第四章 振り返る過去 3
あの夜のレイドリックの涙の理由は、今も判らないままだ。
いつ眠りについたのかも判らない程、泣きながら眠って目が覚めた朝には、もうレイドリックの姿は子爵邸からなくなっていた。何でもローズマリーが起き出すよりも早い、まだ夜が明けたばかりの頃に騎士団へと戻って行ったらしい。
長く留守にすればそれだけ、他の従騎士達に遅れを取るから、という理由で。
そうした息子の、薄情とも言える行動を何故か彼の両親は、咎めることはなかった。姉のエミリアも少し寂しそうに微笑むだけで。今思えば彼の家族は、あの時のレイドリックの様子がおかしかったことも、その理由も知っていたのかも知れない。
きっとそうなのだろうと思う。例え離れて暮らしているにしろ、エイベリー子爵家は仲の良い家族だ。父も、母も、姉も…ローズマリーに気付いたことに、彼らが気付かないはずはない。知った上で、あの時は息子の気が済むようにさせていたのだろう。
折角綺麗にして、来てくれたのにごめんなさいね、とエミリアは、泣いて真っ赤になったローズマリーの目元の腫れに、気付かないフリをしてその手に小さなブーケを握らせてくれる。
ローズマリーの花で作られた薫り高いそのブーケを見て、また泣きたくなったことを覚えている。彼が騎士になると言い出した日、部屋に閉じこもってしまった夜にも、彼は同じブーケを持って部屋を尋ねてくれた。
それから後も、何度も何度も。
いつも花と彼は一緒だったのに。今は、このブーケだけ。
姉に託したこのブーケが、彼なりの「ごめんなさい」の合図であることは、幼いローズマリーにも察することは出来た。他のことで頭をいっぱいにしながらも、それでも気に掛けてくれた証拠だと言えるけれど……それよりも、ただ、彼が自分を見て、そして微笑んでくれれば………それだけで良かったのに。
それから年数は過ぎても、あの時の一人取り残された思いは今もまだ、ローズマリーの胸の内に残っている。ただ今は、彼女ももう大人と呼ばれる年齢になって、胸の奥に隠す手段を覚えただけのことだ。
あれからレイドリックは休暇の時にも、実家に戻ってくることは殆ど無くなった。兄とは時折王都や社交界で顔を合わせ、行動を共にすることもあったようだが、まだ社交界デビュー前だったローズマリーにはそんな機会など無い。
殆ど会うことも無くなって、手紙やカードのやりとりも途絶え、疎遠になって……どんなに親しく付き合っていた幼馴染みでも、その関係が頼りないものになることなどあっけない程簡単だ。
ローズマリーも成長と共に、彼女自身の世界が広がったこともあり、もうレイドリックが自分の世界の殆どを占めるような存在ではなくなった。以前のように、彼に会いたいと口に出すことも無くなったし、彼女は彼女で独自の新たな人間関係が形成されて行く。
兄から、レイドリックが無事に騎士としての叙勲を受けたと聞いた時には、祝いの品とメッセージカードを送ったし、戦場に赴くと聞けばその都度、無事な帰りを願うカードを送ったけれど、表立ってしたことはそれだけだ。
重荷にはなりたくないと彼からの丁寧だけれど形式的な返礼のメッセージに、返事を返すようなことはしなかった。
ただ、無事に帰ってくることだけを毎日祈り、無事に帰ってきたと耳にした時には心底安堵して、一人でどこにいるとも知れない神へと感謝の言葉を告げる日々が続く。
以前と同じようでいて、どこか女性に不誠実な言動を見せ始めたのもその頃だ。
彼の華々しい女性との間の噂話は、既にローズマリーの耳にも届くようになっており、聞けば、彼と女性との噂はあの夜の少し後から既に噂されるようになっていたらしい。
それがまだ、誰か特定の令嬢とのロマンスであれば、若い青年のこと、何も非難されることはなかっただろうに……不特定多数が相手であればそうはいかない。華やかな女性遍歴に、若い内の恋愛はしておくものだとおおらかに笑うものもいるけれど、当然眉を顰めるものもいる。
ローズマリーは後者の方だ。
以前は不特定多数どころか、特定の女性と噂になるような真似は相手の女性の不名誉にもなりかねないからと、注意深く避けていたはずなのに、まるであの時から彼の中の何かが変わってしまったかのようだ。
聞こえて来る噂は、ローズマリーの知っているレイドリック・エイベリーという幼馴染みのものとは思えなかった。
あの夜からまともに彼と顔を合わせたのは、今から二年前の、父が亡くなった時のことで、騎士の正装に身を包み葬儀に訪れた彼を見た時に、まるで知らない他人のようだと感じる自分の印象が嘘のようだった。
再びレイドリックが、度々男爵家に顔を出すようになったのは、それからだ。彼の父のエイベリー子爵もそうだったが、気落ちした母やローズマリー、そして逆にこれからは自分が家長なのだと気負う兄の姿が気がかりだったらしい。
父の葬儀の時にはさすがに自重したのか、軽々しい言動を見せることもなく神妙に弔問を述べていたけれど、彼の社交界での噂がどうやら嘘ではないと知るのには、そう長い時間は掛からない。
