第六章 壊れる時 3
ガーデン・パーティ、そして先日のパーティで出会った令嬢の方が、よほど自分の姿をレイドリックの視界に入れようと、精一杯の努力をしていたように思う。その彼女の言葉を思い出す。
幼馴染みだと言うだけで……本当にその通りだ。今なら彼女の言うことも、その意味も良く判る、痛いと言うほどに。彼女のように努力をしていた人から見れば、自分のような存在は憎らしくて仕方ないだろう。
あの時はただ、煩わしく感じただけだったけれど、今思えば自分がどれ程傲慢になっていたかが判る。きっと自分では微笑んでいるつもりでも、彼女たちの目からすれば、自分はあなたたちとは違うのだと言わんばかりな様子に見えたことだろう。
多分きっと、ローズマリーが逆の立場になれば、やっぱり同じように思うに決まっている。ただ小さな頃からの幼馴染みだと言うだけで、何の努力もせずに自分の好きな人の隣に我が物顔で立たれては、腹立たしく思って当たり前だ。
痛む頭と、息苦しい胸を落ち着けさせるように、目を閉じて数度、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
今からでも間に合うだろうかと思った。努力をしていなかったと後悔するのなら、これからその努力を始めても良いだろうか。
出来れば結婚する前に、彼との間に揺るがない絆が欲しかったけれど、その絆は結婚してからでも作って行くことはきっと出来るはずだ。
一方通行は悲しいだの、切ないだのと感傷に浸って立ち止まるくらいなら、今自分に出来ることを探して少しでも前に進んだ方が良い。今この時に、彼から愛の言葉が聞けなくても、一年、二年先…それが無理なら、十年、二十年先でも良いのではないだろうか。
過去を振り返って気にするよりも、これから先の未来を見ていこう。
そう言うやり方も、多分存在するはずだ。
正直に言えば、自分がそれほど長い時間耐えられるだろうかとか、ではどうすれば良いのかの方法などは、まだ何も思い付かない。自分の考えていることは、やっぱり世間知らずな箱入り娘の考える、甘い理想なのかもしれない。
それでも、今、他にどうすれば良いのかなどローズマリーには判らない。自分が良いと思ったことをしていくしかないのだ。
頭痛も胸の苦しさも、先程に比べれば幾分和らいだものの、まだこの身に残っている。それらの不調を堪えて、ベンチから立ち上がった。どちらにしても、いつまでもここに逃げ込んでいる訳にも行かない。
レイドリックの元へ戻ろう。そして彼に、結婚すると告げよう。
つまらない意地を張って後で後悔するなら、出来るだけのことをして後悔した方が良い。家族も、彼の両親も、自分達のことには期待している…その期待に応えたい。
きっと幸せになれる。幸せになろうと覚悟を決めて顔を上げた。心の何処かで、「本当にそれでいいの?」と疑問を投げかける、自分自身の声には耳を塞いで。
そのまま身を翻し、ホールへと戻ろうとしたローズマリーは、けれどその途中で足を止めてしまうことになる。
歩くことに何か不都合があったわけではない。ただ、自分の目の前に、一人の人物が立っていただけだ。
見覚えのある人物だった。相手も、ローズマリーと目が合って、一瞬驚いたように目を丸くしてから、すぐに品の良い笑みを浮かべて寄越す。
「こんばんは、ミス・ノーク。良い夜ですね」
「……こんばんは、ボリス様。いらっしゃっていたんですね、知らずにご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません」
つい先程までの心の葛藤を、必死に押し隠してローズマリーも笑った。
レイドリックの友人である彼に、何かあったのではと気取られるような反応を見せてはいけない。親しい友人だからこそ尚更に、この結婚に何か問題があるのではと思われたくなかった。
見栄だと言われればその通りだ。つまらない意地だと思うが、咄嗟に張ってしまったものは仕方がない。
そうしたローズマリーの努力のお陰か、ボリスは何も気付く様子はなく、以前と同じように微笑みながら、こちらへと近づいて来る。
「いえ、私も兄の代理で急にこちらに出席することが決まりましたので。レイドリックも知らないはずです。こちらからご挨拶に行こうと思っていたのですが、エリオス卿やレディ・エリザベスとご一緒のところでは、少し気が引けてしまって」
