第62回 / LA、虚飾の街
西海岸の太陽は、東海岸のそれとは別物だった。
ロサンゼルス、ハリウッド。
パームツリーが揺れる大通りには、突き抜けるような青空と、暴力的なまでの陽光が降り注いでいる。
しかし、その光景には奇妙な違和感があった。
「……誰も、景色を見ていませんわね」
私は『チャイニーズ・シアター』の前の広場で、日傘を回しながら呟いた。
観光客も、地元の人々も、全員が異様な姿勢で固まっている。
スマートフォンを掲げ、不自然な角度で顎を引き、口角をミリ単位で調整し、シャッターを切る。
そして直後に画面を睨みつけ、ため息をつき、またポーズを取り直す。
「ここは『街』ではありませんわ。……巨大な『撮影スタジオ』です」
「異常な空間磁場だね」
レンがスマートグラス越しに周囲をスキャンし、顔をしかめる。
「みんなの意識が『現実』じゃなくて、『画面の中』に吸い込まれてる。……ほら、あそこのカフェ。誰も料理に手を付けてないよ」
レンが指差したオープンテラスのカフェ。
テーブルには、極彩色のスムージーや、過剰にデコレーションされたパンケーキが並んでいる。
しかし、客たちはそれを食べるのではなく、様々な角度から撮影し続けているだけだ。
アイスが溶け、クリームが崩れ始めても、彼らは気にしない。
「映える」写真を撮り終えた瞬間、その料理はただの「撮影済み小道具」へと成り下がっていた。
「……食べ物を粗末にするなんて、許せません」
マリアが静かに、しかし冷徹な怒りを滲ませる。
「あんな着色料だらけの料理……味覚も死んでいるのでしょうけれど」
「行きましょう。……この街の『フィルター』を、少しばかり剥がして差し上げなくては」
◇
私たちは、特に人だかりができている「ピンク色の壁」の前へと向かった。
そこは有名なインスタスポットらしく、長蛇の列ができている。
その最前列で、一人の少女がポーズを取っていた。
ジェシカ。金髪にブルーの瞳、完璧なメイクとスタイル。
彼女はこの街に星の数ほどいる「インフルエンサー」の一人だ。
彼女はスマホに向かって、弾けるような笑顔を作っていた。
「――Hi,みんな! 今日もLAは最高にハッピー! 私のライフスタイル、チェックしてね!」
カシャッ。カシャッ。
動画を撮り終えた瞬間、彼女の笑顔がスッと消えた。
能面のような真顔に戻り、血走った目で画面をタップし始める。
「……チッ、照明がダメね。肌のトーン上げなきゃ。……あ、フォロワーが減ってる。なんで? 昨日の投稿が地味すぎた?」
彼女は爪を噛み、苛立ちと不安を露わにする。
さっきまでの「ハッピーな少女」はどこにもいない。そこにいるのは、数字に追い詰められた孤独な作業員だった。
「ごきげんよう、お嬢さん」
私が声をかけると、ジェシカはビクリと肩を震わせ、反射的に「営業用スマイル」を貼り付けた。
「わぁ! こんにちは! ……えっと、一緒に写真撮る? タグ付けしてくれたらシェアするよ!」
「いいえ。……写真は結構ですわ」
私は彼女のスマホを覗き込んだ。
画面の中の彼女は、目が不自然に大きく、顎が尖り、肌は陶器のようにツルツルに加工されていた。
それは美しいかもしれないが、目の前にいる「彼女」とは別人のようだった。
「貴女、誰とお話ししているの?」
「え? ……フォロワーのみんなだよ。十万人いるの」
「そう。……でも、その十万人は、貴女の『どこ』を見ているのかしら?」
私は、彼女が加工修正している画面を指した。
「この加工されたピクセル? それとも、貴女自身?」
「……な、何よ。……みんなやってるわよ。可愛く見せなきゃ、誰も見てくれない。……『いいね!』がつかないと、私は透明人間と同じなの」
ジェシカの声が震える。
彼女は知っているのだ。フォロワーたちが愛しているのは、作り上げられた虚像であり、本当の自分ではないことを。
だからこそ、彼女は片時も「完璧な私」を演じることをやめられない。
「息苦しいでしょうね」
私は彼女の頬に触れようとした。
ジェシカが避ける。
「触らないで! ファンデが崩れる!」
「崩れればいいわ。……貴女のその完璧なメイクの下にある肌は、悲鳴を上げていますわよ」
「……うるさい! アンタに何がわかるのよ! ここはハリウッドよ! 見た目が全てなの! ブサイクは罪、地味は死刑! ……私はスターになるの! そのためなら……!」
彼女は叫び、再びスマホを構えた。
「フィルター……もっと強いフィルターをかけなきゃ……! もっと目を大きく……もっと足を細く……!」
彼女の指先は、自分自身を消滅させようとするかのように、画面上の自分を削り続けていた。
「レン」
私は短く呼んだ。
「了解。……ちょっと荒療治だけど、街ごと『スッピン』にしちゃうね」
レンが指を鳴らした。
『魔導ハッキング・強制現実回帰』発動。
◇
ブツンッ。
周囲の人々のスマホから、異音が響いた。
「あれ? アプリが落ちた?」
「フィルターが……外れた?」
「うそ!? カメラが『ノーマルモード』で固定されてる!」
悲鳴が上がる。
彼らにとって、加工なしのカメラは、鏡よりも恐ろしい凶器だ。
画面に映し出されるのは、毛穴があり、シミがあり、少し疲れた顔をした「現実の自分」。
「いやぁぁぁ! こんなの私じゃない!」
「見ないで! 撮らないで!」
「ブサイクすぎる! こんなのアップできない!」
広場は阿鼻叫喚の地獄と化した。
人々は顔を隠し、逃げ惑う。まるで太陽の光を浴びた吸血鬼のように。
ジェシカもまた、自分のスマホを見て凍りついていた。
「……うそ……。クマが……シワが……。……終わった……。こんな顔……誰にも見せられない……」
彼女はスマホを落とし、その場に崩れ落ちた。
絶望。
彼女のアイデンティティである「完璧な私」が死んだ瞬間だった。
「……終わってなどいませんわ」
私は地面に落ちたスマホを拾い上げ、ジェシカの前にしゃがみ込んだ。
「見てご覧なさい」
「いや! 見たくない!」
「見なさい。……そこに映っているのは、お化けではなくてよ」
私はスマホの画面を、鏡のように彼女に向けた。
そこには、涙でマスカラが滲み、髪が乱れ、鼻の頭を赤くしたジェシカが映っていた。
「……ひどい顔……」
「そうかしら? 私には、さっきの作り物よりも、ずっと素敵に見えますけれど」
「はぁ? バカにしないでよ……!」
「バカになんてしていないわ」
私はハンカチを取り出し、彼女の滲んだアイラインを拭ってあげた。
「この目の下のクマ。……貴女が毎晩、動画編集を頑張った証拠でしょう?
