第51話 睡眠ハックとカフェイン中毒
「……ここが、世界最先端の知性が集う場所?」
リムジンが滑り込んだのは、緑豊かな広大なキャンパスだった。
一見すると、大学か、あるいは高級リゾート地のように見える。芝生はミリ単位で管理され、色とりどりの自転車が走り、ガラス張りのオフィスビルがカリフォルニアの陽光を反射して輝いている。
しかし、私の感覚は、その美しい皮の下にある「異常」を感知していた。
「臭いますわね。……焦げ付いた脳みそと、人工甘味料の匂いが」
私たちが降り立ったのは、世界最大のテック企業『グローバル・コネクト』の本社前。
案内役として現れたのは、パーカーにジーンズ、足元は裸足にサンダルというラフな格好の青年だった。
名前はジャック。この会社のチーフ・エンジニアだという。
「やあ。日本からの視察団だね? 歓迎するよ。……と言いたいところだけど、僕にはあと三分しかない。次のミーティングと、その次のコードレビューの合間なんだ」
ジャックは早口でまくし立てながら、手にしたボトルから「灰色のドロドロした液体」を啜った。
「それは?」
レンが興味深そうに、しかし嫌悪感を隠さずに尋ねる。
「『完全食』さ。人間に必要な栄養素をすべて粉末にして水に溶かしたものだ。これなら食事時間を98%削減できるし、咀嚼による顎の疲労もなくなる。合理的だろう?」
ジャックは誇らしげに言うが、彼の顔色はモニターのブルーライト焼けで青白く、目の下には深いクマが刻まれている。
「合理的……ねぇ」
レンが呆れたように肩をすくめた。
「ボクも魔導炉の整備中はゼリーで済ませるけど、それは『緊急時』の話だよ。……まさか、毎日それを?」
「当然だ。食事なんてただの燃料補給だろ? 味わう暇があったら、一行でも多くコードを書きたい」
彼は歩き出した。
「ついてきてくれ。我が社の自慢の『休憩室』を見せてあげるよ」
◇
通されたのは、薄暗く、静まり返った部屋だった。
そこには、白いカプセルのような物体が、養鶏場のケージのようにずらりと並んでいる。
「これは『スリープ・ポッド』だ」
ジャックが説明する。
「我々は『ポリフェーシック・スリープ(多相睡眠)』を導入している。夜にまとめて寝るのは非効率だ。一回二十分の仮眠を、一日に六回とる。これで睡眠時間を二時間に短縮し、覚醒時間を最大化するんだ」
カプセルの中では、社員たちが死人のように直立不動で目を閉じている。
蓋が閉まり、タイマーがセットされる。二十分経つと、強烈な光と振動で強制的に起こされる仕組みらしい。
「これを『睡眠ハック』と呼んでいる。……脳のバグを利用して、限界を超えて稼働させるのさ」
ジャック自身も、空いているポッドに入ろうとした。
「さあ、僕もチャージの時間だ。……二十分後にまた会おう」
「――待ちなさい」
私が扇子で、閉まりかけたポッドの蓋を押さえた。
「な、なんだい? タイムロスになる」
ジャックが不機嫌そうに私を睨む。
「貴方たち、自分を『人間』だと思っているのかしら?」
「は?」
「燃料を流し込み、スイッチを切って再起動する。……それは機械のメンテナンスよ。人間の『休息』ではありませんわ」
私はポッドの中を覗き込んだ。
そこには安らぎなどない。あるのは、「早く寝なければ時間が無駄になる」という強迫観念だけ。
彼らは寝ているのではない。気絶しているのだ。
「何を言うんだ。これがシリコンバレーのスタンダードだ。……勝つためには、生物的な限界を超越しなきゃいけないんだ!」
ジャックが叫ぶ。その目は血走っている。
「休むのが怖いんだよ! 僕が寝ている間に、誰かが新しいアプリを作ったら? 僕のコードが時代遅れになったら? ……二十分以上の睡眠なんて、罪悪感で吐き気がするんだ!」
恐怖。
効率化という鎧の下にあるのは、取り残されることへの原初的な恐怖心。
「……可哀想な迷子さんたち」
私はため息をつき、パチンと指を鳴らした。
