第八話 必ず持って帰ってきな!
「な、何だい、一体!」
馬車の停まる音と馬の嘶きに驚いて出てきたのは母ちゃんだった。馬車はそれほど珍しいというわけではなかったが、うちの前に停まるのは滅多にないことだ。
「ヒコザ! あんた何だって馬車なんかから……」
いつものように母ちゃんお得意の捲し立てが始まるのかと思ったが、すぐ後ろから続いて降りてきたユキさんに気付いて静かになった。ところで母ちゃんはどこかに出かけていたようである。よそ行きを着ていたから分かったのだが、そのお陰で今回はユキさんを見ても慌てて着替えに家に駆け込むことはなかった。
「おや、男爵様のお嬢様も一緒だったのかい。遠慮せずにどうぞ上がって下さいな」
「お久しぶりです、お母様」
「あら、やだよう、お母様だなんて。照れるじゃないか。ところでそちらの方は?」
ユキさんの後から降りてきたのは男爵閣下だったが、母ちゃんは閣下と面識がない。母ちゃんにしてみればまさか閣下本人がこんなところに来るなどとは夢にも思っていないはずである。
「お初にお目にかかる。あなたがヒコザ君の母君ですな?」
「ははぎみ? あ、ああ、そうだよ。ヒコザは私の子供さね。してアンタは?」
「これは申し遅れましたな。私はタノクラ・サキノスケ、ユキの父親です」
「そうかい、お嬢様の父親……父親……ってまさか、男爵様!」
母ちゃんの顔から見る見る血の気が引いていくのが分かった。
「だ、男爵様! もしやうちのバカ息子がまた何かしでかしたのでしょうか? 本当に申し訳ございません! ほら、ヒコザ何してるんだい、アンタも早く謝んな!」
「痛いよ、母ちゃん」
例の如く電光石火で俺の首根っこを捕まえる母ちゃん。一体俺は母ちゃんにどんな息子だと思われているんだか。そんな様子を見てユキさんはクスクスと笑っている。ユキさん、何とか言ってよ。
「ああ、いやいや、ヒコザ君は何もしていないから安心して下さい」
「何もしていない……何もしてないのかいアンタ! 馬鹿だねアンタは。どうして何もしてないんだい! とにかく謝るんだよ!」
「いや、母ちゃん、だから俺何も悪いことしてないから」
「じゃなんで男爵様がこんなところに来なさるのさ!」
「母君、実は折り入ってお話がありましてな」
母ちゃんの人の話を聞かない性格は何とかならないものなのだろうか。この後も何度かこんなやり取りがあって、ようやく本題に入れたのは馬車を停めてから三十分近く経った後だった。
「うちのバカ息子がタケダ王国へねえ。こんなバカがお役に立つならどうぞどこにでも連れていって下さいな」
母ちゃん、あんまり自分の息子のことをバカバカ言ってくれるなよ。そのバカを産んだのは母ちゃんなんだぜ。
「母君、数日あるいはもう少し長く帰れないことになりますがよろしいのですな?」
「構いませんとも。そのままあっちに住み着いてもいいくらいですよ」
「か、母ちゃん……」
変なこと言うなよ。帰れなくなったらどうするんだって。
「無事でいてさえくれればね」
「か……母ちゃん……」
この一言、今までの母ちゃんの言葉でぐっときたのは初めてだと思う。いきなりそんなこと言うから泣きそうになったじゃないか。
「お母様、ご安心下さい。ヒコザ先輩は私がしっかりとお護りしますから」
「お嬢様……これヒコザ! 女の子にこんなことを言わせて恥ずかしいと思わないのかい! シャキっとしな、シャキっと!」
それは常日頃から思ってるから改めて自覚させないでくれよ。それにユキさんは母ちゃんが思ってるほど弱くないから。
「母君、ご安心めされよ。ユキはこう見えても剣術の腕は確かなのです」
「男爵様、勿体ないことです。ヒコザ! 万が一の時はアンタが命に代えてもお嬢様をお護りするんだよ。分かったね!」
「わ、分かったよ」
母ちゃん、さっき言ったことと矛盾してるんだけど。
この後俺は旅支度を整え、母ちゃんに暫しの別れを告げた。と言うと少々大袈裟だが、国を出るのは我が家にとっては一大事なのだ。正直なところ俺も不安でしかないからね。ユキさんやアカネさんが一緒だとは言っても、市場に買い物に行くのとはわけが違う。そんなことを思いながら自分の家を眺めていると、母ちゃんが慌てた様子で飛び出してきた。
「ヒコザ、ヒコザ!」
「ど、どうしたんだよ母ちゃん、そんなに慌てて」
「これ、持って行きな」
言いながら母ちゃんは俺にお守りを手渡した。それは普通のお守りの半分くらいの大きさしかないが、この中にはコムロ家に代々伝わる護符が入っているのだと聞いたことがある。つまりは家宝とも言える代物だ。
「これって……」
「大事なものだから落とすんじゃないよ。そして必ず持って帰ってきな!」
「母ちゃん……」
母ちゃんはそのまま家の中に戻っていってしまった。俺には泣いているように見えなくもなかったが。
それから俺は再び馬車に乗り込んだ。出発に備えて今夜と明日の晩は閣下のお城に泊めてもらうことになっていたのである。次第に遠くなる我が家とその向こうに連なる山々を眺めながら、知らない土地への旅立ちに一層の不安が俺の脳裏を過っていた。




