第61回 / NY証券取引所の鐘は鳴る
ウォール街の中心、ニューヨーク証券取引所(NYSE)。
重厚なギリシャ神殿風の列柱をくぐり抜けた先にあるのは、世界経済の心臓部と呼ばれるメイン・フロアだ。
そこは、人間の欲望を最も純粋な形で煮詰めた、巨大な圧力釜だった。
「売れ! 今すぐ売り抜けろ!」
「買いだ! 押し目だ、拾えぇぇ!」
「おい、シカゴはどうなってる! 先物が動いたぞ!」
怒号。絶叫。悲鳴。
フロアを埋め尽くすトレーダーたちは、色とりどりのジャケットを身に纏い、手にした端末に向かって呪文を叫び続けている。
頭上の巨大な電光掲示板には、目にも止まらぬ速さで数字が流れていく。赤、緑、赤、赤。その点滅は、まるで彼らの早鐘を打つ心臓の鼓動そのものだ。
「……空気が、痛いですわ」
バルコニー席――通称『演壇』へと続く階段の上で、私は扇を口元に当てて眉をひそめた。
「汗と、コーヒーと、アドレナリン。……そして、焼け焦げた神経の臭い。ここは屠殺場かしら?」
「ある意味、そうですわね」
隣でソフィアちゃんが、眼下の狂騒を冷徹に見下ろす。
「彼らは『時間』という肉を切り売りし、『精神』という血を流して、架空の数字を積み上げています。……見てください、あのボラティリティ(変動率)。正常な市場の動きではありません。集団ヒステリーですわ」
時刻は午後3時55分。
取引終了まで、あと5分。
一日の勝敗が決するこの魔の刻限、フロアの熱気は最高潮に達し、酸素濃度は限界まで低下していた。
「さあ、皆様。……この狂ったレースに、終止符を打って差し上げましょう」
私は扇を閉じ、演壇への扉を開け放った。
◇
演壇には、今まさに終了の鐘を鳴らすべく待機している男がいた。
取引所理事長、ビル・ブルマン。
「ウォール街の闘牛」と呼ばれる巨漢だが、今の彼は脂汗を流し、腕時計の秒針を睨みつけていた。
「……あと3分。あと3分で今日が終わる。……頼む、これ以上暴落しないでくれ……。俺の胃が持たん……」
彼は木槌を握りしめ、震えている。
その背中に、私は静かに声をかけた。
「ごきげんよう、ミスター・ブルマン。……随分と辛そうな背中ですわね」
「なっ、誰だ!?」
ビルが弾かれたように振り返る。
「警備員! 侵入者だ! 今、重要な局面なんだぞ!」
彼が叫ぶが、駆けつけてくるはずのSPたちは、すでにベルナデットの手によって優しく気絶(お昼寝)させられ、隅で安らかに眠っている。
「邪魔をしないでくれ! この鐘を鳴らさなきゃならないんだ!」
ビルは血走った目で私を威嚇した。
「16時きっかりに鳴らさなければ、世界中の決済が狂う! 金融システムが崩壊するんだ!」
「崩壊? ……いいえ、貴方が崩壊寸前よ」
私は優雅に歩み寄り、彼の手にある木槌に自分の手を重ねた。
冷たく、湿った手。
「ビル。……貴方は何のために、この鐘を鳴らすの?」
「な、なんだと……? 決まっている、市場を閉めるためだ。今日の戦いを終わらせるためだ!」
「そう。……そして明日、また同じ戦いを始めるために?」
私の問いかけに、ビルの言葉が詰まる。
「貴方は毎日、この鐘を鳴らすたびに安堵し、そして絶望している。
『やっと終わった』という安堵と、『また明日が来る』という絶望。
……永遠に終わらないマラソンの、通過地点の合図。それがこの鐘の正体よ」
私はフロアを見下ろした。
数千人のトレーダーたちが、秒針を見つめ、鐘の音を待っている。
それは、パブロフの犬が餌を待つ姿ではない。
囚人が、一瞬の休息を告げるサイレンを待つ姿だ。
「……俺は……俺はただ、責任を果たさなきゃならないんだ……!」
ビルが呻く。
「止めるわけにはいかないんだ! 世界は回り続けなきゃいけない!」
「いいえ。……世界は一度、止まって深呼吸するべきですわ」
私はソフィアちゃんに合図を送った。
「システム介入、完了しましたわ」
ソフィアちゃんがタブレットを操作する。
「NYSEのメインサーバーを掌握。……表示モードを『金融』から『幸福』へ切り替えます」
「レン、音響の準備は?」
「OK。……耳をつんざくようなベルの音はキャンセル。代わりに、脳みそがとろけるような周波数を流すよ」
「な、何をする気だ……!?」
ビルが狼狽える。
私は彼の手から木槌を優しく奪い取った。
そして、ニッコリと微笑んだ。
「ビル。……今日の鐘は、戦いの終わりを告げるのではありません。
……『おやつの時間』の始まりを告げるのです」
時計の針が、16時00分00秒を指した。
私は木槌を振りかぶり――鐘ではなく、持ち込んだ「巨大な銅鑼」のような物体(実はレン特製の音響装置)を叩いた。
ゴォォォォォォォォォォン…………♪
それは、暴力的で甲高い金属音ではなかった。
寺院の鐘のような、あるいは教会のカリヨンのような、深く、長く、身体の芯まで響き渡る倍音。
