイドリックの瞳は、デュオンがこれまで見たこともないほどに揺らいでいた。問いに答えたくても、自分でもその答えが判らないと途方に暮れているようにも見える。

 どうやら妹にも時間が必要だが、この親友にも同じように時間が必要であるらしい。自分の心を、見つめ直すための時間が。

「とにかく今日はもう帰れ。今のお前と話しても埒が明かない」

「デュオン…」

「縁談については今年のシーズンが終わるまでは結論を出すのを待ってやる。ただ、いつまでも時間をくれてやると思うなよ、お前では駄目だと思ったら、すぐにでも破談にする用意は出来ていることを忘れるな」

 無言のまま、目礼だけを残してレイドリックは立ち去って行った。友人の背を見送ることもせず、ソファに腰を降ろしたままデュオンは深い溜め息をつく。

「全く、幾つになっても不器用な男だ。……臆病者め」

 それでもレイドリックを完全に憎むことが出来ないのは、これまでの付き合いも勿論だが、結局はデュオン自身が、レイドリックという幼馴染みを気に入っているからだ。そして願ってもいる。

 いつか彼が過去から立ち直り、前を向いてくれることを、妹の幸せを願う気持ちの次くらいには強い気持ちで。

 いずれにしても兄という立場は、傍観者でしかない。どうにかするのは当人同士であり、自分に出来ることは限度がある。それを歯がゆく思うが、いつかは妹は自分の手から離れていく存在だ。

 いつまでも、自分が守ってやれるわけではない。だからこそ願うのだ、あの臆病な騎士が妹の生涯の伴侶に相応しい男に、なってくれることを。ゆくゆくは彼を妹の夫にと考えていたのは、何も彼の父親だけではない。

 それこそ今更、他の男を捜す気になど、なれるわけもないのだから。




 その日の夕方、ハッシュラーザ侯爵家のローズマリー宛てに、小さな花束が届けられた。

 差し出し人の名はない。届けた者も、ただ頼まれたからと言うだけで、依頼人の名を聞かされてはいないらしい。

 それでもエリザベスにも、そして花束を受け取ったローズマリーにも、その相手が誰かはすぐに判った。特にローズマリーには……自分と同じ名の花を束ねた贈り物に、子供の頃の記憶が蘇る。

 あの時も、彼は言葉の代わりに小さなブーケを一つ残して行った。あの時と全く同じだ。面と向かって言葉では伝えられない、謝罪する彼の気持ちが伝わって来る。

「……ずるいわ、こんなの……」

 また、涙が浮かんだ。今の自分は、ちょっとしたことでもすぐに泣いてばかりだ。

 終わりにするのなら、きっぱりと終わらせてくれればいいのに。こんなことをされると、馬鹿な自分はまた、期待してしまう。そして再度実感してしまうのだ。

 こんなことになっても、まだ彼を好きで。決して、嫌うことは出来ないのだと……

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