第56回 / マネー・ゲームの摩天楼
大陸横断鉄道(もちろんマリアが貸し切った特別車両)の旅を終え、私たちはついに東海岸の心臓部、ニューヨークに降り立った。
グランド・セントラル駅を出た瞬間、頭上から降り注いできたのは、陽光ではなく「質量」だった。
コンクリートと鉄とガラスでできた巨大な墓標――摩天楼群。
空は狭く切り取られ、地上には万年日陰のような薄暗さと、地下鉄からの生暖かい風が吹き抜けている。
「……空気が、重いですわね」
私は日傘を差し、見上げた。
シリコンバレーの空気が「焦燥」だとすれば、この街の空気は「飢餓」だ。
どれだけ食べても満たされない、底なしの胃袋の中にいるような感覚。
「ここが、世界の財布……ウォール街か」
ベルナデットが剣呑な目つきで周囲を警戒する。
「殺気を感じるぞ。……だが、剣を持った者はいない。どこから来る殺気だ?」
「頭上だよ、ベル」
レンが指差した先には、ビルの側面に設置された巨大な電光掲示板があった。
そこを、赤い数字と緑の矢印が、生き物のように高速で流れていく。
『NYダウ:-350』『ナスダック:急落』『原油先物:高騰』
「あそこにある数字が動くたびに、誰かが死に、誰かが生き返る。……ここは戦場じゃなくて、巨大な『処刑場』だよ」
◇
私たちはウォール街の中心部へと歩を進めた。
行き交う人々は、高そうなスーツを着ているが、その目は誰も死んでいるか、あるいは血走っているかのどちらかだ。
耳にはイヤホン、手には二台のスマホ。
口からは「ショートしろ!」「損切りだ!」「買い支えろ!」という呪文が絶え間なく吐き出されている。
「……醜悪ですわね」
ソフィアちゃんが、軽蔑と興味が入り混じった複雑な表情で呟いた。
「あら、ソフィアちゃん。経済学者としては、ここは聖地なのではなくて?」
「ええ。かつては憧れましたわ。……『神の見えざる手』が働く、最も効率的で美しい市場だと」
彼女は眼鏡(伊達)をクイッと上げ、道端で頭を抱えているトレーダーを見下ろした。
「ですが、今のこれは『市場』ではありません。……ただの『カジノ』ですわ。しかも、胴元さえも制御不能になった、暴走したルーレットです」
「カジノなら、もっと楽しそうに遊ぶべきですのに」
私は扇で口元を隠した。
「見てご覧なさい。勝っている人でさえ、笑っていませんわ。『次は負けるかもしれない』という恐怖に震えているだけ」
その時、一人の男が私たちの目の前をよろめきながら通り過ぎた。
「……終わった……。レバレッジ100倍が……。俺の人生、全部溶けた……」
彼はそのまま、ふらふらと車道へ出ようとする。
ベルナデットが瞬時に動き、彼の襟首を掴んで歩道へ引き戻した。
「おい、死ぬ気か」
「……離せ! もう金がないんだ! 金がない俺に価値なんてない!」
男が叫ぶ。
その声に、周囲の人々は一瞥もくれない。
「敗者は去れ」。それがこの街の鉄の掟。金を持たぬ者は、人間としてカウントされない透明人間なのだ。
「……価値がない、ですって?」
私は男の前に立ち、彼の胸倉を掴んだベルの手を優しく解かせた。
「貴方の心臓は動いているわ。肺は息をしている。……それだけで、どんな株券よりも高い『配当』を生んでいるのに?」
「……は? 何言ってんだ……。金がなきゃ、飯も食えない、家にも住めない……! 数字がすべてなんだよ!」
「そう教え込まれてきたのね。……可哀想な『数字の奴隷』さん」
私はマリアに合図した。
マリアがバスケットから取り出したのは、札束でも小切手でもない。
焼きたてのクロワッサンだった。
「お食べなさい」
「……え?」
「貴方の胃袋は、ダウ平均株価なんて気にしていないわ。ただ、バターと小麦を欲しがっているだけ」
男は戸惑いながらも、クロワッサンを受け取った。
一口かじる。サクッという音。
バターの香りが、排気ガスと欲望の臭いを中和する。
「……う……うめぇ……」
男が泣き崩れる。
「……俺、朝から何も食ってなかった……。画面に張り付いて……トイレも行かずに……」
「ソフィアちゃん」
私は愛弟子を振り返った。
「この街のルール、少し『修正』が必要だと思いませんこと?」
「同感ですわ、レティ様」
ソフィアちゃんがタブレットを取り出し、不敵な笑みを浮かべる。
「ここの住人は、『貨幣』という一種類の物差しでしか世界を測れなくなっています。
……ですから、新しい『評価軸』を強引にインストールして差し上げましょう」
「新しい評価軸?」
レンが覗き込む。
「ええ。……『感情』ですわ」
ソフィアちゃんが画面をタップすると、複雑な数式とグラフが展開された。
「現在の市場は、恐怖と強欲(フィアー&グリード)だけで動いています。
そこに、第三の変数――『安らぎ(コンフォート)』と『自己肯定』を大量注入します。
……名付けて、『全肯定金融緩和』!」
「素敵。……つまり、どうなるの?」
「株価が『企業の業績』ではなく、『社員と株主の幸福度』に連動するように、アルゴリズムを書き換えます。
……ブラック企業の株は暴落し、ホワイトでぬるい企業の株が爆上がりする。
そういう『優しいパニック』を引き起こしますわ」
「やっておしまいなさい」
私は扇を振り下ろした。
ウォール街のど真ん中で、私たちは宣戦布告した。
目に見えない「数字」という神殺し。
「ベルナデット、エレナ。……物理的な介入も忘れずに」
「承知した。……ストレスで胃に穴が空きそうな連中を、片っ端から保護(確保)する」
「はい。……癒やしの炊き出し、準備完了です」
ニューヨークの空を見上げる。
冷たいビル風の中に、ほんのりと甘いバニラの香りが混じり始めた。
マネー・ゲームの盤面をひっくり返す時が来た。
勝者も敗者も関係ない。
最後に残るのは、満たされたお腹と、安らかな眠りだけよ。
「さあ、投資家の皆様。……貴方がたの『魂の値段』、私が鑑定して差し上げますわ」