元々、華やかな容姿の青年ではあった。口調も柔らかく、耳障りなほどに言葉を荒げることも滅多に無いため、女性受けは良いタイプだろうとは思う。他人の心の機微に敏く、さらりと好意を言葉にすることも躊躇わない。
けれども昔とは違い、その言葉には真実味がない。軽々しいその場限りの言葉が多く感じられ、耳障りの良い言葉を並べては、女性を舞い上がらせることは得意でも、その言葉は心に残らない。
真面目な話をしていても、すぐに茶化して話題の重さを軽くすり替えてしまう。まるで彼自身が、そう言った重みのある会話を避けているかのようだ。
先日の、御前試合の時もそうだった。
明らかにあの時顔を合わせた、ボローワ伯爵夫人、ルイーザと過去に何かがあったのではと思わせるのに、彼は何でも無いと笑ってそれ以上のローズマリーの追求を封じてしまう。
やんわりと、そしてはっきりと。
それ以上、踏み込んで来るなと。
まるで六年前のあの夜のようだと思った。だから今、余計にこんな風にもう過ぎてしまった過去のことをあれこれと思い返してしまうのだろう。
けれど、あの時と今とでは自分達の関係は違う。どんなに親しくてもただの幼馴染みだった昔と、お互い不本意とは言えど結婚話が出ている、一応世間では婚約者同士と見られている今と。
縁談が出てから、今まで何度となく彼との未来を想像してみた。
お互いに兄のように、妹のように思っていた幼馴染みを、すぐに夫や妻として見ることはやはり時間が掛かるかも知れない。それでも、縁談が出てすぐの頃はともかく、一応の努力をしている今は、そう荒唐無稽な話でもないのかと思えるようになっていた。
夫となれば、少なくとも渡り鳥などと言う不名誉な異名が煽られるような行為は、きっと慎んでくれるだろう。その程度の良識はある人だと信じたい。
子供が出来ても、多分彼は優しい良い父親になる。
物語で読んで憧れるような、激しく燃えるような恋愛関係、とは行かないまでも、特別大きな波乱もないような、穏やかな家庭が作れるかも知れない。それもまた、一つの幸せだろうと思える。
でも………そうした想像するような穏やかな未来は、多分今のままでは無理だ。自分達が共に生きる為には、お互いの感情や環境とは別に片付けなければならない問題があって、その問題は多分レイドリックの心の中にある。
昔は触れることも許されなかったその問題を、結婚するとなれば見て見ぬフリはローズマリーには出来ない。彼の全てを知りたい、等とは言わないけれど、夫婦となるからには相応の信頼関係は欲しい。
そう言う意味で、ローズマリーは、まだ完全にレイドリックを信じることが出来ないでいる。幼馴染みとしては信用している。人としてもそう悪い人ではないと知っている。でも異性としてとなると……今の彼は、どこか危うい。
ローズマリーにはまだ、その彼の危うさに触れる勇気と覚悟が持てないでいる。中途半端な気持ちで踏み込むならば、いっそ知らない振りをする方がまだマシだ。それは多分、とても空しくなるだろうけれども。
自分はどうしたら良いのだろう、どうしたいのだろう。
答えはまだ、深い闇の中に沈んでいるようだった―――――
ルイーザ・ボローワ伯爵夫人という女性は、どうやら社交界ではそれなりに名の知れた人であるらしいと、ローズマリーが知ったのは御前試合で初めて顔を合わせてから一週間後、エリザベスに誘われて出掛けたとある貴族のサロンでのことだった。
貴族…特に夫人や令嬢達にとって他人の噂話は、恰好の娯楽の一つだ。
男性よりもすべきことの少ない多くの貴族女性は暇を持てあましており、常に目新しいこと、面白いことを探し求める彼女たちの噂のネットワークは驚く程に早い。
レイドリックとローズマリーの婚約話も瞬く間の内に広がっていて、今ではもう抵抗もせずに、肯定も否定もしないまま沈黙することにしている。
ローズマリーの年齢になれば縁談など出て当たり前。
その相手が渡り鳥の君と名高いレイドリックというのは、少々色めき立つ要素でもあるが、二人の関係が幼い頃からの幼馴染みという関係であれば、身分的にも状況的にも無理のない縁談だと納得される。
時折知らない令嬢から睨まれたり、ことさら聞こえる様に嫌味を言われたり、当てこすられたりという被害はあるものの、にっこり微笑んで堂々としていれば、これと言った実害はない……はずだったのだけども。
「ねえ、ご存じ? ボローワ伯爵夫人は、ご結婚前にレイドリック卿と随分親密でいらっしゃったらしいわ」
曰く、まだレイドリックは従騎士で、ルイーザも独身だった頃の話だそうだ。
社交界デビューしたばかりの初々しい二人の噂は、当時一部の人の間では有名だったらしいと。
そう言ってにっこりと微笑んだ令嬢の瞳に、小さな悪意と好奇心が見える。婚約者の昔の話を聞いてローズマリーがどんな反応を示すのか、期待しているらしい。悪趣味だと思いつつも、彼女程度の行為は可愛いものだ。
