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第58回 / 貧困街の聖母(エレナ)


ニューヨーク、マンハッタン島の北端。

煌びやかなタイムズスクエアの光が届かない、高架下の暗がり。

そこは、コンクリートと排気ガス、そして古びた段ボールの臭いが充満する、この街の「吹き溜まり」だった。


「……寒いです」

エレナが、修道服の襟を合わせて呟いた。

「気温のせいではありません。……ここには、心が凍えてしまった人たちの吐息が満ちています」


私たちは、橋脚の下に作られたテント村の前に立っていた。

そこには、この国の競争社会から脱落したとされる人々――ホームレスたちが、ボロ布を纏い、身を寄せ合って震えていた。

彼らの目は、私たちを見ても動かない。希望を持つことすら「コスト」だと学習してしまった、虚無の目だ。


「……自己責任、か」

ベルナデットが、足元に転がる空き缶を避けて歩く。

「この国の人間は言う。『貧しいのは努力しなかったからだ』『チャンスは平等にあったはずだ』と。……だが、本当にそうか?」


「いいえ。ただの『椅子取りゲーム』の敗者ですわ」

私は扇で、彼らを隔てる金網を指した。

「椅子が足りないように設計されているのに、座れなかった人を『足が遅い』と責める。……残酷なルールですこと」


          ◇


「おい、あんたら。……観光なら他を当たりな」


テントの影から、片足を引きずった老人が現れた。

伸び放題の白髪と髭。着ているのは、かつて軍服だったと思われる擦り切れたジャケット。

名前はジョー。このテント村の長老的存在らしい。


「ここは動物園じゃねぇ。……見世物にするなら、チップを置いていきな」

ジョーの声には、敵意よりも諦めが滲んでいた。


「観光ではありません」

エレナが一歩前に出る。

「お食事の準備をしに参りました」


「食事? ……教会の炊き出しなら、来週だろ。それとも期限切れのドーナツか?」

「いいえ。……フルコースです」


エレナが微笑み、手を叩いた。

「マリアさん、展開オープンをお願いします」


「畏まりました。……本日のメニューは、王宮晩餐会仕様です」


マリアが指を鳴らすと、殺風景なアスファルトの上に、純白のテーブルクロスがかけられた長机が、魔法のように次々と出現した。

銀の燭台。磨き上げられたカトラリー。そして、クリスタルのグラス。


「な、なんだ……!?」

「手品か……?」


テントから人々が顔を出す。

そこへ、マリアが巨大なクローシュを開けた。


ボワァァァ……!


立ち上るのは、濃厚なコンソメの香り、香ばしいローストビーフの匂い、そしてトリュフをふんだんに使ったマッシュポテトの湯気。

それは、彼らが一生嗅ぐことのないはずの、「成功者」の食卓の匂いだった。


「さあ、皆様。……席についてください」

エレナが手招きする。


しかし、ジョーは動かなかった。

彼は震える手で、自分の汚れた服を掴んだ。


「……からかってるのか?」

彼の声が強張る。

「俺たちは……ゴミだ。こんな……こんな綺麗な場所で飯を食う資格なんてねぇ。……俺は、国のために戦って、足を失って、仕事も失って……努力が足りなかったから、ここにいるんだ」


彼は「自己責任」という呪いを、誰よりも深く内面化していた。

自分は罰を受けているのだと、自分自身を裁いている。


「……ジョーさん」


エレナが静かに近づき、その汚れた手を取った。

ジョーが驚いて手を引こうとするが、聖女の力は優しく、しかし強かった。


「努力なんて、関係ありません」

「え……?」

「お腹が空くのに、資格はいりますか? ……赤ちゃんは、努力したからお乳をもらえるのですか?」


エレナは彼の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、慈愛以外の何ものも映っていない。


「貴方が生きてここにいる。……お腹が空いている。

それだけで、貴方は最高のお客様です。

……さあ、冷めないうちに召し上がってください」


エレナは彼の手を引き、上座の椅子にエスコートした。

ジョーは、恐る恐る椅子に座る。ふかふかのクッション。

目の前には、黄金色に輝くスープ。


「……あ……」


彼がスプーンを口に運ぶ。

一口、飲んだ瞬間。


「……うぅ……ッ!!」


ジョーの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「……うまい……。温かい……。……俺、まだ……人間だったんだ……」


