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第60回 / 成功者という名の奴隷


マンハッタンの上空、400メートル。

雲を突き抜ける超高層ビル『ゼニス・タワー』の最上階ペントハウス。

下界の喧騒も、デモ隊のシュプレヒコールも、ここまでは届かない。聞こえるのは、空調の低い唸りと、クリスタルのグラスが触れ合う硬質な音だけ。


「……寒々しい場所ですわね」


私は、総大理石の床をヒールで鳴らしながら呟いた。

部屋の壁には、値札がついたままのような現代アート。天井からは、家一軒分はするであろうシャンデリア。

そして、そこに集う人々は、まるで美術館の彫像のように美しく、そして冷たかった。


彼らは「1%の中の1%」。

世界を動かすコングロマリットの会長、石油王、メディア王。

彼らは最高級のタキシードとドレスに身を包み、100年前のヴィンテージ・ワインを手にしているが、誰一人として笑っていない。

会話の内容は、「あそこの島を買った」「新しいジェット機の手配」「競合他社の買収」――それは会話ではなく、互いの戦闘力を確認し合うマウンティングの儀式だ。


「マリア。……ここの空気、成分分析を」

「はい。……酸素濃度は正常ですが、『虚栄心ヴァニティ』と『退屈ボアダム』の濃度が致死レベルです」


「可哀想に。……成功すればするほど、孤独になる牢獄ですわね」


          ◇


「――誰だ、君たちは」


パーティーの喧騒(といっても静かなものだが)が止まった。

部屋の中央、黄金の玉座のようなソファに座っていた男が、グラスを片手に立ち上がった。


マクシミリアン・ゴールド。

このタワーのオーナーであり、不動産からITまで牛耳る「ニューヨークの王」。

白髪交じりの髪をオールバックにし、その眼光は鋭いが、どこか焦点が合っていないような虚ろさがある。


「招待客リストにはない顔だ。……警備員は何をしている?」


「下の階で、美味しい紅茶を飲んで休憩中ですわ」


私は優雅にカーテシーをした。

「ごきげんよう、ミスター・ゴールド。……あまりに皆様がつまらなそうな顔をしていらしたから、余興に参りましたの」


「つまらない、だと?」

マクシミリアンが鼻で笑った。

「冗談だろう。ここにあるのは世界の全てだ。このワイン一本で、庶民の年収が吹き飛ぶ。このキャビアは、王族しか口にできない極上品だ。……我々は最高の人生を謳歌している」


「そうかしら?」


私は彼の目の前に進み出た。

彼の手にあるグラス。中身はほとんど減っていない。

テーブルの上の豪華な料理。誰も手を付けていない。


「貴方の舌は、もう麻痺しているようね。……高価なものを『味わう』のではなく、『消費する』ことだけに義務感を感じている」


私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「教えてあげる。……貴方の目は、『満たされた王』の目ではありません。……『餓死寸前の囚人』の目よ」


「……無礼な!」


マクシミリアンが激昂してグラスを叩きつけた。

パリーン!

赤い液体が、白い大理石に血のように広がる。


「私は成功者だ! この街を見下ろす支配者だ! 欲しいものは何でも手に入る! 空腹などあるものか!」


「いいえ、ありますわ。……貴方は飢えている」


私はマリアに合図を送った。

「マリア。……『禁断の果実』を」


「畏まりました。……少々、匂いがつきますが」


マリアが取り出したのは、銀のトレイ。

その上に乗っていたのは、フォアグラでもトリュフでもない。

発泡スチロールのカップに入った、どこにでもある「即席麺(カップヌードル・醤油味)」だった。


「……は?」

会場のセレブたちが絶句する。


マリアがポットのお湯を注ぐ。

3分後。蓋を開ける。


フワァァァ……!