α波を強制的に誘発する、癒やしの波動。
◇
一瞬にして、フロアの狂騒が凍りついた。
「……あ?」
「……なんだ、この音……」
叫んでいたトレーダーたちの口が止まる。
振り上げていた手が下りる。
彼らの脳内で暴れまわっていた交感神経が、音の波に洗われて鎮火していく。
そして、彼らが呆然と見上げた巨大スクリーンに、異変が起きた。
今まで数字の羅列だった株価ボードが、一斉に切り替わったのだ。
『ダウ平均:お腹いっぱい』
『ナスダック:ぐっすり』
『S&P500:二度寝推奨』
さらに、個別銘柄のティッカーシンボルが、企業のロゴから「美味しそうな画像」へと変化していく。
AAPLは、本物の真っ赤なリンゴに。
AMZNは、広大な熱帯雨林のハンモックに。
TSLAは、自動運転で走る快適なベッドに。
「な……なんだこれ……」
「俺のポジションが……『ふわふわパンケーキ』になってる……?」
「空売りしてた株が……『温泉旅行券』に……?」
混乱するフロア。
そこへ、天井から無数の白いパラシュートが投下された。
吊り下げられているのは、マリア特製の「極甘・シュガードーナツ」と、温かい紅茶のボトル。
「さあ、皆様! 手をお休めください!」
私が演壇からマイクで呼びかけた。
「本日の取引は終了です。
……いえ、これより『延長戦』に入ります。
ルールは簡単。
そのドーナツを食べ、隣の人と『お疲れ様』と言い合い、家に帰って泥のように眠ること。
……最も深く眠った者が、今日のトップ・パフォーマーです!」
シーン……。
誰も動かない。
あまりの事態に、思考が追いつかないのだ。
最初に動いたのは、私の隣にいたビルだった。
彼は、私が手渡したドーナツを、震える手で口に運んだ。
サクッ。
「……っ……」
砂糖が唇につく。
生地の甘さが、疲労困憊の脳に直撃する。
「……あ、甘い……。……そうだ、俺は……昼飯も食わずに……」
ビルは木槌を放り出し、演壇の手すりに崩れ落ちた。
「……疲れた……。本当に……疲れたんだ……」
その言葉が、マイクを通じてフロア全体に響いた。
「疲れた」。
ウォール街で決して口にしてはならない禁句。
しかし、トップである彼がそれを認めた瞬間、呪いは解けた。
「……俺もだ……」
フロアの片隅で、若いトレーダーが呟き、ドーナツを掴んだ。
「……足が棒だ……。トイレに行きてぇ……」
「……家に帰りたい……。子供の顔が見たい……」
ガシャン、ガシャン。
端末が床に置かれる音が連鎖する。
男たちはネクタイを緩め、ドーナツを貪り、あるいはその場に座り込んで紅茶を煽った。
「おい、そっちのドーナツ、チョコか?」
「いや、カスタードだ。……交換するか?」
「ああ。……今日の相場、酷かったな」
「全くだ。……でも、ドーナツは最高だ」
殺伐としていた戦場が、巨大なカフェテリアへと変貌する。
彼らはもう、敵同士ではない。
同じ甘味を共有する、戦友たちだ。
「……信じられん」
ビルが、眼下の光景を見て涙ぐむ。
「あいつらが……笑ってる。……引け後に、あんな穏やかな顔をするなんて……」
「ええ。……数字が消えれば、人はただの人間ですもの」
私はビルの肩をポンと叩いた。
「明日の朝、この取引所を開ける必要はありませんわ」
「え?」
「『全館、糖分補給のため休業』。……そう貼り紙をしておきなさい。
世界中の投資家も、きっと安心するはずよ。『ああ、彼らも人間だったんだ』ってね」
ビルはしばらく呆然としていたが、やがて力なく、しかし憑き物が落ちたような笑顔を見せた。
「……そうだな。……どうせ明日は土曜日だ。……いや、月曜も休むか」
「名案ですわ」
ソフィアちゃんが、満足げにスクリーンの表示を最終調整した。
『本日の終値:プライスレス(全員優勝)』
NY証券取引所の鐘は鳴り終わった。
それは競争の終わりを告げる鐘ではなく、平和な休息の始まりを告げるララバイだった。
私は演壇から、ドーナツを頬張る男たちを見渡し、静かに告げた。
「おやすみなさい、ウォール街。……夢の中では、誰も貴方たちを値踏みしたりしないわ」
ニューヨーク攻略、完了。
金融という名の心臓を、甘い血液で満たした。
これで東海岸も、西海岸同様に骨抜きになったはず。
「……さて」
私は演壇を降りながら、レンに尋ねた。
「次のターゲットは?」
「西へ戻るよ。……LA。ハリウッドだね」
レンが端末を見せる。
「ここが『金』の地獄なら、あそこは『見た目』と『評価』の地獄。……SNSの『いいね!』に縛られた、承認欲求モンスターたちの巣窟さ」
「あら、厄介そうですわね」
私は扇を開き、不敵に微笑んだ。
「でも、楽しみだわ。……虚飾で塗り固められた彼らの『素顔』、暴いて差し上げましょう」
新たな戦場は、虚構の都ハリウッド。
スポットライトの下で震えるスターたちに、全肯定のカーテンコールを。




