第9話 性別なんて些細なこと
バスルームから上がってきたレンは、茹でたての海老のように赤くなっていた。
だぼだぼのローブの代わりに身にまとっているのは、私が用意させたシルクのネグリジェ。
サイズは少し大きめで、華奢な肩が露わになり、鎖骨のラインが頼りなく浮き上がっている。
「……奥様。ご報告いたします」
背後で、マリアが少し気まずそうに、けれどプロとして淡々と告げる。
その手には、レンが着ていた煤けた男物の服が、洗濯籠へと隔離されていた。
「お風呂にお入れしようと服を脱がせましたところ……その、レン様は……」
「かわいい女の子だった、でしょう?」
私が先回りして答えると、マリアは目を丸くし、レンはビクリと肩を跳ねさせた。
濡れた銀髪から、雫がポタポタと絨毯に落ちる。
「知ってたのかよ……」
レンが消え入りそうな声で呟く。
その瞳は、怯えと恥辱に揺れていた。
アメジストの瞳が、あちこち泳いで定まらない。
「骨格、声帯の振動数、そして何より匂い。……隠せていると思ったのが不思議なくらいよ」
私はドレッサーの椅子を指差し、彼女を手招きした。
「座って。髪を乾かさないと、風邪を引くわ」
「……怒らないのか? 俺……いや、私が、嘘をついてたこと」
彼女は警戒したまま動かない。
魔術師塔という閉鎖社会において、「女」であることは弱点になりうる。
才能があればあるほど、嫉妬の対象になり、あるいは「産む道具」として見られる危険性すらある。だからこそ、彼女は男装という鎧で身を守り、虚勢を張って生きてきたのだ。
「怒る? まさか」
私は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄る。
石鹸と、湯上がりの湿った匂い。
強張る彼女の肩に手を置き、優しく椅子へと誘導した。
「嘘は、貴女が自分を守るために編み上げた『魔法』の一種でしょう? ……頑張ったわね。たった一人で、怖くて冷たい塔の中で」
タオルを頭に被せ、ワシャワシャと拭いてあげる。
彼女の体から力が抜けた。
拒絶されないとわかった途端、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「だって……女だと舐められるから。魔力が強くても、体力じゃ勝てないし、夜道も怖いし……だから、俺は……」
「もう、『俺』じゃなくていいわ」
私はドライヤー代わりの魔石(温風が出る高級品だ)を手に取り、彼女の銀髪を梳かした。
指通りが驚くほど良い。
本来なら、宝石のように手入れされるべき髪だ。
「ここでは、誰も貴女を傷つけない。ベルが追い払うし、マリアが鍵をかける。……そして私が、貴女を可愛がるもの」
「……あんた、物好きだな」
「審美眼があると言ってちょうだい」
髪が乾くと、それは月光を織り込んだ絹糸のように輝き始めた。
私は引き出しから、一本のリボンを取り出した。
深紅のベルベット。ローゼンタール家の色。
「ねえ、レン。魔法使いは契約にうるさいのでしょう?」
「……等価交換が原則だ」
「なら、契約しましょう」
私は彼女の髪をふわりと結い上げ、リボンを結んだ。
鏡の中で、私たちの目が合う。
そこに映っているのは、薄汚れた少年魔術師ではない。
フリルとレースに包まれ、頬を染めた、あどけない美少女だ。
「私は貴女に、安心して眠れるベッドと、好きなだけ実験できる場所とお金、そして美味しいご飯を提供するわ」
「……対価は?」
「貴女が、貴女らしくいること。……そして、たまに私のためだけに、その素敵な魔法を見せてくれること」
レンが息を呑む。
あまりに不釣り合いな(と彼女は思っている)契約内容。
けれど、私にとっては彼女の存在そのものが、国家予算級の価値がある。
「……それだけで、いいのか?」
「ええ。……ああ、あと一つ」
私は鏡越しに、彼女の首筋に顔を寄せた。
「二度と自分を『可愛くない』なんて言わないこと。……世界一可愛い魔法使いさん」
彼女の顔が、今度こそ限界まで赤くなった。
ネグリジェの裾をギュッと握りしめ、俯いて震えている。
恥ずかしいけれど、嬉しい。
否定されたくないけれど、肯定されるのがくすぐったい。
そんな複雑な感情の味が、彼女の全身から立ち上っている。
「……わかったよ。……契約、成立だ」
彼女は小さな声で、けれどはっきりと答えた。
「その代わり……責任、とれよな」
「あら、何のかしら?」
「男装やめて、こんな……ヒラヒラした格好にさせられたんだ。もう、塔には戻れないし、他の雇い主なんて見つからない」
「ふふ、望むところよ」
私は彼女の頭を撫でる。
「一生、私が面倒を見てあげる。……覚悟はおあり?」
レンは鏡の中の自分を見つめ、それから私を見て、初めてぎこちなく微笑んだ。
それは、年相応の少女の、花が咲くような笑顔だった。
「……うん。はい……レティ、様」
呼び方が変わった。
名前を呼ばれた瞬間、彼女の魔力がふわりと広がり、部屋の空気が温かくなった気がした。
彼女の心が、私に接続された証拠だ。
「さあ、もう遅いわ。今日は一緒に寝ましょう」
「えっ、一緒に!?」
「雷が鳴っているもの。怖くて眠れないでしょう?」
「こ、怖くない! 俺は……私は……!」
「はいはい、私が怖いのよ。だから添い寝して?」
全肯定論法による強制連行。
私は彼女の手を引き、天蓋付きのベッドへと潜り込んだ。
彼女は最初はカチコチに固まっていたが、私の体温と布団の柔らかさに触れると、抗えない睡魔に襲われたようだった。
数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始める。
私の胸元を、無意識にぎゅっと握りしめて。
「……おやすみ、レン」
私は彼女の額にキスを落とし、明かりを消した。
これで「内政」「防衛(騎士)」「火力(魔術師)」が揃った。
私の小さな王国は、着実に盤石になりつつある。
けれど。
私の直感は告げている。
この平穏は、嵐の前の静けさだと。
***
翌朝。
その予感は、けたたましいファンファーレと共に現実のものとなった。
「ローゼンタール侯爵夫人に告ぐ! 直ちに面会を許可せよ!」
屋敷の門前で響き渡る、甲高い少女の声。
窓から見下ろすと、そこには王家の紋章が入った馬車と、仁王立ちする小柄な影があった。
金髪の縦ロール。豪華すぎるドレス。そして、コンプレックスの塊のような吊り目。
この国の第二王女、ソフィア殿下だ。
「……あらあら」
私はベッドの中で伸びをする。
レンが寝ぼけ眼で「……うるさい」と私の腰に抱きついてくるのを撫でながら、私は苦笑した。
「拗らせたお姫様のお出ましか。……今日は一段と、甘やかし甲斐がありそうね」
私はレンを起こさないよう、そっとベッドを抜け出した。
新たな「迷子」を迎えに行く準備をしなくては。