「ええ、人間ですとも」

私が彼の肩にナプキンを掛けてあげた。

「ここはニューヨークで一番、予約の取れないレストランよ。……心ゆくまで楽しみなさい」


それを合図に、周囲のホームレスたちが一斉にテーブルへ殺到した。

「うめぇ!」「肉だ、肉だ!」「神様……!」

彼らは貪るように、しかし泣きながら食べた。

ただの栄養補給ではない。奪われていた「尊厳」を、胃袋に取り戻していく儀式。


          ◇


「――NYPD(ニューヨーク市警)だ! そこで何をしている!」


サイレンの音と共に、パトカーが数台、急停車した。

降りてきたのは、防弾チョッキを着た屈強な警官たち。

手には警棒、腰には銃。


「無許可の集会だな! 公衆衛生法違反だ! 直ちに解散しろ!」

リーダー格の警官が怒鳴る。

「おい、そこのホームレスども! 誰が許可した! ここは市の所有地だぞ!」


楽しい晩餐会が一転、恐怖の場となる。

ジョーたちが怯えてスプーンを落とす。


「……おまわりさん」

エレナが警官隊の前に立ちはだかった。

彼女はか弱いが、その背中には、神々しいほどの怒気が立ち上っていた。


「許可? ……お腹を空かせた人にパンをあげるのに、許可証がいるのですか?」


「法律だ! 衛生管理されていない食事を提供するのは違法だ! それに、こいつらは街の景観を汚す不法占拠者だ!」


「汚しているのは、貴方たちの『心の貧しさ』です!」

エレナが一喝した。

「彼らを見てください! 彼らが何をしたというのです? ただ、運が悪かっただけかもしれない。……明日は貴方がここに座っているかもしれないのですよ!」


「なにっ……公務執行妨害で逮捕するぞ!」

警官が手錠を取り出す。ベルナデットが剣に手をかける。


「お待ちなさい」


私が間に割って入った。


「オフィサー(おまわりさん)。……貴方、いい匂いがすると思いませんこと?」


「は?」


「マリア。……『警察官用スペシャル・テイクアウト』を」

「はい。……夜勤明けの胃に優しい、特製シチューと焼きたてパンです」


マリアが、警官の鼻先に、湯気の立つ皿を突き出した。

警官の喉が、ゴクリと鳴った。

彼らもまた、低賃金と過重労働、そして市民からの憎悪に晒され、コンビニの冷たいドーナツで命を繋いでいる「システム」の犠牲者だ。


「……これは……賄賂か?」

「いいえ、『お裾分け』ですわ」


私は彼の警棒を持つ手に、そっとスプーンを握らせた。


「貴方も、本当は彼らを追い払いたいわけじゃないでしょう? ……仕事だから、仕方なくやっている」

「……」

「辛い仕事ね。……心を殺して、弱者を叩くなんて」


私は彼の防弾チョッキをコツンと叩いた。


「脱ぎなさい、そんな重いもの。……ここには敵はいません。空腹という友達がいるだけよ」


警官の手が震える。

シチューの匂いが、彼の「職務」という理性を溶かしていく。

彼は周囲を見渡した。

部下たちも、ヨダレを垂らして皿を見つめている。


「……くそっ……」

警官は帽子を脱ぎ、深いため息をついた。

「……今回だけだ。……見逃してやる」


彼はスプーンをシチューに突っ込み、口に運んだ。

「……んぐっ……! ……ちくしょう、うめぇな……」


「でしょう?」


私は警官を、ジョーの隣の席に座らせた。

「おい、じいさん。……少し詰めろ」

「へっ……おまわりも腹が減るのかよ」

「うるせぇ。……今日のシチューは特別だ」


奇妙な光景。

追い払う側と、追われる側が、同じテーブルで肩を並べてシチューを啜っている。

そこには「法」も「格差」もない。

ただ、「美味しい」という共通の幸福があるだけ。


「……これが、真の治安維持ピース・キーピングですわね」


ソフィアちゃんが、満足げにその光景を記録(撮影)する。


「ええ。……お腹がいっぱいなら、人は争わないものよ」


私は高架下の闇を見上げた。

ほんの少しだけ、ここにも光が差した気がする。

それは街灯の明かりではなく、人の心の灯火だ。


「さて。……底辺ボトムが温まったら、次は『断絶』を埋めに行きましょうか」


私は橋の向こう、デモ隊の声が聞こえる大通りを見据えた。

1%の富裕層と、99%の庶民。

怒りと憎しみで分断されたこの街を繋ぐには、もっと大きなテーブルが必要だわ。


「マリア。……お茶会の準備を。史上最大規模でよろしくて?」

「お任せください。ニューヨーク中の紅茶を買い占めておきます」



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