「レン、マリア。……『システムのアップデート』を行いましょう」
「了解。……バグだらけの生活習慣、デバッグしてあげるよ」
レンがニヤリと笑い、ポッドの配線に手を触れた。
「奥様。……例の『最終兵器』を展開しますか?」
マリアが空間収納のポケットに手をかける。
「ええ。……彼らに教えてあげなさい。『無駄』という名の、最高の贅沢を」
◇
数分後。
無機質な休憩室は、異様な空間へと変貌を遂げていた。
「な、なんだこれは……!?」
強制覚醒させられたエンジニアたちが、ポッドから這い出て絶句する。
白いカプセルが撤去された床に、ドデンと鎮座するもの。
それは、正方形の天板に、ふかふかの布団が掛けられた、東洋の魔導具。
「『コタツ(KOTATSU)』ですわ」
私はコタツに入り、天板の上の籠から蜜柑を一つ手に取った。
レンも、すでに反対側に入り込み、ちゃんちゃんこを着てお茶を啜っている。
「これが最新の休憩デバイスだよ。……入ってみなよ、ジャック」
「ば、馬鹿にするな! そんな非生産的な家具……!」
ジャックは抵抗しようとしたが、レンが「重力魔法・ほっこり」を発動した。
見えない引力に引かれ、ジャックの下半身がコタツの中に吸い込まれる。
「うわっ……!?」
ズボッ。
足先が、コタツの中の温かい空間(ヒーターユニットの赤外線)に触れた瞬間。
「……ッ!?」
ジャックの全身に電流が走った。
いや、電流ではない。
下半身から脊髄を駆け上がり、脳天まで突き抜ける、圧倒的な「弛緩」の信号。
「あ……あたた……かい……?」
「遠赤外線効果ですわ。……そして、この布団の重み。まるで母親の胎内にいるような安心感でしょう?」
私は彼に、剥いた蜜柑を一房差し出した。
「はい、あーん。……ビタミンCよ。粉末じゃなくて、太陽を浴びた果実の味」
ジャックは震える口で蜜柑を受け入れた。
甘酸っぱい果汁が弾ける。
灰色の流動食で麻痺していた味蕾が、鮮やかに蘇る。
「……あ、甘い……」
「さあ、他の皆様も」
マリアが手招きする。
「ポッドなんかより、ずっと効率よく『堕落』できますよ?」
エンジニアたちが、ゾンビのようにコタツに集まってくる。
一辺に二人、三人……すし詰めになりながら、彼らはコタツというブラックホールに飲み込まれていく。
「な、なんだこの魔力は……」
「出られない……足が……動かない……」
「もう……コードなんて……どうでもいい……」
最強のトラップ、発動。
コタツに入った人間は、二度と社会復帰できない(一時的に)。
「寝なさい、ジャック。……二十分なんてケチなこと言わずに」
私は彼の方に身を乗り出し、その強張った瞼を指で撫でた。
「貴方の脳みそ(CPU)は、オーバーヒート寸前よ。……強制シャットダウンが必要だわ」
「で、でも……僕が寝たら……世界が……」
「世界なんて、貴方が目覚めるまで待たせておけばいいのよ」
私の言葉が、最後の一押しとなった。
ジャックの目が白目を剥きかけ、そしてゆっくりと閉じた。
「……Zzz……」
一秒で入眠。
スリープ・ポッドでは決して得られなかった、深く、泥のような熟睡。
あちこちから、エンジニアたちの寝息が聞こえ始める。
「……制圧完了だね」
レンがコタツの中で足を伸ばす。
「生産性ゼロ。でも、幸福度はマックス」
「ええ。……これこそが、人間本来の『充電』ですわ」
私はコタツの上でお茶を飲みながら、眠る天才たちの寝顔を見守った。
彼らが起きた時、きっと気づくはずだ。
素晴らしいアイデアは、モニターの前ではなく、無駄に長い昼寝と、くだらない雑談の中から生まれるものだと。
「さあ、シリコンバレーの皆様。……夢の中で、良いコードを書きなさい」
窓の外、西日が傾き始めていた。
「意識高い系」の聖地が、今、オレンジ色の夕日とコタツの温もりに包まれて、静かに機能を停止していく。
これぞ、最も甘美なシステム障害だわ。




