第53回 ギグ・エコノミーの罠
シリコンバレーの路地裏。
表通りの華やかなガラス張りのオフィスビルとは対照的に、ここは薄暗く、そして異様な「焦り」に満ちていた。
「……見ていられませんね」
マリアが眉をひそめ、その光景を睨みつける。
私たちの目の前を、巨大なバッグを背負った自転車や、フロントガラスに何台ものスマホを並べたボロボロの車が、弾丸のように行き交っている。
彼らは「ギグ・ワーカー」。
アプリ一つで仕事を請け負う、自由な働き手――という触れ込みの、現代の奴隷たちだ。
「自由? 笑わせますわ」
私は扇で、歩道に座り込んでいる一人の青年を指した。
彼はスマホの画面を、祈るような、あるいは呪うような目で見つめている。
「彼らの首には、『評価』という見えない首輪がついているだけですもの」
◇
「あぁっ、クソッ! 道が混んでる……! これじゃ予定時刻に間に合わない!」
自転車に乗った青年――マイクが、私たちの目の前で急ブレーキをかけた。
バランスを崩し、派手に転倒する。背中のバッグから、ハンバーガーとポテトが道路に散らばった。
「あ……あぁ……」
マイクは、血が滲む自分の膝を見ようともしなかった。
真っ先に這い寄ったのは、潰れたハンバーガーの方だった。
「終わった……。これで低評価確定だ……。アカウント停止だ……。今月の家賃が……」
彼はアスファルトに突っ伏し、絶望に震えている。
膝の怪我よりも、アプリの向こうにいる「AIの裁定」の方を恐れているのだ。
「……マイクさん、でしたか」
聖女エレナが、音もなく彼に近づき、跪いた。
「ひっ、す、すいません! 弁償します! だから通報しないで……!」
「いいえ。……痛いでしょう?」
エレナの手から、柔らかな光が溢れる。
『聖女の癒やし(ヒール)』。
擦りむいた膝の傷が、一瞬で塞がっていく。同時に、彼女の放つ「絶対安心オーラ」が、彼のパニックを鎮めていく。
「……え? 傷が……?」
「お腹も空いているのではありませんか? ……貴方の胃袋の音が聞こえます」
エレナは、懐から温かいサンドイッチを取り出し、彼に握らせた。
彼が配達していたジャンクフードではない。マリア特製の、栄養満点のサンドイッチだ。
「た、食べていいの……? 俺、配達中なのに……」
「配達なんて、どうでもいいのです。……貴方が倒れたら、誰が貴方を運んでくれるのですか?」
エレナの慈愛に満ちた言葉に、マイクの目が潤む。
「……でも、アプリが……。『星』が下がる……。星が4.8を切ったら、俺はクビなんだ……」
「星?」
私が前に出た。
彼の手からスマホを取り上げる。
画面には、無慈悲なカウントダウンと、顧客からのクレーム通知が表示されている。
「……くだらない」
私は鼻で笑った。
「たかがハンバーガー一つで、人間の価値を『星』の数で格付けするなんて。……マリア」
「はい、奥様」
「このアプリの運営会社に連絡を。……『今すぐこのエリアの全オーダーを私が買い占める』と伝えなさい」
「了解しました。……ついでに、サーバーに『全配達員への強制ボーナス支給プログラム』をねじ込んでおきます」
マリアが涼しい顔でタブレットを操作する。
「そ、そんなことしたら……!」
マイクが青ざめるが、私は彼のスマホ画面を指先でタップした。
《 注文完了:全肯定未亡人より 》
《 報酬:王家の金貨 & 有給休暇 》
《 評価:★★★★★★★★★★(星10個) 》
「え……?」
「五つ星なんてケチなことは言いませんわ。……貴方は今日、生きているだけで満点よ」
私はマリアから、本物の「金貨」を受け取り、マイクの胸ポケットにねじ込んだ。
チップではない。生活を立て直すための軍資金だ。
「そ、そして……これを受け取りなさい」
マリアが恭しく差し出したのは、一枚の羊皮紙だった。
そこには、金色の文字でこう書かれている。
『有給休暇証明書(Paid Leave Certificate)』
『効力:誰がなんと言おうと、今すぐ休んでよい。給料は全額保証される。』
「有給……? 俺たち、個人事業主だよ? そんなもの存在しない……」
「今、作りました」
私が断言する。
「労働者には、休む権利がある。……保険もない、保証もない、トイレに行く暇もないなんて、それは『自由な働き方』ではありません。ただの『使い捨て』ですわ」
私は周囲を見渡した。
異変に気づいた他の配達員や、Uberのドライバーたちが、恐る恐る集まってきている。
彼らも皆、疲れた顔をしている。
「皆様! 今日はもう閉店です!」
私が高らかに宣言すると、レンが路上に巨大なホログラムを展開した。
『 臨時・全肯定カフェ、オープン! 』
道路の路肩に、次々とテーブルと椅子、そしてティーセットが出現する。
マリアとエレナが、手際よく紅茶とケーキを配り始める。
「さあ、エンジンを切りなさい! スマホを置きなさい!」
「注文主が怒る? 怒らせておけばいいのです! 『私が食べてしまった』と言っておきなさい!」
戸惑うワーカーたち。
しかし、マイクがサンドイッチを一口食べ、泣きながら叫んだ。
「……うまい! これ、めっちゃうまいぞ! ……俺、もう今日は働かねぇ!」
彼は配達バッグを放り投げ、道端の椅子に座り込んだ。
それが合図だった。
「俺もだ! トイレに行きたかったんだ!」
「私も! 足がパンパンだったの!」
「クソ食らえだ、アルゴリズム!」
次々とワーカーたちが自転車を降り、車を止め、ティーパーティーに参加し始める。
シリコンバレーの物流が、完全に停止した。
AIが「配達員不足」のアラートを出し続けるが、誰も応答しない。
彼らは今、もっと重要なタスク――「人間らしい休息」を処理中なのだから。
「……奥様。運営会社から悲鳴のような問い合わせが来ています。『システムエラーか?』と」
マリアが報告する。
「『仕様です』と答えておきなさい」
私は紅茶を啜りながら、マイクたちの笑顔を見つめた。
彼らは互いに、どこの店が酷いか、どこの道が危ないかを語り合い、笑っている。
連帯。
アプリによって分断されていた彼らが、お茶と愚痴を通じて繋がり始めている。
「エレナ。……彼らの膝や腰、すべて治してあげて」
「はい、レティ様。……全員、新品の体にして差し上げます」
「マリア。……この金貨、全員に配って」
「承知いたしました。……本日の売上、過去最高額になるでしょうね」
ギグ・エコノミーの罠。
それは、孤独にさせることだ。
「自分一人で責任を負え」と囁き、隣の人間をライバルと思わせるシステム。
けれど、こうして一緒にお茶を飲めば、彼らは気づく。
自分たちは部品ではなく、同じ痛みを持つ仲間なのだと。
「……さて。ワーカーたちが止まれば、困るのは誰かしら?」
私は、遠くに見える高級住宅街を見上げた。
そこには、スマホをタップしてもピザが届かず、イライラしている「成功者」たちがいるはずだ。
「自分たちで取りにいらっしゃい。……あるいは、ここに来て一緒に混ざればいいのよ」
路地裏のティーパーティーは、夜まで続いた。
星空の下、アプリの評価よりも輝く、人間たちの笑顔の星が、そこには満ちていた。




