第50話 自由の女神は肩が凝る
世界を甘やかしてきた、全肯定未亡人レティ。
王国を、異国を、そして国家の在り方さえも“優しさ”でほどいてきた彼女だが、
第3部で向き合うのは——「自由と自己責任」が尊ばれる社会。
癒しと肯定の物語は、静かにその核心へと踏み込んでいく。
これは、世界ではなく——
心の奥に残った“最後の疲れ”をほどく章。
メリケン合衆国、西海岸。
「天使の街」と呼ばれる巨大都市の国際空港に、優雅にして異質な純白の翼が舞い降りた。
魔導飛空艇『クイーン・レティーティア号』である。
タラップを一歩降りた瞬間、私の肌を刺したのは、強烈な「焦燥」の匂いだった。
潮風ではない。排気ガスと、焦げたコーヒーと、そして高電圧の電気が混ざり合ったような、人工的な刺激臭。
空は抜けるように青いのに、空気中の酸素濃度が薄い気がする。まるで、都市全体が過呼吸を起こしているかのように。
「……これが、世界一の超大国ですか」
ソフィアちゃんが、サングラス(現地の免税店で購入)をずらして呟く。
「すべてが『過剰』ですわね。道路の広さも、走る車の大きさも、そして人々の歩く速度も」
「エネルギー効率が悪すぎる」
レンがタブレットを操作しながら顔をしかめる。
「すれ違う人たちの心拍数、平均で100を超えてるよ。……全員、猛獣に追われてるの?」
「いいえ。追われているのは『時間』に、ですわ」
私は扇を開き、喧騒に満ちたターミナルを見渡した。
誰も彼もが、片手に巨大なカップ(バケツのようなサイズのアイスコーヒー)を持ち、もう片方の手でスマートフォンを操作しながら、競歩のように移動している。
彼らの瞳には、「今」は映っていない。映っているのは常に「数分後の予定」と「未読の通知」だけ。
「……可哀想に。魂が身体を追い越してしまっていますわ」
私たちは入国審査ゲートへと進んだ。
そこには、この国の「最初の壁」が立ちはだかっていた。
ガラスの向こうに座る審査官たち。彼らは人間というより、ベルトコンベアの一部のように、無表情でハンコを押し、質問を浴びせている。
私たちの列を担当するのは、ひときわ巨漢の審査官だった。
胸板は防弾チョッキのように厚く、腕は丸太のよう。ネームプレートには「ボブ」とある。
彼のデスクの脇には、すでに空になったエナジードリンクの缶が三本、塔のように積み上げられていた。
「――Next(次)!」
ボブの声は、喉の奥から絞り出すような、錆びた鉄の音がした。
私は優雅に進み出て、パスポート(王国の外交旅券)を差し出した。
「Purpose of visit?(滞在の目的は?)」
ボブは私を見ようともせず、手元のモニターを睨みつけながら事務的に尋ねた。
「Business or Pleasure?(仕事か、観光か?)」
「Salvation(救済)、ですわ」
私が流暢な英語で答えると、ボブの手が止まった。
ゆっくりと、充血した猛禽類のような目が私を捉える。
「……Are you kidding me?(ふざけているのか?)」
彼の声の温度が氷点下まで下がる。
「ここは合衆国の玄関だ。ふざけた答えをする奴は、即座に強制送還だぞ、マダム」
威圧。
通常の人間なら、ここで萎縮して言葉を濁すだろう。
背後でベルナデットが剣の柄(偽装済み)に手をかける気配がした。
けれど、私は扇で口元を隠し、さらに一歩、ガラス越しに彼に近づいた。
「ふざけてなどいませんわ、ボブ。……貴方を見れば、救済が必要なことは明白ですもの」
「……何だと?」
「貴方のその指。……キーボードを叩くたびに、微かに震えていますわね。カフェインの過剰摂取による振戦よ」
ボブの眉がピクリと跳ねる。
「……余計なお世話だ。俺はタフだ。このシフトを三連続でこなしている」
「タフ? いいえ、それは『麻痺』しているだけ」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「貴方の右肩。……制服の上からでもわかります。岩のように凝り固まって、神経を圧迫している。……偏頭痛がするでしょう? 目の奥が、焼けるように痛いでしょう?」
