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第8話 天才は愛を知らない

屋敷の客間は、ピリピリとした静電気と、焦げたキャラメルのような匂いで満たされていた。

最高級の羽毛布団の上で、拾ってきた「彼」――天才魔術師は、警戒心剥き出しの猫のように背中を丸めている。


「……来るなと言っているだろ!」


少年のようで、しかしどこか艶のあるハスキーな声が響く。

彼を中心にして、半径二メートルほどの空間に、青白い光のドームが展開されていた。

魔術障壁バリア

物理的な干渉を拒絶し、触れる者を弾き飛ばす、孤独な拒絶の壁。


部屋の隅では、マリアとベルナデットが困り果てた顔をしている。


「奥様、どうしましょう。食事も着替えも拒否して、あの結界の中に閉じこもったままです」

「強引に突破することも可能ですが……部屋が半壊する恐れがあります」

「あら、乱暴ね」


私はワゴンを押して、二人の前を通り過ぎる。

銀のトレイには、温かいミルク粥と、蜂蜜をたっぷりかけた焼き林檎。


「部屋なんていくら壊れても直せるわ。でも、あの子の空腹は今しか満たせないのよ」


私は躊躇なく、青白い光の壁へと歩を進めた。


「おい! 正気か!? これは高密度の魔力壁だぞ! 触れれば神経が焼き切れる……!」


結界の中で、「彼」が叫ぶ。

その瞳は、脅しではなく純粋な恐怖で見開かれている。

自分が他人を傷つけてしまうことへの、深い怯え。


「ええ、知っているわ。……素敵な青色ね」


私は足を止めない。

バチッ、バチバチッ。

結界の表面が、私の侵入を阻もうとして火花を散らす。肌を刺すような痛み。空気が振動する音。

普通の人間なら、本能的な恐怖で足がすくむ場面だ。


けれど、私の頭脳はもう、この結界の構成式ソースコードの解析を終えていた。

これは攻撃用の魔法ではない。

『私に触れるな』『私を嫌わないで』という、悲痛な懇願が形になっただけの、脆いガラス細工だ。


「……少し痛そうね?」

「っ、痛いに決まってるだろ! 下がれよ! 俺は『呪われた神童』なんだぞ! 触れるもの皆傷つけるって、塔でも隔離されてたんだ!」


「彼」は必死に魔力をコントロールしようとする。

けれど、その手は小刻みに震え、呼吸は過呼吸気味だ。


「呪い? いいえ、違うわ」


私はワゴンを止め、結界の境界線に手を差し出した。

バチン!

強い衝撃が指先を弾く。けれど、私は微笑みを絶やさない。


「これは祝福されるべき『才能』よ。ただ、貴方の器に対して、中身が少しだけ溢れすぎているだけ」

「……なにを……」

「コップに水を注ぎすぎたら溢れるでしょう? 貴方は今、その溢れた水で溺れそうになっているのね」


私は一歩、強く踏み込んだ。

私の「全肯定」の意思オーラは、悪意に反応する防御システムを無効化する。

だって、私は貴方を傷つけに来たのではない。

ただ、貴方の濡れた髪を拭いてあげたいだけなのだから。


「やめろ……! 俺に近づくと、あんたも壊れるぞ!」

「私の心は壊れないわ」

「根拠がないだろ!」

「あるわ」


私は結界を、まるで薄いカーテンを開けるように、両手で引き裂いた。

パリン、と高い音がして、光の粒子が霧散する。


「――え?」


呆然とする「彼」の目の前。

私はベッドの縁に腰掛け、至近距離で彼の瞳を覗き込んだ。


「だって私、貴方が本当は『誰よりも優しい子』だと知っているから」


「……は?」


「さっき、結界の出力を下げたでしょう? 私が近づいた時、怪我をさせないように無意識に手加減していた。……本当に危険な魔術師なら、私はとっくに消し炭なっているはずね」