確かにあの豪華な二人が相手では、堂々としていられる者の方が少ないのかもしれない。ローズマリーも、友人であるエリザベスには普通に接することが出来ても、彼女の幼馴染みであるエリオスの姿を見ると、自然と身体が萎縮してしまう。
彼とは今夜初めてまともに顔を合わせ、思ったよりも気さくな人なのかとは感じたが、それ以上に何というか独特の身が引き締まるような雰囲気がする人だと思う。レイドリックやエリザベスがすぐ傍にいなければきっと、目を合わせることも出来なかっただろう。
「こんなところでどうなさったんですか? レイドリックは一緒では?」
ボリスの視線がローズマリーの周囲を見回す。いつも彼と会う時は、すぐ傍にいるはずの友人の姿がないことを不思議に思っている様子なのが手に取るように判って、内心チクリとした痛みを覚えながら、曖昧に笑って見せた。
「豪華なパーティに少し緊張しすぎて、気分が悪くなってしまって……私一人で、少し外の空気に当たりに来たんです。レイドリックは会場内で待っていてくれているはずです」
「あなたを一人で外に? それは彼らしくないですね。……でもおかしいな、それではさっき見かけたのは人違いだったのかな」
「え?」
きょとんと首を傾げれば、相変わらず人を捜すように周囲を見回しながら、ボリスが答えた。
「いえ、実はつい先程、レイドリックがこちらの方に歩いて行く姿を見かけたもので、後を追ってきたのです。あなたを見かけて、てっきり一緒にいるものだと思ったのですが」
「いいえ、こちらには来ていませんわ」
つい先程までローズマリーは一人だった、それは間違いない。自分の様子を気に掛けて、彼が追って来てくれたとしても不思議ではないけれど……もしそうなら、今頃レイドリックは自分のすぐ傍にいるはずだ。
でも今ここに彼の姿がないのは、誰の目で見ても判ることだ。かと言ってボリスが、良く見慣れているはずのレイドリックの姿を見間違うとは、少し考えにくい。
ここに来ていないのだとしたら、一体どこへ。
疑問に思った時だった、ローズマリーがいた庭園の、右手の奥の方から風に乗って女性の声が聞こえてきたのは。聞こえた声は一瞬だったが、その声が確かにレイドリックと、彼の名を呼んだように聞こえた。
とたんにギクリとローズマリーの顔が強張った。女性の声は、共にいたボリスの耳にも聞こえたらしく、またローズマリーの表情の変化にも敏感に気付いた様子の彼が、とたんに「しまった」と言わんばかりの表情を浮かべる。
が、ローズマリーは既にボリスの方を見ていない。
周囲が、やけに静まり返っているように思えた。
実際にはさわさわと流れる風の音も、その風が揺らす木々の枝葉の音も、そして何より会場から聞こえて来る音楽や、人々の笑いさざめく声もしているはずなのに、急に世界が音を失ったかのように感じられた。
そうして、他の全ての音を除外するとそれまで聞こえていなかった、男女の微かな声が聞こえてくる。
「ミス・ノーク…」
心なしか慌てたように制止するボリスにも気付かないまま、唯一聞こえて来る声に誘われるように彼に背を向けて、ゆっくりと右手の奥へと向かったローズマリーは、いくらもしないうちにその足を止めた。
目的の人物はすぐに見つけられる。少し奥まった場所で、人目から逃れるように向かい合う二人がいた。
丁度会場となっているホールからは木立やバラの生け垣に囲まれ、死角になる位置で、偶然先程の声を聞かなければここに人がいるとは、なかなか気付かないような場所だ。
そんな風に人目を忍んで顔を合わせる男女の会合に、偶然という言葉は存在しない。お互いに、あるいはどちらかから場所を示し合わなければ。
そう、二人はお互いに連絡を取り合って、この場所で会うと約束をしたのだと思うと、全身の血の気が引くような錯覚を覚える。頭から、足元まで一気に冷えていく感覚にぐらりと揺れた自分の身体が、その場に倒れず立っていられることが不思議だった。
近くに寄れば寄るほどに、次第にはっきりと聞こえて来る声は途切れ途切れで、ローズマリーの位置からでは会話の内容までは、上手く聞き取れない。
けれど、二人の何か尋常ではない様子は判る。
ルイーザは泣いているのか、しきりに何度も己の目元を拭い、声を震わせている。鈴を振るような声、と美しい女性の声を表現する言葉があるが、彼女の声はまさしくその表現に相応しい響きに聞こえた。
