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第57回 / 空売りのストレス、買い占めます


マンハッタンの摩天楼の中でも、ひときわ冷ややかな威圧感を放つ黒いビル。

その最上階にあるオフィスは、まるで深海の潜水艦のようだった。

窓はすべて厚いカーテンで閉ざされ、照明は落とされ、壁一面を埋め尽くす無数のモニターだけが、血のような赤い光を放っている。


そこに座る男の名は、レイモンド・ヴァルチャー。

「ヘッジファンドの帝王」「墓掘り人」と恐れられる伝説の相場師だ。

彼は今、獲物を狙うハゲタカのように背中を丸め、画面上の赤いチャート(暴落の軌跡)を睨みつけていた。


「……落ちろ。もっとだ。……まだ足りない」


彼の声は、祈りというより呪詛に近かった。

爪を噛む音が、静寂な部屋に響く。

彼は「空売り(ショート)」のポジションを大量に持っている。世界が不幸になればなるほど、企業が倒産すればするほど、彼の口座には莫大な利益が積み上がる仕組みだ。


「悲鳴を上げろ、市場よ。……絶望こそがゴールドだ」


「……趣味が悪いですわね」


突如、部屋の明かりがついた。

レイモンドが弾かれたように振り返ると、そこには優雅に紅茶のセットを広げている私と、彼のポートフォリオ(資産内訳)を勝手に覗き見ているソフィアちゃんがいた。


          ◇


「な、何奴だ! セキュリティ!」

レイモンドが叫ぶが、誰も来ない。


「無駄ですわ。警備員の方々は、マリアの焼いたスコーンに夢中ですもの」

私は湯気の立つカップを彼のデスクに置いた。

「ごきげんよう、レイモンド様。……随分と顔色がお悪くてよ? まるで幽霊みたい」


「……出て行け! 今、重要な局面なんだ! ソフィアとかいう小娘が市場を荒らしたせいで、俺のシナリオが狂ってるんだ!」


彼は血走った目で私を睨み、再びモニターへ向き直った。

「上がるな……上がるなよ……! 幸福度連動型? ふざけるな! 人間なんてのは、欲望と恐怖で動く生き物だ! バブルは必ず弾けるんだ!」


「レイモンド様」


私は彼の隣に立ち、赤い光に照らされた横顔を見下ろした。


「貴方は、世界が燃えるのを待っているのね。……でも、本当に燃えているのは、貴方の『胃袋』ではありませんこと?」


「……ッ」


「デスクの上の大量の胃薬。カフェイン錠剤。そして、足元の貧乏ゆすりによる絨毯の擦り切れ。

……貴方は、自分が仕掛けた罠に、自分自身がかかっているわ」


「黙れ! これは『戦い』だ! 俺はリスクを取っている! 他人が夢を見ている間に、俺は現実(悪夢)を見据えているんだ!」


レイモンドが吠える。

「希望なんて嘘だ! 上昇なんて幻想だ! 最後に残るのは重力だけだ! ……落ちるものだけが本物なんだよ!」


彼の叫びには、歪んだ確信があった。

かつて何かを信じ、裏切られ、傷ついた末にたどり着いた、「絶望だけは裏切らない」という悲しい信仰。


「……ソフィアちゃん。彼のポジションの分析を」

私は静かに指示を出した。


「はい、レティ様」

ソフィアちゃんが眼鏡(伊達)を光らせ、冷徹に告げる。


「彼は全財産を賭けて『世界恐慌』にベットしています。

……ですが、これは経済的な投資ではありませんわね。

彼は『自分が不幸であること』を正当化するために、世界中を道連れにしようとしている……いわば『感情的な自爆テロ』ですわ」


「分析完了ね」


私はレイモンドの肩に手を置いた。

彼はビクリと震え、振り払おうとした。

だが、その手は冷たく、汗ばんでいた。


「怖いのね、レイモンド」


「……な、何を……」


「もし世界が良くなってしまったら。もし株価が上がって、みんなが笑顔になってしまったら。

……『絶望しかしらない自分』だけが、馬鹿みたいに取り残されてしまうから」


「……やめろ」


「だから、貴方は必死に祈っている。

『みんな不幸になれ』『失敗しろ』と。