漂ったのは、化学調味料と油揚げ、そして乾燥エビが混ざり合った、強烈にジャンキーで、暴力的なまでに食欲をそそる香り。

それは、ここにいる全員が、かつて「何者でもなかった頃」に嗅いだ、青春と貧乏の匂いだった。


「……な、なんだその下品な匂いは……!」

マクシミリアンがハンカチで鼻を覆う。

「ペサント(農民)の食い物だ! 私のタワーから出せ!」


「あら、嫌いですか?」


私は割り箸を割り、麺を持ち上げた。

湯気と共に、さらに濃厚な香りが広がる。


「思い出してご覧なさい、マクシミリアン。

……貴方がまだ、ブロンクスの小さなアパートで、世界に挑もうと野心を燃やしていた頃のこと。

凍える夜、たった1ドルのこのカップ麺が、どれほど温かくて、美味しかったか」


「……ッ!」


マクシミリアンの喉が、意思に反してゴクリと鳴った。

彼の脳裏にフラッシュバックする記憶。

冷たい部屋。成功への渇望。そして、腹の底から温めてくれたチープなスープの味。

今の彼は、何万ドルの食事をしても、あの頃の「生きている実感」を感じられない。


「成功者になるために、貴方は捨ててきたのね。

『安っぽい幸せ』を。……『だらしない自分』を。

……常に完璧で、常に高価で、常に特別でなければならないという呪い」


私はカップ麺を、彼の鼻先に突き出した。


「でも、今の貴方は誰も見ていませんわ。

……お食べなさい。ただの『マックス少年』に戻って」


「……よせ……。私は……私は……!」


彼は震える手で、割り箸を受け取った。

プライドが抵抗する。しかし、本能(魂の飢餓)がそれを凌駕する。


ズズッ……。


静まり返ったペントハウスに、麺を啜る音が響いた。

一口、食べた瞬間。


「……っ……う、ぅぅ……」


マクシミリアンが膝から崩れ落ちた。


「……うまい……。……なんだこれ……うまいよぉ……」


塩辛いスープ。ボソボソした謎肉。

それが、彼の冷え切った内臓に染み渡り、張り詰めていた緊張の糸を焼き切った。


「……ずっと……食べたかった……。高級フレンチなんて……もう味もしないんだ……。……本当は……Tシャツで、テレビを見ながら……これを食いたかったんだぁぁ!!」


ダムが決壊した。

「王」が泣きながらカップ麺を啜る姿を見て、周囲のセレブたちの仮面も剥がれ落ちた。


「……私にもくれ! 本当はドレスなんて窮屈で死にそうなのよ!」

「俺もだ! キャビアよりポテトチップスが食いたい!」

「コーラをくれ! ヴィンテージじゃない、砂糖たっぷりのやつを!」


「はいはい、皆様。……たくさんありましてよ」


マリアが空間収納を開放する。

そこから溢れ出したのは、ハンバーガー、ピザ、ドーナツ、缶ビール。

ジャンクフードの山。

世界一の富豪たちが、床に座り込み、ネクタイを緩め、ハイヒールを放り投げ、1ドルや2ドルの食べ物を貪り食う。


そこはもう、成功者たちの社交場ではない。

ただの「放課後の部室」のような、無防備で、だらしない、幸福な空間だった。


「……ふぅ」


スープまで飲み干したマクシミリアンが、床に大の字になって天井を見上げた。

その顔には、憑き物が落ちたような安らかな笑みが浮かんでいた。


「……負けたよ、マダム。

……私は、このタワーの持ち主なんかじゃない。……『成功』という名の主君に仕える、ただの奴隷だったんだな」


「ええ。……でも、奴隷解放宣言は今、出されましたわ」


私は彼に、安物のタオルを投げ渡した。


「これからは、好きな時に好きなものを食べなさい。

……誰に笑われようと、貴方が『美味しい』と思うものが、世界で一番のご馳走なのですから」


「……ああ。そうするよ」


マクシミリアンは目を閉じた。

「……少し、眠らせてくれ。……満腹で、眠いんだ……」


1分後。

ペントハウスには、億万長者たちの高らかなイビキが響き渡っていた。


「……制圧完了ですわね」

ソフィアちゃんが、ジャンクフードの空き箱の山を見て呆れながら記録する。

「頂上がこれなら、もうニューヨークに怖いものはありませんわ」


「いいえ、まだ一つだけ残っています」


私は窓の外、ウォール街の中心にある建物を指差した。

そこには、世界の経済時間を支配する「ベル」がある。

あれが鳴り続ける限り、人々はパブロフの犬のように走り続ける。


「行きましょう。……明日の朝、あの鐘の音を変えて差し上げなくては」


摩天楼の頂で、私は夜景を見下ろした。

煌めく光の一つ一つが、今は少しだけ優しく瞬いているように見えた。

甘い革命は、いよいよ心臓部へ。

競争の終わりの合図を、私が鳴らしてあげる。



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