第55回 / 意識高い系、堕落の海へ
シリコンバレーの最深部。
そこに鎮座するのは、世界中のデータを吸い上げ、解析し、支配している巨大IT企業『オムニ・コープ』の本社ビル、通称『ザ・ブレイン(脳)』だ。
「……暑いですわ」
エントランスを抜けた瞬間、私は扇子をパタパタと仰いだ。
気温は空調で完璧に管理されているはずなのに、肌にまとわりつくような熱気がある。
それは、数万台のサーバーが吐き出す物理的な排熱と、そこで働く数千人のエリート社員たちが発する、焦燥という名の精神的な熱気だった。
「エネルギー効率、最悪だね」
レンが携帯端末で館内図をハッキングしながら呟く。
「サーバーの冷却に莫大な電力を使ってるのに、社員の脳みそ(CPU)はオーバーヒート寸前。……これじゃ、いつか爆発するよ」
「だからこそ、私たちが『冷却』しに来たのですわ」
私たちは、ビルの中枢である地下サーバー室へと向かった。
そこには、この会社の「効率化」を統べる責任者が待ち構えていた。
COO(最高執行責任者)、ミズ・パーフェクト。
髪を一本の乱れもなくまとめ上げ、両腕にスマートウォッチを装着し、秒単位でスケジュールを管理する「鉄の女」だ。
「――止まりなさい、侵入者たち」
彼女の声は、合成音声のように冷たく、感情が削ぎ落とされていた。
「貴女たちの行動は非合理的です。
ここは人類の知性の頂点。1秒のダウンタイムが、数億ドルの損失を生む場所。
『お茶会』や『お昼寝』などというバグ(不具合)が入り込む余地はありません」
彼女の背後では、ガラス越しに巨大なサーバー群が唸りを上げている。
赤く点滅するランプは、まるで充血した目玉のようだ。
「ミズ・パーフェクト。……貴女、汗をかいていましてよ?」
私は彼女に近づき、その完璧なメイクの下に滲む脂汗を指摘した。
「……これは生理現象です。無視すればいい」
「いいえ。……機械だって、熱が溜まれば壊れます。人間なら尚更ですわ」
私はサーバー室の分厚いガラスに手を当てた。
熱い。火傷しそうなほどの熱量。
「貴女たちは、この膨大な熱をどうしているの?」
「強力なファンで外部へ廃棄しています。……コストはかかりますが、システム維持のためには必要な犠牲です」
「……もったいない」
私は扇を閉じた。
「レン、ソフィアちゃん。……プランBを発動します」
「了解。……熱力学の法則を、ちょっと『優しく』書き換えちゃうね」
レンがニヤリと笑い、配電盤に特殊な魔導ケーブルを接続した。
「わたくしは『福利厚生費』の予算枠をハッキングして、資材調達を行いますわ」
ソフィアちゃんがタブレットを高速でタップする。
「な、何をする気だ!? セキュリティ!!」
ミズ・パーフェクトが叫ぶが、すでに遅い。
レンの魔法が、ビルの空調システムを乗っ取っていた。
「排熱ダクト、切り替え! ……廃棄熱を、すべて『リラクゼーション・エリア』へ転送!」
ゴゴゴゴゴ……!
地響きと共に、地下室の配管が組み変わり、サーバー室の隣にあった巨大な「瞑想ルーム(誰も使っていない)」に、熱風が送り込まれ始めた。
しかし、それはただの熱風ではない。
マリアが用意した大量の「アロマウォーター(ヒノキ&ミント)」が、熱源に噴射される。
ジュワァァァァ……!!
