第64回 / インフルエンサーの仮面
ロサンゼルスの一等地に建つ、高級アパートメント『ビバリー・ハイツ』。
その一室から、世界中の少女たちが憧れる「キラキラした生活」が発信されていた。
「――今日のブランチは、お気に入りのカフェでテイクアウトしたアボカドトースト! #オーガニック #丁寧な暮らし」
カシャッ。
スマートフォンが軽快なシャッター音を立てる。
画面の中には、大理石のテーブル、おしゃれな英字新聞、そして色鮮やかなトーストが、完璧な構図で収まっている。
窓から差し込む自然光が、まるで天国のような輝きを演出している。
「……よし。映えた。……投稿完了」
送信ボタンを押した瞬間。
部屋の主であるベラは、死んだ魚のような目でスマホを放り投げた。
「……腹減った……」
彼女が座り込んでいる場所。
そこは、画面の中の天国とはかけ離れた、ゴミ屋敷のど真ん中だった。
大理石のテーブルだと思っていたものは、実はホームセンターで買ったリメイクシートを貼っただけの段ボール箱。
英字新聞は、ゴミ箱から拾ってきた三年前のもの。
そして、部屋の床は見えない。脱ぎ捨てた服、カップ麺の容器、督促状の山、枯れた観葉植物が、地層のように堆積している。
「……あーあ。このトースト、もうカピカピじゃん。……撮影に一時間もかけるから……」
ベラは冷え切ったトーストをかじり、部屋の隅に積まれた「未開封の高級ブランドバッグの箱(レンタル品)」を眺めた。
「……返却期限、明日か。……また借金しなきゃ」
彼女はトップインフルエンサー。フォロワー数二百万人。
企業案件と投げ銭で優雅に暮らしている――と、世間は思っている。
だが実態は、撮影用のハイブランド品をレンタルし、見栄えの良い食事を借金して買い、撮影が終われば質素なカップ麺を啜る、自転車操業の「虚構の女王」だった。
「……ピンポーン」
突然のチャイム。
ベラが飛び上がる。
「ひっ!? ……誰? 家賃の取り立て? カード会社?」
彼女は息を殺し、ドアの覗き穴を確認しようと、ゴミの山をかき分けて玄関へ這い進んだ。
しかし、ドアの向こうから聞こえてきたのは、怒鳴り声ではなく、優雅な声だった。
「ごきげんよう、ベラさん。……ルームサービスの『お掃除』に参りましたわ」
◇
「えっ……? 掃除……? 頼んでないけど……」
ベラが困惑してチェーンをかけたままドアを少し開けると、そこには信じられないほど美しい貴婦人と、完璧なメイド服を着た女性が立っていた。
全肯定未亡人レティと、マリアである。
「開けなさい、ベラ。……その隙間から漏れ出る『腐敗臭』が、廊下の空気を汚していますわ」
「な、何言って……! ここは高級アパートよ! 帰って!」
ベラがドアを閉めようとする。
しかし、マリアの革靴が、ガシッとドアの隙間に挟まった。
「失礼します。……これほどの汚部屋、プロの血が騒ぎますので」
「ひぃっ!?」
マリアが軽々とドアを押し開ける(チェーンは物理的に切れた)。
二人が部屋に足を踏み入れた瞬間。
「……あらあら」
私は扇子で鼻を覆った。
視界に飛び込んできたのは、カオス。
足の踏み場もないとはこのことだ。服とゴミがミックスされた「謎の床」が、波打つように広がっている。
「……これが、二百万人が憧れる『丁寧な暮らし』の裏側ですか」
ソフィアちゃんが、ゴミの山の上に置かれた「撮影用スペース(五十センチ四方だけの綺麗な空間)」を見つけて、呆れたように呟く。
「み、見ないで! 入ってこないで!」
ベラが半狂乱で叫ぶ。
彼女はボロボロのジャージ姿で、髪はボサボサ。メイクもしていない。
画面の中の「セレブなベラ」とは似ても似つかない姿だ。
「……あんたたち、何なのよ! ファン? アンチ? ……写真撮る気!? やめて! バラされたら終わるの! 私の人生が……!」
彼女は必死に顔を隠し、ゴミの山の中に埋もれようとする。
その姿は、自分のついた嘘の重みに押し潰されそうになっている、小さな動物のようだった。
「……可哀想に。……ここまで追い詰められていたのね」
私はゴミの山を優雅に乗り越え(レンが重力魔法で私の足元を浮かせている)、ベラの前に立った。
「ベラ。……貴女、この部屋で息ができますか?」
「……う、うぅ……」
「物は溢れているのに、何一つ貴女の所有物ではない。
……このバッグも、この時計も、全部『見せるため』だけの借り物。
貴女自身さえも、フォロワーに見せるための『借り物の虚像』になってしまっている」
私は足元の督促状を拾い上げた。
『最終通告』の赤文字。
「……借金してまで、誰かに羨ましがられたかったの?」
「……だって……!」
ベラが顔を上げる。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
「こうしないと、誰も私を見てくれない!
