第63回 / 国民的ヒロイン・リビーの憂鬱
ロサンゼルスの象徴的な野外音楽堂、ハリウッド・ボウル。
すり鉢状の巨大な客席は、一万七千人の観衆で埋め尽くされ、熱狂の渦と化していた。
「――リビー! リビー! USA! USA!」
地響きのようなコールに応えるように、青空を引き裂いて「彼女」は現れた。
星条旗を模した赤と青のレオタードに、純白のマント。金色のブーツ。
背中にジェットパックを背負い、鮮やかなアクロバット飛行でステージ中央へ着地する。
合衆国公認スーパーヒーロー、リバティ・ガール。通称「リビー」。
この国で彼女を知らない者はいない。
テロリストを殴り飛ばし、災害現場で子供を救い、SNSではチャリティーを呼びかける、正義と希望の生きたアイコンだ。
「みんなー! 今日も笑顔で、強く生きてる!?」
マイクを通した彼女の声は、太陽のように明るく、力強い。
観客が「イエーーーッ!!」と応える。
「私も元気よ! だって、みんなの愛があるからね! 正義は絶対に負けない! アメリカは永遠に最強よ!」
彼女が右拳を突き上げると、キャノン砲から赤と青の紙吹雪が舞い、花火が上がった。
完璧な笑顔。完璧なプロポーション。完璧なヒロイン。
誰もが彼女に憧れ、彼女のようになりたいと願っている。
「……痛々しいですわね」
VIP席(もちろんマリアが手配済み)で紅茶を啜りながら、私はポツリと漏らした。
「えっ? かっこいいじゃん、あのジェットパック」
レンがポップコーンを頬張りながら身を乗り出す。
「いいえ。……見てご覧なさい、ベルナデット」
私が促すと、護衛のベルナデットが腕組みをしたまま、鋭い眼光をステージ上のリビーに向けた。
「……ああ。あれは戦士の目ではない。……『生贄』の目だ」
ベルナデットが静かに断言する。
「彼女の筋肉は悲鳴を上げている。笑顔の裏で、奥歯が砕けそうなほど食いしばっているのがわかる。……あれは、戦うためではなく、『倒れないため』に立っている姿だ」
リビーはステージ上で、次々と現れる「悪の組織(という設定のアクターたち)」を華麗になぎ倒していく。
しかし、その動きには、機械的な硬さがあった。
観客の歓声が上がれば上がるほど、彼女は追い詰められるように、必死に「強いリビー」を演じ続けている。
「……行きましょう。舞台裏へ」
私は日傘を閉じた。
「国民の希望という名の十字架に磔にされた少女を、降ろしてあげなくては」
◇
ステージ裏の楽屋エリア。
そこは表の華やかさとは裏腹に、殺伐とした空気が漂っていた。
「リビー! 次のスケジュールまで五分だ! 着替えろ!」
「インタビュー用のコメントは覚えたか? 『弱音』はNGワードだぞ!」
「SNSの更新忘れるな! 『今日もハッピー』って投稿しろ!」
スーツ姿の大人たち――マネージャーやプロデューサーたちが、一人の少女を取り囲み、矢継ぎ早に指示を飛ばしている。
その中心で、リビーはパイプ椅子に座り、ぐったりと項垂れていた。
彼女の手には、ラベルのない小瓶と、強烈な色のエナジードリンク。
「……はい。わかってます。……やります。私はリビーだから……」
彼女は震える手で小瓶から錠剤を取り出し、ドリンクで流し込んだ。
抗うつ剤と、カフェイン。
彼女の笑顔を支える燃料だ。
「おい、顔色が悪いぞ! メイク担当、もっとチークを濃くしろ!」
「目の下のクマを消せ! ヒロインが疲れた顔を見せるな!」
大人たちは彼女の体調を気遣うのではなく、商品の「外装」の劣化を修復することに躍起になっている。
「……ごきげんよう。少し、休憩させてあげてはいかが?」
私が声をかけると、プロデューサーの男が苛ただしげに振り返った。
「誰だあんたは? ここは関係者以外……」
「関係者ですわ。……彼女の『心臓』のね」
私は優雅に歩み寄り、リビーの前に立った。
至近距離で見る彼女は、ステージ上の輝きなど微塵もなかった。
肌は荒れ、唇はカサカサで、瞳の奥には深い闇が広がっている。
「……リビーさん」
「……え? ……ファンの方? サインなら……」
彼女は反射的にペンを持とうとしたが、その手は酷く震えていて、ペンを握ることさえできなかった。
カラン、とペンが床に落ちる。
「……あ……ごめんなさい……。私、ドジで……」
「いいえ。……手が痛いのね」
私は彼女の手を取り、両手で包み込んだ。
冷たい。氷のように冷たい手。
そして、無数の傷跡と、マメだらけの掌。
「重かったでしょう。……一万七千人の期待と、三億人の理想を背負うのは」
「……」
「『強くあれ』。『正しくあれ』。『常に笑え』。
……そんな呪いをかけられて、貴女はいつ、ただの女の子に戻れるのかしら?」
リビーの瞳が揺れる。
彼女の呼吸が浅くなる。
「……戻れない……。戻っちゃいけないの……」
彼女は掠れた声で呟いた。
「みんな……私が好きなの。強い私が……。
私が笑わないと、みんなが悲しむ。……子供たちが失望する。
……だから、私は完璧じゃなきゃいけないんだ……!」
彼女は自分に言い聞かせるように繰り返す。
それは責任感というより、強迫観念だった。
一度でも期待を裏切れば、全ての愛が憎悪に変わることを、彼女は本能的に恐れているのだ。
「おい! 変なことを吹き込むな!」
プロデューサーが割って入ろうとする。
「彼女は特別な存在なんだ! 一般人とは違う! 彼女には使命があるんだ!」
「使命?」
私は振り返り、男を冷ややかに見据えた。
「一人の少女を薬漬けにして、見世物にすることが?
