身体が勝手に……
「俺はシリル。よろしくね、リシェルちゃん」
シリルと名乗った青年の声が、やわらかく耳を撫でる。
「えっと……シリル、さん……?」
おずおずと呼べば、彼はわずかに目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。
「ふふ、シリルでいいよ。でも……ずっとリシェルちゃんには“ブラン”って呼ばれていたから、なんだかくすぐったいな。ブランでも、好きに呼んで?」
「ん……じゃあ、シリル! よろしくね!」
言葉を交わせば、空気が自然とほぐれていく。
「でも、ブランは猫じゃなかったんだね。どうりで全部わかってるみたいだったんだ……」
そう言った瞬間、ふと胸に別の記憶がよぎる。
――ルークがブランに買ってくれた、あのご飯。
「あ、ペットフード……!」
「流石にあれはね、ちょっと困ったよ」
二人して吹き出してしまう。
「でも……どうして今日は、人間の姿で?」
「ああ、それは……」
言いよどむ。
小さく息を吸い、まっすぐに私を見つめてきた。
「ねえ、リシェルちゃん。――外に出てみない?」
どくん、と胸が跳ねた。
外の世界には興味がある。
けれど、それ以上に。
ルークがいちばん大事、嫌がることはしたくない。
「……ううん。行かないよ」
「ルークが、嫌がるから?」
「そんな気がするの。私は……ルークがいちばんだから」
「……ふたりして、同じなんだな」
シリルはぽつりと小さな声で、何かを呟いた。
「シリル? 何か言った?」
「いや、気にしないで。でも……リシェルちゃん、本当は外に興味あるよね?」
そう言って、そっと手を包みこんでくる。
その瞬間、温かさが脈の奥にまで沁みて、意識の膜がふわりと揺らぐ。
気づけば、足が勝手に前へ――。
「そう、いい子……」
身体が操られるように窓をくぐり、外気に触れた瞬間。
霧が晴れるように、意識が戻った。
「……やっぱり、帰る!」
シリルの手を振りほどき、踵を返す。
「リシェルちゃんっ!?」
慌てる声を背に、私は家の中へ戻り、荒い呼吸を整えた。
なんで、あんなふうに……。
まるで、わたしじゃないみたいだった。
――コン、コン。
窓から小さく音がした。
そこにいたのは、申し訳なさそうに眉を下げるシリル。
「ごめん。さっきは……リシェルちゃんが素直になれるように、魔法をかけちゃった」
「あ、そっか……よかった……」
じゃあ、さっきのは……私の意思じゃなかったんだね。
安堵が胸に広がる。
その時、安心して胸を撫で下ろすリシェルを見て、シリルは複雑な思いだった。
(魔法のせいだけじゃない。本当は――リシェルちゃんの中に“ほんの少し”でも願いがなければ、身体は動かないんだ……)
言葉にはしないまま、彼は苦く微笑んでいた。
ルークとリシェル。
互いに相手だけを見て、殻の中に閉じこもった二人。
それが幸せなのか、それとも歪なのか。
外から踏み込むべきではないとわかっているのに、どうしても胸がざわついた。
(……本当にそれで、幸せなの?)
でも、それでも……これ以上は何もできない。いや、口を出すべきではないのか。
きっと、二人の世界は変わらない。
「……君たちが、それで幸せならいいんだけどね」
「シリル……?」
「ううん、なんでもないよ。じゃあね、リシェルちゃん」
ひらりと背を向けた彼は、光の粒となって消えた。
その姿を見送りながら、なぜか――
“もう二度と会えない”
そんな予感だけが胸に残った。
その時だった。
ガチャリ。
家のどこかで、扉の鍵が回る音がした。
「……だれ?」
胸が一気に強く脈を打つ。
ルークが早く帰ってきたのかもしれない。
でも――違う“誰か”だったら?
無意識に、手元の指輪へ手が伸びた。
ルークがくれたもの。
それに触れていると安心する。
……“守ってくれるはず”だと、そう思えるから。
息を呑んで玄関の方を見ると、足音がこちらに近づいてくる。
コツ……コツ……。
やがて、部屋の扉がゆっくりと開いた。
現れたのは――
「リシェル。……何をしていたんだ?」
ルークだった。
完結が近いよ〜