私は田舎出身で、学歴もなくて、特技もない……!
……『いいね!』がついた時だけ、私が生きてるって実感できるの!
だから止められないの! 嘘でもいいから、輝いていたいんだもん!」
承認欲求という名の麻薬。
一度味わってしまったら、もう素の自分には戻れない。
嘘を隠すためにさらに大きな嘘をつき、その代償として生活が破綻していく。
「……そう。辛かったわね」
私は彼女の前に膝をついた。
ジャージの袖を掴む。
「でもね、ベラ。……ゴミの中に埋もれて泣いている貴女のほうが、私には人間らしくて好きよ」
「……は?」
「画面の中の貴女は、プラスチックの人形みたいで冷たいわ。
……でも、今の貴女からは、体温と、悔し涙の匂いがする」
私は彼女を抱きしめた。
少しカビ臭い部屋の匂いと、彼女の汗の匂い。
でも、それは「生きている」匂いだ。
「もう、演じなくていいのよ。
……こんな汚い部屋で、カップ麺を啜りながら、必死に『素敵な私』を作ろうと努力していた。
……その健気さと、滑稽さは、どんなブランド品よりも愛おしいわ」
「……う……うわぁぁぁん!!」
ベラが私の胸で泣き崩れた。
ずっと誰かに言われたかったのだ。「すごくなくてもいい」「そのままでいい」と。
「さあ、マリア。……魔法を見せてあげて」
「畏まりました、奥様」
マリアが腕まくりをする。
「本気を出します。……『王家式・断捨離エクストリーム』!」
◇
シュバババババ!!
マリアの動きが音速を超えた。
ゴミ袋が舞う。服が畳まれる。床が磨かれる。
「これはゴミ」「これはレンタル品、即返却」「これは……燃やしましょう」
冷徹かつ迅速な判断で、部屋を埋め尽くしていた混沌が、見る見るうちに消滅していく。
「す、すごい……」
ベラが涙目で呆然と見守る。
そして十分後。
そこには、何もなくなった、ガランとした部屋があった。
あるのは、日当たりの良い窓と、小さなベッド、そしてテーブル一つだけ。
「……何もない……」
ベラが呟く。
「私の部屋……こんなに広かったんだ……」
「ええ。……貴女の心と同じですわ」
私が窓を開ける。
LAの爽やかな風が吹き込んでくる。
「虚栄心というゴミを捨てれば、こんなに風通しが良いのです」
私は彼女に、一杯の紅茶を淹れてあげた。
「撮影用ではありません。……貴女が飲むための紅茶よ」
ベラはカップを受け取った。
一口飲む。温かい。
「……おいしい……」
「ベラ。……これからどうする?」
彼女は少し考えて、自分のスマホを手に取った。
そして、何もない部屋と、スッピンの自分を、フィルターなしで撮影した。
「……全部、話すよ」
彼女は決意の眼差しで言った。
「お金がないこと。見栄を張ってたこと。……実はズボラで、だらしないこと。
……全部ネタにして、笑い飛ばしてやる」
「いい心がけですわ」
ソフィアちゃんが微笑む。
「『没落インフルエンサーの借金返済日記』。……これはバズりますわよ。共感性が桁違いです」
「ふふ。……そうかもね」
ベラは笑った。今度は、作り物ではない自然な笑顔だった。
「ありがとう、レティさん。……私、やっと『自分』になれた気がする」
「どういたしまして。……でも、部屋を汚したらまた来ますからね?」
マリアが釘を刺す。
「えへへ、気をつけます」
アパートを出ると、西日が眩しかった。
この街には、まだまだ無数の「嘘」が渦巻いている。
でも、少なくとも一人の少女は、その重たいドレスを脱ぎ捨てることができた。
「……さて」
私は伸びをした。
「リビーも救出し、インフルエンサーも改心させました。
LAの『見た目至上主義』も、そろそろ崩壊寸前ですわね」
ベルナデットが、遠くの方角を睨んだ。
「だが、まだラスボスが残っているぞ。
……西でも東でもない、この国の中枢。
『力』と『筋肉』を崇拝する、ホワイトハウスの主がな」
「ええ。……ストロング大統領」
私は扇を開き、ワシントンD.C.の方角を見据えた。
「彼が一番の重症患者かもしれませんわ。
……『世界最強』でなければならないという、孤独な王様。
彼を癒やさなければ、この国は本当の意味で眠れません」
旅はいよいよクライマックスへ。
甘い革命は、世界最強の権力者の元へと向かう。
「行きましょう。……大統領執務室に、コタツを持ち込みに」