図星を突かれたのか、「彼」は言葉を失い、口をパクパクさせている。

その隙に、私は彼の頬に手を伸ばした。

すすで汚れた頬。けれど、その下の皮膚は驚くほど滑らかで、冷たい。


「ほら、やっぱり。……震えているじゃない」


「……っ、ちが、これは……」

「怖かったわね。自分の力が大きすぎて、誰も受け止めてくれなくて」


私は「彼」を、そっと抱き寄せた。

抵抗はなかった。

恐怖で張り詰めていた糸が、私の体温に触れた瞬間に切れたのだ。

だぼだぼのローブ越しに、華奢な肩の骨格と、ドクドクと早鐘を打つ心臓の音が伝わってくる。


「俺は……実験体だったんだ」


「彼」の顔が、私の胸元に埋もれる。

くぐもった声が、ポツリポツリと漏れ出した。


「魔力が多すぎるからって、親に捨てられて。塔の連中は、俺を『生きた爆弾』としてしか見なかった。……制御できない魔力は害悪だって、ずっと……」

「かわいそうに。見る目がない人たちね」


私は「彼」の手のひらを取った。

魔力の回路が焼き切れそうなほど酷使された、小さな手。

指先はボロボロで、インクと薬品の匂いが染み付いている。


「この手は、爆弾なんかじゃないわ。世界を変える奇跡を生み出す、魔法の手よ」

「……奇跡?」

「ええ。例えば……この冷たいスープを、一瞬で温めるような奇跡とかね」


私はワゴンからミルク粥の皿を取り、彼に持たせた。

彼は呆気にとられながらも、反射的に微弱な魔力を流す。

ふわり、と湯気が立った。


「ほら、素敵。電子レンジより便利だわ」

「……電子、なに?」

「私が元いたところの魔法の箱よ。……ね? 貴方の力は、人を幸せにできるの」


彼は温まった皿を見つめ、それから私を見上げた。

その瞳から、毒々しい警戒の色が消え、代わりに透明な涙が膜を張っている。


「……あんた、変な奴だな」

「よく言われるわ。さあ、冷めないうちに召し上がれ」


「彼」は躊躇いながらも、スプーンを口に運んだ。

一口食べた瞬間、その目が大きく見開かれる。

甘く煮込んだミルクと、蜂蜜の香り。

それは「彼」が研究塔で食べていた、味気ない栄養剤とは対極にある「愛情の味」だ。


「……うまい……」

「そうでしょう? マリアの料理は世界一よ」


彼は夢中でスプーンを動かし始めた。

まるで、何日も食べていなかった野良猫のように。

その必死な姿を見守りながら、私はマリアに目配せをして、タオルを持ってこさせた。


「名前、聞いてなかったわね」


食べ終わり、少し落ち着きを取り戻した「彼」に、私は尋ねた。

彼は口元のミルクを手の甲で拭い、少し照れくさそうに俯く。


「……レン。レン・シルヴァーナだ」

「レン君ね。いい名前だわ」


シルヴァーナ。

その姓は、かつて魔法の名門として知られ、今は断絶したはずの家名。

やはり、ワケありの血筋というわけね。


「俺……は、ここにいていいのか? また暴走するかもしれないぞ」

「その時は、私が抱きしめて止めてあげる」

「……物理的に?」

「精神的に、そして物理的にね」


私はふわりと笑い、彼の頭からローブのフードを完全に脱がせた。

現れたのは、銀色のショートヘア。

汗と煤で汚れているけれど、月の光を吸い込んだような美しい髪だ。


「お風呂に入りましょう、レン。その煤を落とせば、きっともっと可愛い顔が出てくるわ」

「……男に可愛いとか言うなよ」

「あら、褒め言葉よ?」


「彼」は不満そうに唇を尖らせたが、その頬はほんのりと朱に染まっていた。

最初の拒絶はどこへやら。

今や「彼」は、私の膝に触れるか触れないかの距離で、安心しきった顔を見せている。


マリアがバスタオルを持って控えている。

ベルは、警戒を解いて剣を収め、少し複雑そうな顔でこちらを見ている。

(あとでベルも構ってあげないと、嫉妬で拗ねそうね)


「さあ、立って。マリアが背中を流してくれるわ」

「え、いや、風呂は一人で……!」

「ダメよ。貴方はまだフラフラじゃない。溺れたら大変だもの」


私は彼の抗議を笑顔で封殺し、マリアに引き渡した。

マリアは心得たもので、プロの無表情で彼の手を引く。


「ご安心を。男の子の扱いには慣れております(弟が三人いますので)」

「ちょ、待て、離せ! レティ、助け……!」


ドナドナと連れて行かれるレン。

その背中を見送りながら、私は空になったミルク粥の皿を手に取った。


「……『男の子』、ね」


私は皿に残った温もりを感じながら、独りごちる。

私の観察眼は、彼――彼女――の骨格、喉の形状、そして魔力の質から、とっくに真実を見抜いている。

けれど、今はまだ、彼女が守りたい「嘘」を尊重してあげましょう。


その嘘(殻)を脱ぎ捨てて、ありのままの自分をさらけ出してくれる瞬間こそが。

何よりも甘美な、救済の味になるのだから。


「さて、次はお風呂上がりのケア用品を準備しなくちゃ」


私は鼻歌交じりに立ち上がった。

外は嵐のような風が吹いているけれど、この屋敷の中だけは、甘い砂糖の香りで満たされようとしている。

私の革命は、まだ始まったばかりだ。


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