第六話 ここに戦の開始を宣されたものとする
対岸のシナノ軍が二町、約二百メートルのところまで迫った時、ヒデカツ軍は前衛の槍隊を残して後退を始めていた。川縁ギリギリまで詰めていた彼らは、そのままでは自分たちもシナノに足を踏み入れてしまう可能性があったからだ。
「よいか、奴らを全滅させる必要はない。とにかく川を渡らせ、戦を仕掛けたのがシナノだという証拠を押さえればいいのだ」
「一気に叩きつぶすのではないのですか?」
ヒデカツの言葉にイチクラが不思議そうな顔で尋ねる。
「このままシナノを取るのは容易い。しかし我らとて目の前の三千を叩いての城攻めでは余力がなくなるだろう。そうなればタケダの正面はコウフに向く」
「シナノには来ませんか?」
「いくらタケダの王が若僧でも、滅びた同盟国に兵を割くほど愚かではなかろう。それにそんなことをすればエンザンが手薄になる」
「なるほど。シナノを残しておけば同盟国にも気を配らなければなりませんからな」
「そうだ。シナノを落とすのは叔父貴がイサワを取り返してからでも遅くはない。イサワを叔父貴が取ればタケダとシナノは分断される。そうなればタケダもシナノに援軍を送ることが出来ないということだ」
だがその時、ヒデカツは子供を捕らえに行った者の帰りが遅いことに気が付いた。差し向けたのは拐かしを得意とする忍者である。命じたのは二日も前のことだ。たかが子供の拐かしに、彼がこれほど手こずるとは思えない。
「しくじりおったか」
しかし気にすることはないだろう。余興がなくなるのは残念だが、すでにシナノ軍は前進を始めている。後は奴らが国境の川を渡ってこちら側に足を踏み入れれば、今回の目的は達成されるのだ。
ところがそれまで足音を轟かせて向かってきていたシナノ軍の足が止まった。国境まではまだ一町ほどある。一体何が起こったのか。
「帝国軍に告ぐ! 貴様たちは同盟国であるタケダ王国との協定を破り、我が国に忍者を送り込んだ!」
「な、何だと!」
突然聞こえてきた声に、ヒデカツは思わず叫んでいた。いや、まさかそんなはずはない。たとえ送り込んだ忍者が捕まったとしても、彼は自害して決して身元を明かさないよう訓練されているからだ。
「キノシタ・ヒデカツ殿! この者が貴殿より差し向けられた忍者であることはすでに露見しておる!」
シナノ軍の前に出た男は、すでに事切れている忍者の死骸を放り投げた。
「何か申されることがあるなら聞こう!」
「致し方ない」
誰にも聞こえない声で呟くと、ヒデカツは自軍の前に出て叫ぶ。
「身に覚えのないこと! その者が我の遣わした者だという証拠を見せられよ」
「この者が白状したのだ! もはや言い逃れは出来ぬぞ!」
「そんなはずはない! もしその者が我が方の忍びの者であれば、自ら身元を喋るようなことはない!」
「それが喋ったのだ。拷問ではなく幻術にかかってな! この通り、この者の爪印が押された取り調べ書きもある!」
「な、幻術だと……!」
「さあ、ご返答召されよ!」
「うわあっ!」
その時、軍の背後から兵士の悲鳴が聞こえた。しかし自軍の兵士たちが邪魔で、何が起こっているのか全く見えない。
「何事か!」
「は、背後より野生のスノーウルフが!」
「何だと!」
今度は彼の目にもはっきりと見えた。白いスノーウルフの巨体が高く舞い上がり、兵士たちの中に飛び込んだのである。彼らは恐れのあまり我を忘れ、一目散に前方に駆け出してきていた。
「ぎゃあ!」
「ぐふぇ!」
スノーウルフの爪が、牙が、兵士たちに襲いかかる。しかも現れたのは一頭だけではないようだ。
「落ち着け! 体勢を立て直せ!」
ヒデカツの声も虚しく、彼もまた押し寄せる兵士たちに押されて、どんどん川縁に近づいていく。
「シナノの方々、見ての通りだ! 我らが国境を越えることを許せ!」
「ならん! 一歩でもその川を渡れば我らは貴国より侵略を受けたとし、すぐさま応戦する!」
「馬鹿な! スノーウルフが見えぬのか!」
「問答無用!」
そしてヒデカツの足はとうとう国境の川を渡りきってしまった。その時になって彼は気づいた。タケダにはスノーウルフを飼い慣らし、隊の一員として扱っている騎馬隊があると聞いたことがある。だとするとこのスノーウルフたちは野生などではない。これはシナノの謀である。
「者ども! このままシナノに攻め込むぞ!」
だが彼がそう叫んだ時、およそ三万の軍勢は深い霧に包まれていた。
「それで首尾は?」
「キノシタ・ヒデカツ率いる三万は壊滅。シナノの損害はなし。捕らえた捕虜は十数名」
「ヒデカツはどうした?」
「自刃したようにございます」
「そうか」
俺はその後皇帝に書状を認め、ヒデカツの亡骸と共にコウフに送り届けるよう命じた。敵とは言え、ヒデカツな皇帝の身内である。礼は尽くさねばなるまい。
だが、俺の書状にははっきりとこう書いてあった。
「度重なる帝国の非道、許すまじ。非は皇帝にあり。ここに戦の開始を宣されたものとする」