……貴方がたは彼女を『ヒーロー』と呼ぶけれど、私には『使い捨ての電池』に見えますわ」
「なっ……! 我々は彼女をスターにしたんだぞ! 富も名声も与えた!」
「でも、『安らぎ』は与えなかった」
私は再びリビーに向き直った。
彼女は、縋るような、しかし怯えた目で私を見ている。
「リビー。……貴女、今、何がしたい?」
「え……?」
「世界を救うこと? 悪を倒すこと?
……それとも、そのキツいブーツを脱いで、泥のように眠ること?」
「……」
彼女の視線が、自分の足元に落ちた。
金色のかっこいいブーツ。しかしそれは、彼女の足を締め付け、血流を止め、感覚を麻痺させている拘束具だ。
「……痛い……」
小さな声が漏れた。
「……足が……痛い……。……もう、立ちたくない……」
「そう。……なら、座りなさい」
「でも……次の出番が……」
「私が代わってあげますわ」
「は?」
リビーも、プロデューサーも目を丸くする。
「ベルナデット。……代役を頼めるかしら?」
「御意」
ベルナデットが一歩前に出る。
「悪党をちぎっては投げ、愛想を振りまけば良いのだろう? ……筋肉労働だな。お安い御用だ」
「な、何を勝手な!」
プロデューサーが怒鳴るが、ベルナデットは彼を軽く睨んだだけで黙らせた。
物理的な「圧」のレベルが違う。
「リビーさん」
私は彼女の肩に掛かっていた重いマントの留め具を外した。
バサッ。
マントが床に落ちる。
「……あ……」
彼女の肩が、ふわりと軽くなる。
「今日はもう、世界のことなんて忘れなさい。
……ヴィランが出たら、警察に任せればいい。
……子供が泣いたら、親があやせばいい。
貴女一人が、全ての涙を拭う必要なんてないのよ」
私はマリアに合図した。
「マリア。彼女を『セーフハウス(例のリムジン)』へ。
……ホットミルクと、テディベアを用意して」
「畏まりました。……リビー様、こちらへ」
マリアが優しく手を引く。
「……いいの? 本当に……行っていいの?」
リビーが何度も振り返る。
罪悪感と、安堵がない交ぜになった表情。
「ええ。……これからは、貴女が『助けられる番』よ」
私は彼女の背中を、そっと押した。
リビーはマリアに支えられながら、ふらつく足取りで楽屋を出て行った。
その後ろ姿は、スーパーヒーローではなく、ただの疲れ切った家出少女だった。
◇
残されたのは、真っ青な顔の大人たち。
「ど、どうするんだ! ショーに穴が空く!」
「暴動が起きるぞ!」
「ご心配なく」
ベルナデットが、リビーが脱ぎ捨てたマントを拾い上げ、自分の肩に雑に羽織った。
「私が『代役』を務める。……ただし、私の流儀でな」
数分後。
ステージに再登場したのは、金髪のツインテール美少女ではなく、殺気立った眼光の女騎士(マント着用)だった。
「――お前たちがヴィランか?」
ベルナデットは、襲いかかってくる悪役アクターたちを、台本無視のガチ格闘術で瞬殺した。
ドガッ! バキッ! ズドン!
ワイヤーアクションなし。火薬なし。
純粋な人体破壊音だけがスタジアムに響き渡る。
「……え?」
「……強すぎない?」
「リビーって、あんなに強かったっけ……?」
観客がどよめく。
しかし、悪役を全滅させたベルナデットは、マイクを掴み、客席に向かって言い放った。
「――聞け、愚民ども!」
「!?」
「貴様らが求める『笑顔』のために、一人の少女がどれだけ泣いているか知っているか!
正義とは、犠牲の上に成り立つものではない!
……自分の尻くらい、自分で拭け!
ヒーローに頼るな! 己を鍛えろ! 以上だ!」
ベルナデットはマイクを床に叩きつけ、颯爽と退場した。
シーン……。
一万七千人が静まり返る。
そして、誰かがポツリと言った。
「……なんか、すげぇ説教されたけど……」
「……今の、かっこよくね?」
「リアルだ……。マジの正義だ……!」
ワァァァァァァッ!!
予想外の大歓声が巻き起こった。
「強いリビー」ではなく、「媚びないリビー」が、新たな熱狂を生んだのだ。
「……ふふ。ベルったら、荒っぽいですわね」
私は舞台袖で微笑んだ。
これでリビーの「完璧な偶像」にはヒビが入った。
でも、そのヒビから差し込む光こそが、彼女を救う希望になるはずだ。
「さて。……次は、彼女が脱ぎ捨てた『仮面』の中身を、じっくりと癒やして差し上げましょうか」
私はリムジンの待つ駐車場へと向かった。
そこには、初めて肩の荷を下ろした元・ヒーローが、ミルクを飲みながら、眠気と戦っているはずだ。
「お疲れ様、リビー。……明日の朝まで、誰も貴女を起こしたりしないわ」
ハリウッドの夕暮れ。
巨大な看板のリビーの笑顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
でも大丈夫。
これからは、作り物じゃない本当の笑顔を、私が教えてあげるから。