「こ、これは……!?」
白く、濃厚な蒸気が部屋を満たしていく。
乾燥しきっていたビルの中に、潤いと香りが爆発的に広がる。
「ようこそ。……世界一高価な熱源を使った、『サーバー廃熱サウナ』へ」
私はミズ・パーフェクトの手を取り、蒸気の中へ誘った。
「サウナ……だと? そんな非生産的な……!」
「非生産的? とんでもない。……ご覧なさい、このエネルギーの再利用を」
私は彼女を、急造された木のベンチに座らせた。
熱い。けれど、心地よい。
サーバーが計算処理をするたびに、サウナの温度が上がる。世界中のデータ処理が、私たちを温める薪になる。
「……あ……つ……い……」
ミズ・パーフェクトの完璧なスーツが、湿気で重くなる。
張り詰めていた交感神経が、強制的に緩み始める。
「脱ぎなさい。……その鎧も、スマートウォッチも」
私は彼女の腕から、時間を縛る枷を外した。
ポチャン、と床の水溜りに落ちる音。
「……でも……私が監視しないと……社員たちが……」
「社員たちなら、もう来ていますわ」
蒸気の向こうから、ゾロゾロと影が現れた。
上の階で働いていたエンジニアたちだ。
彼らは「いい匂いがする」「なんだか眠くなってきた」と、ふらふらと吸い寄せられてきたのだ。
「あー……あったけぇ……」
「生き返る……。俺のバグが治っていく……」
「CTOの汗と、サーバーの熱で整うなんて、最高にロックだ……」
彼らはスーツを脱ぎ捨て、Tシャツ姿になり、あるいはタオル一枚になって、蒸気の中で大の字になった。
そこはもはや、意識高い系のオフィスではない。
欲望と本音が渦巻く、「堕落の海」だった。
「……そんな……。私の城が……」
ミズ・パーフェクトが崩れ落ちる。
「城は崩れてなどいません。……むしろ、強固になっていますわ」
私は彼女に、キンキンに冷えた『特製オロポ(王家風)』を差し出した。
「汗をかいて、毒素を出して、頭を空っぽにする。
……そうしてリセットされた脳みそは、貴女がムチで叩くよりも、ずっといい仕事をするはずよ」
「……」
彼女は震える手でグラスを受け取り、一気に飲み干した。
喉を鳴らす音。
プハァッ、という吐息。
「……うまい」
その一言が出た瞬間、彼女の顔から「鉄の女」の仮面が剥がれ落ちた。
赤らんだ頬。乱れた髪。とろんとした目。
そこには、ただの「お風呂好きの女性」がいた。
「……もう……どうでもいいわ……。……明日の会議、キャンセルしておいて……」
「イエス・マム。……ゆっくり蒸されてらっしゃい」
私は彼女の頭に、冷たいタオルを乗せてあげた。
「整いましたね」
ソフィアちゃんが蒸気の中で眼鏡を拭きながら頷く。
「うん。シリコンバレーの空気が変わったよ」
レンが湿度計を見ながら笑う。
「『乾燥』から『潤い(ウェット)』へ。……これでもう、摩擦で火花が散ることもないね」
蒸気に包まれた地下室。
そこでは、世界の最先端を行く天才たちが、赤ん坊のような顔で汗をかき、くだらない冗談を言い合っている。
「……さて」
私はサウナのドアを開け、外の涼しい風に当たった。
西海岸の攻略は完了した。
カチコチに固まっていた「意識」は、蒸気でふやけて、柔らかいマシュマロになった。
「さあ、シリコンバレーも十分ふやけました。……次は、もっと欲望が渦巻く場所へ参りましょうか」
私は東の空を見上げた。
そこには、金と鉄でできた摩天楼の森――ニューヨークが待っている。
お金という名の数字に踊らされ、心をすり減らしている投資家たちに、本当の「豊かさ」を教えて差し上げなくては。
「行きましょう。……ウォール街の株価を、私の体温で溶かして差し上げますわ」
新たな戦場(パーティー会場)へ向かう予感に、私は口元を緩めた。
甘い革命は、大陸を横断して加速する。
次は、世界経済の中心で、とびきり熱い紅茶を淹れるとしましょうか。