少し荒れた肌。……ストレスと戦いながら、この街で生き抜いてきた勲章でしょう?」
私は彼女の素顔を、愛おしむように撫でた。
「傷も、疲れも、不完全さも。……それ全部含めて、『ジェシカ』という一人の人間じゃないの。
……完璧な人形なんて、ショーウィンドウの中にいくらでもいるわ。
でも、泣いて、怒って、必死に生きている貴女は……世界に一人しかいないのよ」
ジェシカの瞳が揺れる。
彼女はずっと否定してきた。弱い自分を、醜い自分を。
それを隠すために、厚いメイクとデジタルの鎧を纏ってきた。
でも、目の前のこの女性は、その「隠したかった部分」こそが美しいと言う。
「……本当に……? こんな私でも……価値があるの……?」
「ええ。……フォロワーの数なんて関係ない。貴女が貴女であるだけで、百点満点ですわ」
私はマリアに合図した。
マリアが差し出したのは、いつもの紅茶と、そして何の飾り気もない、素朴なパウンドケーキ。
「お食べなさい。……映えないけれど、とびきり美味しいわよ」
ジェシカは震える手でケーキを受け取り、口に運んだ。
クリームもフルーツも乗っていない、茶色い塊。
でも、噛み締めた瞬間、バターと卵の優しい風味が広がった。
「……おいしい……」
「でしょう?」
「……なんか……味がする……。久しぶりに……味がする……」
ジェシカは泣きながらケーキを頬張った。
口の周りに粉がついても、もう気にしない。
「……ねえ。写真、撮ってもいい?」
彼女はおずおずとスマホを手に取った。
フィルターなし。加工なし。
泣き腫らした目と、口いっぱいにケーキを詰め込んだ、少し間抜けで、でも最高に幸せそうな顔。
カシャッ。
彼女はその写真を、震える指でSNSにアップロードした。
キャプションは一言だけ。
『これが本当の私。……ケーキ、おいしい』
投稿ボタンを押した瞬間、彼女は息を吐き出した。
処刑台から降りたような安堵感。
数秒後。通知音が鳴った。
ピコン。ピコン。ピコン。
「……え?」
ジェシカが目を見開く。
通知が止まらない。
『ジェシカ、どうしたの? でも、なんかいい笑顔!』
『今までで一番かわいくない?』
『実は私も疲れてたんだ。その写真見てホッとした』
『リアルな君のほうが好きだよ』
いいねの数が、爆発的に伸びていく。
それは「憧れ」のいいねではなく、「共感」と「応援」のいいねだった。
「……うそ……。みんな……怒ってない……。……受け入れてくれてる……」
「人は、完璧なものには『憧れ』を抱くけれど、不完全なものには『愛』を抱くものよ」
私が言うと、ジェシカはスマホを抱きしめて、くしゃくしゃの笑顔で笑った。
「……ありがとう。……私、やっと息ができる気がする」
周囲の人々も、ジェシカの様子を見て、恐る恐るスマホを覗き込み始めた。
「……フィルターなしでも、案外いけるかも?」
「俺のシワ、渋くない?」
「このスムージー、溶けちゃったけど……飲んだらウマいじゃん!」
広場に、加工されていない「生身の笑顔」が戻り始めた。
誰かのためではない、自分のための笑顔。
虚飾の街のメッキが剥がれ、その下から、人間味あふれる素朴な地肌が見え始めた。
「……ふふ。少しは空気が美味しくなりましたわね」
私は日傘を差し直した。
ソフィアちゃんがタブレットを見ながら報告する。
「ジェシカさんの投稿をきっかけに、全米で『#NoFilter』タグがトレンド入りしましたわ。……LAの化粧品売上が下がり、スイーツの売上が上がっています」
「上出来ですわ」
私はハリウッド・サインのある山を見上げた。
この街には、まだまだ巨大な虚像たちがいる。
彼らもまた、重たい仮面の下で窒息しかけているはずだ。
「さあ、行きましょう。……次は、この国が誇る『スーパーヒーロー』の仮面を剥がしに」
虚構の都に、真実の鐘を鳴らす。
甘い革命は、スクリーンの向こう側へも手を伸ばす。
主役は完璧なヒーローじゃない。
弱くて、情けなくて、愛おしい、貴方たち一人一人なのだから。