……そうすれば、一人ぼっちの貴方も、寂しくないから」


図星を刺されたレイモンドの顔が歪む。

彼の作り上げた「冷徹な相場師」の仮面が、音を立ててひび割れていく。


「……違う……俺は……ただ勝ちたいだけだ……! 負けるのが怖いんだ! 金がなくなったら、誰も俺を見ない! 俺には何もないんだ!」


「いいえ。貴方には『不安』があるわ」


私は彼の椅子をくるりと回転させ、正面から向き合った。


「貴方は、その膨大な不安をエネルギーにして、今まで生き延びてきた。

……でも、もう限界よ。貴方のマージンは、とっくに債務超過パンクしているわ」


私はマリアから、一枚の小切手を受け取った。

額面は空白。サイン欄には、私のキスマーク(スタンプ)。


取引トレードしましょう、レイモンド」


「……取引だと?」


「ええ。私が、貴方の抱える『空売りのポジション(不安)』を、すべて買い占めます」


「は……? 何を言って……」


「その代わり、貴方には……この『安らぎ(ロング)』のポジションを持ってもらいます」


私は強引に、彼の頭を抱き寄せた。

私の胸元へ。


「な、なにを……離せ! 俺は……!」


「暴れちゃダメ。……今、貴方は『強制決済ロスカット』されたのよ」


柔らかい布の感触。

石鹸と、紅茶の甘い香り。

そして、トクトクと脈打つ、生きた人間の心音。

それは、彼が見続けてきたデジタルの数字とは対極にある、圧倒的な「アナログの現実」だった。


「……あ……」


レイモンドの思考が停止する。

「落ちる」ことばかり考えていた彼の脳が、ふわりと「受け止められる」感覚にバグを起こす。


「……落ちない……?」


「ええ。落ちないわ。私が支えているもの」


私は彼の髪を撫でた。

カサカサに乾いた髪。ずっと手入れもされず、ただかきむしられてきた髪。


「もう、画面を見なくていいの。

世界がどうなろうと、貴方はここにいていい。

……勝たなくていい。儲けなくていい。

ただ、今日一日、心臓が動いていただけでも……貴方は『黒字プラス』よ」


「……う……うぅ……」


レイモンドの手が、私の背中に回った。

最初は躊躇いがちに。やがて、すがりつくように強く。


「……怖かった……! 眠りたかった……! ずっと……ずっと……!」


堰を切ったように、帝王が泣き出した。

モニターの中で点滅する警告音アラートよりも大きな声で、人間としての悲鳴を上げた。


「よしよし。……辛かったわね。一人で戦って、偉かったわね」


私はソフィアちゃんに目配せした。

彼女は頷き、レイモンドのPCを操作した。


『 全ポジション・決済クローズ

『 注文:最高級羽毛布団・買い(ロング) 』


カチッ。

エンターキーが押された瞬間、部屋を埋め尽くしていた赤い光が消え、静寂な闇と、窓の隙間から差し込む月の光だけが残った。


「……レティ様。彼、気絶するように眠りましたわ」

マリアがブランケットを掛ける。


「ええ。……久しぶりの安眠でしょうね」


私は眠るレイモンドの涙で濡れた顔を拭いてあげた。

彼が手放した大量の「売り注文」は、市場に還流し、皮肉にも株価をさらに押し上げることになるだろう。

でも、今の彼には関係ない。

彼は今、夢の中で、数字のない世界を漂っているはずだから。


「さて。……空の上の怪物を退治したら、次は『地下』ですわね」


私は窓の外、光り輝く摩天楼の足元を見下ろした。

そこには、光が強ければ強いほど濃くなる影――スラム街が広がっている。

成功者になれなかった人々。自己責任という言葉で切り捨てられた人々。


「エレナ。……準備はよろしくて?」

「はい。……お腹を空かせた迷子たちが、待っています」


「行きましょう。……今夜は、ウォール街史上、最も贅沢で、最も利益の出ない『炊き出し』の開催よ」



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