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第52話 ユニコーン企業の孤独な王


シリコンバレーの丘の上に、ひときわ高く、鋭く空を突き刺すガラスの塔がそびえ立っている。

時価総額一兆ドル超。世界中の投資家が「次の神」と崇めるスタートアップ企業『ネクスト・ホライズン』の本社だ。


その最上階、ペントハウス・オフィス。

家具一つない、広大で真っ白な空間に、一人の青年がポツンと佇んでいた。


ノア・ウィリアムズ。二十四歳。

パーカーのフードを目深に被り、空中ディスプレイに映し出される膨大な数値(火星移住計画の進捗、不老不死研究のデータ、気候変動シミュレーション)を、虚ろな目で眺めている。


「……遅い。遅すぎる」


彼は爪を噛みながら呟いた。

「このペースじゃ、人類を救うのに間に合わない。……僕がやらなきゃ。僕が神になって、この不完全な星をアップデートしなきゃ……」


「ごきげんよう、小さな神様」


背後から声をかけると、ノアはビクリと肩を震わせ、猛獣のような速さで振り返った。


「誰だ! セキュリティは何をしてる! 僕の時間は一秒につき一万ドルの価値があるんだぞ!」


「あら、お安いこと」


私は扇を開き、悠然と部屋に入った。

後ろには、興味深そうに周囲のホログラムを観察するソフィアちゃんと、少し寒そうにしているレンがいる。


「一万ドル? ……貴方のその顔色を見る限り、貴方の命の値段は、もう『タダ同然』に見えますけれど?」


「……何?」


ノアの顔色は、コピー用紙のように白かった。

頬はこけ、目は落ち窪み、唇はカサカサに乾いている。

「ユニコーン(伝説の一角獣)」と称えられる企業の王は、今にも折れそうな枯れ木のように見えた。


「出て行け! 僕は忙しいんだ。……地球環境の改善、AIとの融合、火星テラフォーミング……やることは山積みなんだ!」


彼は空中のデータを乱暴にかき回した。

「期待されているんだ。……世界中が僕を見ている。『次はどんな奇跡を起こすんだ?』『どうやって世界を変えてくれるんだ?』って……。……失敗は許されない。止まることは許されない!」


「だから、胃に穴が空きそうですの?」


「……っ!?」


ノアが反射的にみぞおちを押さえた。

図星だ。

彼の胃袋は、プレッシャーという名の胃酸で、溶ける寸前の悲鳴を上げている。


「……知った風な口を。……これは、進化のための痛みだ。……凡人にはわからない」

「いいえ、わかりますわ。……それはただの『腹痛』よ」


私は彼との距離を詰めた。

彼は後ずさる。世界を変える力を持つ彼が、たった一人の未亡人に圧されている。


「ノアさん。……貴方、最後に『美味しい』と思ったのはいつ?」

「……食事? そんなものは栄養カプセルで十分だ」

「最後に、誰かと『ハグ』したのは?」

「……他人? 汚らわしい。バクテリアの交換なんて非合理的だ」

「最後に……『自分は生きていていい』と思えたのは?」


「……ッ」


ノアの動きが止まった。

彼の呼吸が荒くなる。


「……生きていていい、だと? ……ふざけるな。……結果を出さなきゃ、生きてる価値なんてない!」


彼が叫ぶ。

その声は、広すぎる部屋に虚しく反響した。


「僕は天才だ! 特別なんだ! だから……凡人どもを導かなきゃいけない! 世界を変えなきゃ、僕はただの……ただの……」


「ただの、ノア君?」


「……やめろぉぉぉ!!」


彼は頭を抱えて蹲った。

「違う! 僕はユニコーンだ! 特別なんだ! ……ゴミじゃない! 誰か……誰か僕を認めてくれ! 『成果』じゃなくて……僕を……!」


成功者の仮面の下。

そこにいたのは、親の期待、世間の期待、投資家の期待に押し潰され、「何者かにならなければ愛されない」と信じ込んだ、怯える子供だった。


「……ソフィアちゃん」

「はい」

ソフィアちゃんが、憐れむような目で彼を見下ろし、タブレットを操作した。


「彼の会社の株価、右肩上がりです。……でも、彼の『幸福度指数』は、ストップ安(底値)張り付きですわ」

「バランスが悪いですわね。……調整しましょう」


私はマリアに合図を送った。

マリアが取り出したのは、最先端のガジェットでも、魔法の薬でもない。

温めたミルクと、蜂蜜。そして、一枚のふわふわのブランケット。


「ノア君」


私は蹲る彼の前に跪き、ブランケットをその背中に掛けた。

ふわり。

重圧に晒され続けてきた背中に、物理的な温かさが乗る。


「……ひっ」

「大丈夫。……バクテリアなんていないわ。あるのは『温度』だけ」


私はマグカップを彼の手元に置いた。

湯気が立ち上る。甘く、懐かしい香り。


「世界なんて、変えなくていいのよ」


「……え?」


ノアが涙目のまま顔を上げる。


「貴方が火星に行かなくても、地球は回るわ。

貴方が不老不死を発見しなくても、人は愛し合って命を繋ぐわ」


私は彼の手を取り、マグカップを握らせた。


「貴方は、何もしなくていい。

ただ、朝起きて、息をして、夜になったら眠る。

……それだけで、貴方は一兆ドルより価値がある『奇跡』なのよ」


「……そんなこと……誰も言ってくれなかった……」

「私が言うわ。何度でも」


私は彼を、ブランケットごと抱きしめた。

彼の体は小さく、震えていた。

「ユニコーン」の角なんて、どこにもない。ただの人間だ。


「……今日、自分で靴下を履いたの? 偉いわね」

「……う、うん」

「ここまで歩いてきたの? すごいですわ」

「……ぐすっ……うん……」


IQ200の私の「低レベル全肯定」。

しかし、それは彼が最も飢えていた言葉だった。

「偉業」に対する賞賛ではなく、「生存」に対する肯定。


「……うわぁぁぁぁん!!」


ITの王は、私の腕の中で子供のように泣きじゃくった。

火星も、AIも、株価もどうでもいい。

ただ、温かいミルクと、誰かの体温があれば、それだけで世界は十分だったのだ。


「……マリア。今日の彼のスケジュールは?」

「投資家との会食、メディア取材、開発会議……すべてキャンセルしました。『CEOは現在、バブみを感じて幼児退行中につき、アクセス不能』と広報しておきます」

「完璧ね」


泣き疲れたノアは、そのまま私の膝で眠ってしまった。

その寝顔は、世界を救う救世主の顔ではなく、ただの安心した少年の顔だった。


「レン。……部屋の明かりを落として」

「了解。……星空モードにするね」


ガラス張りの部屋の照明が落ち、天井にプラネタリウムの星空が投影される。

それは、彼が征服しようとした宇宙ではなく、ただ綺麗で見上げるだけの星空。


「おやすみなさい、ノア君。……世界を変えるのは、ぐっすり寝て、背が伸びてからにしなさいな」


私は彼の髪を撫でた。

シリコンバレーの頂点で、一つの孤独な魂が救われた。

けれど、この街の足元には、もっと切実で、もっと泥臭い「搾取」の構造が広がっている。


「……次は『下』ですわね」


私は眠る王を残し、摩天楼の底を見下ろした。

そこでは、アプリ一つで使い捨てられる労働者たちが、見えない鎖に繋がれて走っている。


「行きましょう。……彼らにも、王家のチップ(全肯定)を配りに行かなくては」



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