とはいえ、今のローズマリーには彼女の美しい声も、まるで教会の葬儀を告げる重苦しく響く鐘の音のようだ。
辛うじて聞きとれた彼女の言葉は、ごめんなさいと謝罪しているようで、それに対してレイドリックは固い表情のまま身じろぎしない。けれど目の前で涙を流すルイーザを、撥ね付けることも出来ない様子でいる。
その内に、背を向けようとするレイドリックの腕をルイーザが強引に掴んで、感極まった嗚咽を上げて、彼の胸に飛び込む姿が見えた。
ローズマリーが黙って見てられたのはここまでだ。ずきりと心臓を素手で掴まれたかのような痛みに耐えられず、大きく身体が揺らぎ、一歩後ろに後ずさる。その時に左腕を近くのバラの生け垣に突っ込んでしまったらしく、生け垣の中で突き出たバラの鋭い棘が肌に食い込んだ。
「…っ」
痛みに視界が潤んだ。でもその痛みは、腕よりも心の方が痛い。
ガサリと響いた音に振り返った二人は、ハッとした表情でこちらを見つめ……そして酷く罰の悪い顔をする。
秘密にしていたことが知られてしまった人達の顔だと思った。そんな、彼の顔などとてもではないが、見ていられない。
棘が肌に触れているにも関わらず、無理矢理に生け垣の中から腕を引き抜き、文字通り逃げるようにドレスの裾を持ち上げて背を向けた。
「ローズ…!」
舞踏会のホールで背を向けた時よりも、切羽詰まったレイドリックの声が背を追ってくるけれど、振り返らなかった。ずきずきと傷む胸も、ぴりぴりとした痛みを訴える腕も、ガンガンと響く頭痛も、何もかもが煩わしくて、何もかもが痛くて、痛みで頭の中が飽和するようだった。
「ローズ、待ってくれ!」
一刻も早くこの場から離れたいのに、いくらも走らない内に後ろから追ってきたレイドリックに肩を掴まれ、強引に振り向かされる。今、走るには相応しくない、踵の高い小さな靴を履いていることが無性に悔しくてならない。
引き留められ、振り向かされても視線を合わせようとしないローズマリーの様子に、一瞬だけレイドリックは息を飲んだようだ。
彼なりに不味いところを目撃されてしまった、という負い目もあるのだろう。
張り詰めた空気を前に、すぐには互いに言葉を吐き出すことも出来ず、何か今すぐにでも崩れてしまいそうな繊細なものが目の前に存在しているかのような気にさせられる。
無言のまま、レイドリックが胸元から引き抜いたハンカチを、ローズマリーの左腕に押し当てた。
既に身体も心もあちこちが痛いのに、触れられると新たな傷みが生まれるようで、涙が零れそうになる。
必死に奥歯を噛み締めて、涙を堪えながら見やった自分の左腕は、幾つものバラの刺で無惨なひっかき傷が出来ていた。
中にはうっすらと血が滲んでいるところもあり……傷一つ無かった、白く華奢な腕に走る傷は他者から見れば随分と痛々しいものに見えただろう。
まるで今のローズマリーの心のようだと思った。
どうしてこんなことになっているのだろう。どうしてこうも上手く行かないのだろう。
つい先程、彼との結婚を決め、愛される努力をしようと覚悟したばかりなのに、もうその心が揺らいでいる。
結局自分は、どんなに頑張ってみても他の令嬢達と同じように、彼の心には触れられないのかも知れないと、思い始めている。ルイーザに対しての、嫉妬のような苛立ちのような、憎しみさえこれまで以上に膨れあがる思いだ。
過去のことを気にするのは止めようと決めたはずなのに………
ローズマリーの腕に巻き付けられたハンカチが、レイドリックの指先によって端を結び付けられる。
ドレス姿で腕にハンカチを巻き付けた姿は、余りにも不釣り合いで不格好だったが、今は他にどうしようもない。
やっぱり、今の自分の心そっくりだと思った。傷だらけになってしまったところも、痛みを発して止まないところも、そして何とか手当をしても不格好でしかない姿も。
「ローズ…」
レイドリック自身も、何かを言おうとして、けれど言いあぐねた様子で口を閉ざす。いつも飄々としている彼もさすがに今は、軽い言葉で誤魔化せるような雰囲気ではないと察しているようで、二人の間の張り詰めた空気は変わらないままだ。
恐らくルイーザをその場に残し、ローズマリーの後をすぐに追ってくれたことに対しては、少なからずホッとした。
まだ自分は、彼にとってその程度の重みはある存在らしいと。でもそれ以上に、今のローズマリーには込み上げて来る感情がある。