他にも内心面白く思っていない女性が多いことくらい、最初から承知している。
レイドリックの貴族としての階級は、若い令嬢が目の色を変えて恋の相手にするほどに、高いものではない。いずれ子爵家を継ぐことが約束されてはいても、貴族としてはそう身分が高い方でも無い。
正式な場ではエイベリー家が持つ第二の爵位、ハーグリー男爵を名乗ることもあるが、彼自身が持つ一番のステータスは王宮騎士であると言う点のはずだ。
下級貴族や、爵位に強い憧れを持つ、中層階級の人々ならばいざ知らず、取り立てて目立ったうまみは感じられないだろう。
それでもレイドリックの人気が若い令嬢を始め、多くの女性の間で高いのは、彼自身の魅力によるものだ。整った見目は勿論だが、甘く優しい口調や声は、夢見がちな女性から、男性に対する警戒心や猛々しいイメージを払拭して余りあるものだ。
幼い頃からローズマリーという年下の少女を相手にしていたせいか、彼の口調は時折女性を甘やかす響きも感じられる。それが堪らなく感じる令嬢も多いらしい。
それに彼自身、女性との付き合いに躊躇いを持たない。誘われれば誘われるままに、逃げられれば追わずに微笑んで見送る。
レイドリックと親しくなりたい女性は、勇気を持って声を掛ければ、あるいは彼に声を掛けられるポジションを意識すれば、少なくとも言葉の一つや二つ交わすことは容易である、と教えてくれたのは他の誰でもない、親友のエリザベスからだ。
今はローズマリーとの話もあり、彼もそう言った行動は随分控えているようだけれど、以前は楽しく会話が出来ていたのに、突然現れた婚約者に対する配慮だかなんだかで、一線を引かれた令嬢達にははなはだ、面白くない状況だろう……とも。
今の令嬢の話は、そうした意味でのささやかな意趣返しだろう。でも彼女の話を聞いてもローズマリーはあまり驚かなかった。その噂話は今初めて聞いたけれど、何となく御前試合の時から、そうであっても不思議はないような雰囲気は感じ取っていたから。
あの時にはまさか既婚者と、と考えることを止めたけれど、当時はルイーザも独身だったのであれば、二人の間に大きな障害は無かっただろう。少なくとも見た目的には。
一瞬目を見張るほど、美しい女性だったと今でも思う。未亡人という呼称が付加価値として、余計に色気を感じさせるのかもしれない。頭の中で、レイドリックとルイーザの二人を並べて見ても、違和感はない。
美男美女、良くお似合いだ。多分、ローズマリーが彼の隣に並ぶよりも、ずっと。
そこまで考えて、ちりっと胸の奥で無視出来ない不快感を感じたのを、綺麗に押し隠してローズマリーは微笑んだ。
「いいえ、知りませんでしたわ。レイドリックは、過去は過去、今は今だからと、あまり自分の過去のお付き合いについては、お話してくれませんの」
ただ言い逃れられ誤魔化されているのか、あるいは、過去の女性よりも今の君の方が大切だと囁かれているのか、どちらとも取れる言い方だ。
案の定令嬢は少し迷った様子を見せ、そしてふんわりと微笑んでいるローズマリーの顔を見て、後者の方だと判断したのか、少しばかり面白くなさそうに眉を顰める。
「……そう。ローズマリー様はとてもお幸せで、大切にされていらっしゃいますのね」
つい最近も耳にした言葉だ。御前試合の後での、ボローワ伯爵夫人からレイドリックへ投げかけられた言葉。あの時、レイドリックは答えなかった。
幸せか、と今度は自分が真っ正面から問われると、ローズマリーにもすぐには答えられない。恐らく自分は、とても幸せな環境に身を置いているほどに恵まれた娘なのだろうと思うけれど……それを、明確に自分自身が感じるかどうかはまた、別の話だ。
けれど大切にされているのかと問われれば、これには答えられる。
「……そうですね。そうなのだと思います」
今も昔も、例え疎遠になっていた頃でも…レイドリックは意図的に、ローズマリーに冷たくしたことも、ないがしろにしたこともない。あの日の夜でさえ、自分自身のことで精一杯の様子だったのに、泣いているだろうローズマリーのことを考えて、姉に謝罪のブーケを託した程だ。
縁談の話が出てからも、軽口は叩いても、彼なりにローズマリーを婚約者に見ようと努力する姿勢は伝わって来る。でもだからこそ余計に、自然と生まれる行動ではなく、努力により成り立つ、彼の恋人に対するような言動が、今は少し辛い。
自分はレイドリックに何を望んでいるのだろう。
これならばいっそ、ローズマリーの意思など無関係で命じられる、政略結婚の方がまだ、貴族の娘の役目だとすんなり受け入れられたかもしれないとさえ、思ってしまう自分が嫌だった。
それと気付かれないように、そっと瞳を伏せる。そんなローズマリーの様子を横目で見つめ、エリザベスが「何かあったのかしら?」と問いかけてきたのは、令嬢達とのお茶会を終えて、屋敷へと戻る帰路の馬車の中でのことだった。