「……ッ」
ボブが言葉を詰まらせる。図星なのだ。
彼は「強いアメリカの守護者」としての仮面を被っているが、その内側では、悲鳴を上げる肉体を薬物で無理やり動かしているに過ぎない。
「……Shut up(黙れ). ……俺はプロだ。痛みなどない。……弱音を吐くのは、敗者だけだ」
彼はパスポートを掴み、乱暴にページをめくった。
「目的は観光にしておく。……滞在期間は?」
「貴方がぐっすり眠れるようになるまで」
「……あ?」
「ボブ。……貴方はいつから、ベッドの上で『明日への恐怖』を感じずに眠れたかしら?」
私はガラスの下の隙間から、そっと手を差し入れた。
本来ならありえない行動。
けれど、私の言葉は彼の防衛本能をすり抜け、深層心理の「甘えたい」というスイッチに触れていた。
「……俺は……」
ボブの視線が泳ぐ。
「俺には家族がいる。住宅ローンがある。……休むわけにはいかない。止まったら、流される。……この国は、そういう場所だ」
「ええ。サメのように泳ぎ続けなければ死ぬ社会。……でもね」
私は彼の、ごわごわとした剛毛に覆われた大きな手に、自分の手を重ねた。
「陸に上がったサメは、泳がなくていいのよ」
「……!」
「痛かったでしょう。……怖かったでしょう。……誰にも『辛い』と言えずに、その大きな体で、小さな心を守り続けて」
ボブの目から、覇気が消えた。
代わりに浮かんだのは、迷子のような心細さと、安堵の色。
エナジードリンクの塔が、彼の心のバランスを表すように、カランと音を立てて崩れ落ちた。
「……Ah... Damn it...(ああ……くそっ……)」
彼は大きな手で顔を覆った。
「……My shoulder is killing me...(肩が……死ぬほど痛いんだ……)」
「ええ。マリア、特効薬を」
私の合図で、マリアが即座に「王家秘伝・肩こり解消湿布(ラベンダーの香り付き)」を差し出した。
ボブはそれを震える手で受け取り、制服の下、首筋に貼った。
瞬間。
彼の表情が、バターのようにとろりと溶けた。
「……Oh, God...(おお、神よ……)」
「楽になった?」
「……Heavy clouds are gone...(重い雲が消えたようだ……)」
彼は深いため息をつき、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
それは、彼が勤務中に初めて見せた「休息」の姿勢だった。
「……Welcome to the United States, Ma'am.(合衆国へようこそ、奥様)」
ボブは穏やかな顔で、入国スタンプを、優しく、丁寧に押してくれた。
その音は、銃声のような乾いた音ではなく、柔らかい承認の音だった。
「Thank you, Bob. ……よく頑張りましたね」
私が微笑むと、彼は少し照れくさそうに、けれど誇らしげにサムズアップを返した。
入国審査、通過。
ゲートを抜けると、そこにはカリフォルニアの強烈な日差しが待っていた。
「……さて」
私は日傘を開き、眩しい太陽を見上げた。
「この国の玄関番でさえ、この有様です。……中心部には、もっと重症の患者たちが待っているはずですわ」
「データ検索完了」
レンがスマートグラスをタップする。
「ここから車で一時間。……『パロアルト』地区。そこは平均睡眠時間が四時間を切る、不眠不休の天才たちの巣窟だよ」
「最高の漁場ですわね」
ソフィアちゃんが不敵に笑う。
「効率という名の悪魔に魂を売った彼らに、非効率な『お昼寝』の素晴らしさを説いて差し上げましょう」
私たちは迎えのリムジン(マリアが現地調達したロングサイズ)に乗り込んだ。
目指すは、イノベーションの聖地。
そこで待つのは、未来を作る技術か、それとも人間を辞めた機械たちか。
「行きましょう。……甘い革命の、西海岸ツアーの始まりよ」
リムジンが滑り出す。
窓の外、遠くに見える「HOLLYWOOD」の看板が、陽炎のように揺れていた。
自由の国。
その自由が「休まない自由」だけだなんて、誰が決めたのかしら。
私がその定義を、「だらける自由」に書き換えて差し上げるわ。




