表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/11

第6話 社交界という戦場

王城の謁見の間へと続く大理石の回廊は、独特の匂いに満ちていた。

古びたタペストリーの埃っぽさと、それを隠すために焚かれた高価な香木。そして何より、何百人もの人間が発する「虚栄心」と「嫉妬」という名の、甘ったるく腐りかけた体臭。


「……空気が悪いですね」


私の背後、影のように付き従うベルナデット(ベル)が、小声で毒づくのが聞こえた。

いつも下げている剣こそ預けてきたものの、彼女のマントの下の手は、いつでも攻撃に繰り出せるよう緊張で強張っている。


「そうかしら? 私には、みんなが一生懸命『自分を見て』と叫んでいる、賑やかな場所に見えるけれど」


私は扇を口元に当て、優雅に囁き返す。

視線の先、巨大な扉が重々しい音を立てて開かれた。


一瞬の静寂。

そして、さざ波のように広がる囁き声。


「あれが、ローゼンタール家の……」

「夫を亡くして出戻ったという……」

「まあ、なんて派手なドレス。喪に服す気もないのかしら」

「ふん、没落寸前の家が、よくもまあ顔を出せたものだ」


四方八方から突き刺さる視線。

侮蔑、好奇心、嘲笑。

普通の令嬢なら、この「悪意の針山」に足がすくみ、俯いてしまうところでしょう。

けれど、私の頭脳は、この状況を全く別の図式として処理ふかんする。


(あら、注目度一〇〇パーセント。プロモーションとしては大成功ね)


私は背筋を伸ばし、かつて社交界の華と呼ばれたステップで、会場の中央へと進み出た。

深紅のドレスが、シャンデリアの光を受けて濡れたように輝く。

マリアが完璧に仕上げてくれた髪、ベルが磨いてくれた靴。

今の私は無敵の要塞だ。


「ごきげんよう、皆様」


私が微笑むと、数人の男性貴族が息を呑む音がした。

その隙を突くように、一人の男が歩み寄ってくる。

口元の髭を丁寧に撫で付けた、中年太りの男性。ヴェルナー伯爵。王妃派の腰巾着として有名な、典型的な「虎の威を借る狐」だ。


「やあやあ、これはレティーティア様。……いやはや、災難でしたなぁ」


彼はワイングラスを片手に、ねっとりとした視線を私の胸元から顔へと這わせる。


「若くして未亡人とは、実に不憫だ。女手一つで傾いた家を支えるのは、さぞかし『荷が重い』でしょう? どうです、私が相談に乗りましょうか? ……夜の個人的な時間になら、たっぷりと」


下卑た笑い。周囲の貴婦人たちが、扇の陰でクスクスと笑う。

「相談」の意味など明白だ。彼は私を、庇護を求めて媚びを売る「哀れな弱者」として値踏みしている。


ベルが殺気を放ち、一歩踏み出そうとするのを、私は背中で制した。

必要ないわ。

こんな可愛い挑発、私が「全肯定」で包んで差し上げればいいだけのこと。


「まあ、ヴェルナー伯爵。……なんてお優しいのでしょう」


私は扇をパチンと閉じ、両手を組んで感激したように彼を見つめた。


「え?」


「私の『経験値』を、それほど高く評価してくださるなんて。夫を見送り、死という別れすら乗り越えた私の精神性を、『荷が重い』どころか『共に語らう価値がある』と認めてくださるのですね?」


「は? いや、私は……」


「それに、大切な夜の時間まで割いてくださるなんて。……伯爵夫人はなんと寛大な方なのでしょう! それとも、貴方様が奥様を寂しがらせているから、その罪滅ぼしに私のような『自由な女』に救いを求めていらっしゃるのかしら?」


ニコリ。

眼球の動き、汗腺の開き具合から、彼の家庭内での冷え切った地位と、満たされない承認欲求が見て取れた。

私の言葉は、彼の「下心」を「高尚な哲学」と「家庭の愚痴」に強引に翻訳したのだ。


「救い……? いや、違う、私はただ……」


「ふふ、無理をなさらなくても結構ですよ。貴方のその立派なお髭……毎朝、鏡の前で何分かけて整えていらっしゃるの? その几帳面さが、誰にも理解されずに孤独を感じているのでしょう?」


