第6話 社交界という戦場
王城の謁見の間へと続く大理石の回廊は、独特の匂いに満ちていた。
古びたタペストリーの埃っぽさと、それを隠すために焚かれた高価な香木。そして何より、何百人もの人間が発する「虚栄心」と「嫉妬」という名の、甘ったるく腐りかけた体臭。
「……空気が悪いですね」
私の背後、影のように付き従うベルナデット(ベル)が、小声で毒づくのが聞こえた。
いつも下げている剣こそ預けてきたものの、彼女のマントの下の手は、いつでも攻撃に繰り出せるよう緊張で強張っている。
「そうかしら? 私には、みんなが一生懸命『自分を見て』と叫んでいる、賑やかな場所に見えるけれど」
私は扇を口元に当て、優雅に囁き返す。
視線の先、巨大な扉が重々しい音を立てて開かれた。
一瞬の静寂。
そして、さざ波のように広がる囁き声。
「あれが、ローゼンタール家の……」
「夫を亡くして出戻ったという……」
「まあ、なんて派手なドレス。喪に服す気もないのかしら」
「ふん、没落寸前の家が、よくもまあ顔を出せたものだ」
四方八方から突き刺さる視線。
侮蔑、好奇心、嘲笑。
普通の令嬢なら、この「悪意の針山」に足がすくみ、俯いてしまうところでしょう。
けれど、私の頭脳は、この状況を全く別の図式として処理する。
(あら、注目度一〇〇パーセント。プロモーションとしては大成功ね)
私は背筋を伸ばし、かつて社交界の華と呼ばれたステップで、会場の中央へと進み出た。
深紅のドレスが、シャンデリアの光を受けて濡れたように輝く。
マリアが完璧に仕上げてくれた髪、ベルが磨いてくれた靴。
今の私は無敵の要塞だ。
「ごきげんよう、皆様」
私が微笑むと、数人の男性貴族が息を呑む音がした。
その隙を突くように、一人の男が歩み寄ってくる。
口元の髭を丁寧に撫で付けた、中年太りの男性。ヴェルナー伯爵。王妃派の腰巾着として有名な、典型的な「虎の威を借る狐」だ。
「やあやあ、これはレティーティア様。……いやはや、災難でしたなぁ」
彼はワイングラスを片手に、ねっとりとした視線を私の胸元から顔へと這わせる。
「若くして未亡人とは、実に不憫だ。女手一つで傾いた家を支えるのは、さぞかし『荷が重い』でしょう? どうです、私が相談に乗りましょうか? ……夜の個人的な時間になら、たっぷりと」
下卑た笑い。周囲の貴婦人たちが、扇の陰でクスクスと笑う。
「相談」の意味など明白だ。彼は私を、庇護を求めて媚びを売る「哀れな弱者」として値踏みしている。
ベルが殺気を放ち、一歩踏み出そうとするのを、私は背中で制した。
必要ないわ。
こんな可愛い挑発、私が「全肯定」で包んで差し上げればいいだけのこと。
「まあ、ヴェルナー伯爵。……なんてお優しいのでしょう」
私は扇をパチンと閉じ、両手を組んで感激したように彼を見つめた。
「え?」
「私の『経験値』を、それほど高く評価してくださるなんて。夫を見送り、死という別れすら乗り越えた私の精神性を、『荷が重い』どころか『共に語らう価値がある』と認めてくださるのですね?」
「は? いや、私は……」
「それに、大切な夜の時間まで割いてくださるなんて。……伯爵夫人はなんと寛大な方なのでしょう! それとも、貴方様が奥様を寂しがらせているから、その罪滅ぼしに私のような『自由な女』に救いを求めていらっしゃるのかしら?」
ニコリ。
眼球の動き、汗腺の開き具合から、彼の家庭内での冷え切った地位と、満たされない承認欲求が見て取れた。
私の言葉は、彼の「下心」を「高尚な哲学」と「家庭の愚痴」に強引に翻訳したのだ。
「救い……? いや、違う、私はただ……」
「ふふ、無理をなさらなくても結構ですよ。貴方のその立派なお髭……毎朝、鏡の前で何分かけて整えていらっしゃるの? その几帳面さが、誰にも理解されずに孤独を感じているのでしょう?」
私は彼の手を取り、そっと髭の先を撫でた。
「可愛いわ。貴方のその、必死な虚勢」
「……っ!」