私は彼の手を取り、そっと髭の先を撫でた。


「可愛いわ。貴方のその、必死な虚勢」


「……っ!」


伯爵の顔が、茹でたタコのように真っ赤になった。

羞恥か、図星を突かれた動揺か。

彼はパクパクと口を開閉させた後、「失礼する!」と叫んで、逃げるように人混みへ消えていった。


周囲が静まり返る。

毒を吐いたはずが、なぜか骨抜きにされて退散した伯爵。

その奇妙な光景に、誰もが私をどう扱っていいか分からず、困惑している。


(ふふ、これで当分は静かになるわね)


私はマリアから新しいシャンパンを受け取り、喉を潤した。

その時だ。

二階のバルコニー席から、突き刺すような冷気を感じたのは。


見上げると、そこに一人の女性がいた。

氷のような銀髪。豪奢なドレス。そして、感情の一切を削ぎ落とした鉄色の瞳。

――王妃様。


彼女は私を見下ろしていた。

まるで、害虫を見るような、あるいは……「理解できない怪物」を見るような目で。

目が合った瞬間、彼女はフイと視線を逸らし、カーテンの奥へと消えていった。


「……寂しそうな背中」


私の独り言に、ベルが耳を疑うように聞き返す。


「寂しそう? 今の眼差しは、明確な敵意でしたが」

「敵意は関心の裏返しよ。……あの方は、高いところにいすぎて、誰も隣に立てないのね」


いつか、あの高い場所から引きずり下ろして、私の膝の上で甘えさせてあげなくては。

そう決意を新たにしつつ、私は人混みの熱気に少し酔いを感じていた。


「少し、風に当たってくるわ」

「お供します」

「いいえ、すぐそこのバルコニーよ。貴女たちはここで、美味しいカナッペでも食べていてちょうだい」


心配性の二人を置き去りに、私は大広間を抜け出した。


          ◇


夜のバルコニーは、冷たく澄んだ空気に満ちていた。

会場の喧騒が、分厚いガラス戸の向こうで遠い波音のように聞こえる。


手すりに寄りかかり、私は夜空を見上げた。

王城の敷地の外れ、黒々とそびえ立つ影がある。

「魔術師塔」。

宮廷魔術師団の研究施設であり、一般人が近づくことを禁じられた、神秘と狂気の塔。


「……綺麗ね」


塔の窓から、不規則に明滅する光が漏れている。

赤、青、緑。

それはまるで、塔そのものが呼吸をしているかのよう。


――ドォォォン!!


突如、腹に響くような爆発音が夜気を震わせた。

塔の中腹から、赤い閃光が噴き出す。

ガラスが砕ける音。そして、黒煙。


「きゃああっ!?」

「なんだ、襲撃か!?」


会場内がパニックになる気配がする。

けれど、私は動かない。

私の眼は、爆発の煙の中から飛び出した「何か」を捉えていたからだ。


それは鳥でも、瓦礫でもなかった。

小さな影。

風に煽られる、ダボダボの黒いローブ。

重力に従って、放物線を描きながら落下してくる、一人の人間。


「……落ちてきた」


私の予言通り。

物理法則を無視した速度で、その影は私のいるバルコニー――のすぐ真下の庭園に向かって、真っ逆さまに墜落してくる。


「マリア! ベル!」


私が呼ぶより早く、ガラス戸が蹴破られた。

白銀の疾風。ベルナデットだ。

彼女は状況を一瞬で理解し、手すりを飛び越えた。


「無茶な……!」


ベルは空中で体勢を整え、落下してくる「影」を受け止めるべく、庭木のクッションへと突っ込んでいく。

ガサガサガサッ! ドスン!


鈍い音が響き、土煙が舞う。


私は手すりから身を乗り出した。

眼下、無残に折れた植え込みの中で、ベルが苦悶の表情で起き上がる。

その腕の中には、黒い煤で汚れ、気絶している……ように見える、小柄な人物が抱えられていた。


フードが外れ、月明かりに照らされたその顔は。

驚くほど整った、けれど生意気そうな少年の……いいえ。


(……骨格、皮膚の質感。間違いなく女の子ね)


私は扇を開き、口元を隠してニヤリと笑った。


「ナイスキャッチよ、ベル。……さあ、新しいお友達を『保護』しましょうか」


空から降ってきたのは、厄災か、それとも福音か。

どちらにせよ、ローゼンタール家にお持ち帰りするには十分すぎるほど、可愛らしくて手のかかりそうな「素材」だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