伯爵の顔が、茹でたタコのように真っ赤になった。
羞恥か、図星を突かれた動揺か。
彼はパクパクと口を開閉させた後、「失礼する!」と叫んで、逃げるように人混みへ消えていった。
周囲が静まり返る。
毒を吐いたはずが、なぜか骨抜きにされて退散した伯爵。
その奇妙な光景に、誰もが私をどう扱っていいか分からず、困惑している。
(ふふ、これで当分は静かになるわね)
私はマリアから新しいシャンパンを受け取り、喉を潤した。
その時だ。
二階のバルコニー席から、突き刺すような冷気を感じたのは。
見上げると、そこに一人の女性がいた。
氷のような銀髪。豪奢なドレス。そして、感情の一切を削ぎ落とした鉄色の瞳。
――王妃様。
彼女は私を見下ろしていた。
まるで、害虫を見るような、あるいは……「理解できない怪物」を見るような目で。
目が合った瞬間、彼女はフイと視線を逸らし、カーテンの奥へと消えていった。
「……寂しそうな背中」
私の独り言に、ベルが耳を疑うように聞き返す。
「寂しそう? 今の眼差しは、明確な敵意でしたが」
「敵意は関心の裏返しよ。……あの方は、高いところにいすぎて、誰も隣に立てないのね」
いつか、あの高い場所から引きずり下ろして、私の膝の上で甘えさせてあげなくては。
そう決意を新たにしつつ、私は人混みの熱気に少し酔いを感じていた。
「少し、風に当たってくるわ」
「お供します」
「いいえ、すぐそこのバルコニーよ。貴女たちはここで、美味しいカナッペでも食べていてちょうだい」
心配性の二人を置き去りに、私は大広間を抜け出した。
◇
夜のバルコニーは、冷たく澄んだ空気に満ちていた。
会場の喧騒が、分厚いガラス戸の向こうで遠い波音のように聞こえる。
手すりに寄りかかり、私は夜空を見上げた。
王城の敷地の外れ、黒々とそびえ立つ影がある。
「魔術師塔」。
宮廷魔術師団の研究施設であり、一般人が近づくことを禁じられた、神秘と狂気の塔。
「……綺麗ね」
塔の窓から、不規則に明滅する光が漏れている。
赤、青、緑。
それはまるで、塔そのものが呼吸をしているかのよう。
――ドォォォン!!
突如、腹に響くような爆発音が夜気を震わせた。
塔の中腹から、赤い閃光が噴き出す。
ガラスが砕ける音。そして、黒煙。
「きゃああっ!?」
「なんだ、襲撃か!?」
会場内がパニックになる気配がする。
けれど、私は動かない。
私の眼は、爆発の煙の中から飛び出した「何か」を捉えていたからだ。
それは鳥でも、瓦礫でもなかった。
小さな影。
風に煽られる、ダボダボの黒いローブ。
重力に従って、放物線を描きながら落下してくる、一人の人間。
「……落ちてきた」
私の予言通り。
物理法則を無視した速度で、その影は私のいるバルコニー――のすぐ真下の庭園に向かって、真っ逆さまに墜落してくる。
「マリア! ベル!」
私が呼ぶより早く、ガラス戸が蹴破られた。
白銀の疾風。ベルナデットだ。
彼女は状況を一瞬で理解し、手すりを飛び越えた。
「無茶な……!」
ベルは空中で体勢を整え、落下してくる「影」を受け止めるべく、庭木のクッションへと突っ込んでいく。
ガサガサガサッ! ドスン!
鈍い音が響き、土煙が舞う。
私は手すりから身を乗り出した。
眼下、無残に折れた植え込みの中で、ベルが苦悶の表情で起き上がる。
その腕の中には、黒い煤で汚れ、気絶している……ように見える、小柄な人物が抱えられていた。
フードが外れ、月明かりに照らされたその顔は。
驚くほど整った、けれど生意気そうな少年の……いいえ。
(……骨格、皮膚の質感。間違いなく女の子ね)
私は扇を開き、口元を隠してニヤリと笑った。
「ナイスキャッチよ、ベル。……さあ、新しいお友達を『保護』しましょうか」
空から降ってきたのは、厄災か、それとも福音か。
どちらにせよ、ローゼンタール家にお持ち帰りするには十分すぎるほど、可愛らしくて手のかかりそうな「素材」だった。




