第5話 侯爵家の甘い独裁体制
朝食のテーブルには、焼きたてのブリオッシュの香ばしい匂いと、一触即発の火花が散る匂いが混在していた。
窓から差し込む陽光は穏やかなのに、室内の気圧は台風の前兆のように不安定だ。
私の右側には、銀色のポットを携えた筆頭メイド、マリア。
左斜め後方には、直立不動で警護にあたる騎士、ベルナデット(愛称ベル)。
二人の視線が、私の手元のティーカップ一点で交差し、無言の鍔迫り合いを演じている。
カチン、とマリアがソーサーを置く音が、やけに鋭く響いた。
「……ベルナデット様。警護ご苦労様です。ですが、奥様の視界に入る位置で、そのように殺気を放たれては、紅茶の風味が損なわれます」
マリアが氷のような微笑で先制攻撃を仕掛ける。
対するベルは、眉一つ動かさずに即答した。
「失敬。これは殺気ではなく、警戒心だ。窓からの狙撃、あるいは毒物の混入……あらゆる脅威からレティ様を守るための、騎士としての『構え』だ」
「毒見は調理段階で私が済ませております。貴女の過剰な心配は、奥様への信頼不足と受け取れますが?」
「なんと。私の忠誠を疑うか。……大体、貴様こそ距離が近すぎる。給仕にかこつけて、レティ様の指先に触れすぎではないか?」
あらあら。
私はバターナイフを動かしながら、心の中で拍手を送る。
なんて素晴らしいのかしら。
マリアの主張は「私の聖域(レティ様の世話)を侵すな」という縄張り意識。
ベルの主張は「私にもレティ様の世話(護衛)をさせろ」という参入欲求。
ベクトルは違えど、どちらも終着点は「私」だ。
私のために、優秀な二人の女性が火花を散らしている。
この空間に満ちているのは、敵意という名の皮を被った、濃厚な独占欲。
甘いわ。朝のジャムよりもずっと。
「二人とも」
私が小さく声を上げると、二人は弾かれたように私を見た。
瞬時に敵意が消え、忠犬のような眼差しに変わる。この切り替えの速さも、愛おしい。
「パンにジャムを塗りたいのだけれど」
「私めが!」
「私がやろう!」
声が重なる。
マリアがナイフを手に取りかけ、ベルがその手首を(手加減しつつ)制する。
「マリア、貴様は紅茶の管理があるだろう。刃物は騎士の領分だ」
「トーストに塗るナイフは武器ではありません。それに、ベルナデット様のような武骨な手つきでは、パンの生地を潰してしまいます」
睨み合う視線。
私はふわりと溜息をつき、二人の手を取った。
右手にマリアの、洗剤とハンドクリームの匂いがする手。
左手にベルの、革と鉄の匂いがする手。
「……困ったわ。どちらの手も温かくて、選べないの」
「っ、奥様……」
「レティ様……」
「だから、半分こ(シェア)しましょう?」
私は微笑み、提案という名の勅命を下す。
「マリアは、この甘いイチゴのジャムを。ベルは、こちらの滑らかなバターをお願いできるかしら? 甘さとコク、両方味わいたいの」
二人は顔を見合わせ、不承不承といった様子で、けれど頬を染めて頷いた。
私のトーストの上で、赤と黄色が混ざり合う。
それは、ローゼンタール家における新たな秩序(ハーレム体制)の構築を意味していた。
***
朝食後、戦場はドレッシングルームへと移った。
本日は、私の「社交界復帰」となる重要な日。王城へ向かうための支度が始まった。
「奥様、本日はこちらのドレスを。王妃様派閥への牽制も兼ねて、ローゼンタールの家紋色である深紅のシルクをご用意しました」
マリアが恭しく差し出したのは、背中が大きく開いた大胆なカクテルドレス。
私の肌の白さを際立たせ、かつ「未亡人の喪は明けました」と高らかに宣言するような、攻撃的な美しさを持つ一着だ。
「待った」
低く、重い声が遮る。
ベルが腕組みをして、そのドレスを睨みつけていた。
「布面積が少なすぎる。特に背中とデコルテ。これでは、防御力が皆無に等しい」
「夜会にフルプレートメイルを着ていくわけにはいきません」
「それに……これでは、男どもの視線が無遠慮にレティ様の肌を舐め回すことになる。……不愉快だ」
ベルが本音を漏らした。
防御力云々は建前で、単に「私のレティ様を他人に見せたくない」という嫉妬心が九割だ。
彼女の視線は、ドレスの背中の開き具合を測りながら、あからさまに不機嫌な色を帯びている。
「あら、ベル。私の背中が気になるの?」
「っ! い、いえ、その……昨夜のマッサージの痕が、まだ残っているかもしれませんし……」
口を滑らせたベルに対し、マリアの手がピタリと止まった。
室温が五度下がる。
「……ベルナデット様? 『昨夜のマッサージ』とは、どういう意味でございましょうか」
「……言葉通りの意味だ。私はレティ様に、凝りをほぐしていただいた。……その、二人きりで」
「まあ。護衛任務中に、奥様の貴重な睡眠時間を奪い、あまつさえその玉体を使役させた、と?」
マリアの笑顔が、能面のようになっている。
彼女の手の中で、ヘアブラシの柄がミシリと音を立てた。
あらあら。嫉妬の方向性が、可愛い喧嘩の域を超えて「排除」に向かいかけている。
私は鏡越しに二人を見据え、声をかけた。
「マリア。私の髪を結って。貴女にしか任せられない、一番難しい編み込みで」
「……はい、奥様」
マリアの意識を「技術への信頼」に向けさせる。
彼女は私の髪に触れると、すぐにプロの顔つきに戻り、丁寧に櫛を通し始めた。
「そしてベル。……貴女は、これをお願い」
私はドレスの裾から、片足だけを差し出した。
ハイヒール。
それを履かせるという行為は、騎士が主人に跪く、最大の忠誠の儀式。
「……っ」
ベルが息を呑む。
彼女はその場に片膝をつき、私の足首を、震える手で恭しく支えた。
硬いタコのある指先が、私の薄い皮膚に触れる。その感触だけで、彼女がどれほどこの行為に「背徳的な悦び」を感じているかが伝わってくる。
「二人とも、よく聞いて」
私は鏡の中の自分と、その背後に侍る二人の女性を見つめる。
「マリアは、私を美しく飾り立ててくれる『魔法使い』。ベルは、その美しさを傷つけるもの全てを弾く『盾』。……どちらが欠けても、今日の私は完成しないわ」
「……もったいないお言葉です」
「……この身に代えても、必ず」
二人の声が重なる。
さきほどの殺伐とした空気は霧散し、代わりに「レティ様のために」という共通の目的意識が、一本の太い柱となって確立された。
マリアが髪を整え、ベルが靴を履かせる。
その連携は見事なまでにスムーズで、まるで長年連れ添った夫婦のよう――あるいは、同じ神を崇める信徒同士のよう。
「完璧ね」
鏡に映るのは、深紅のドレスを纏った「全肯定未亡人」。
そしてその両脇を固める、最強のメイドと騎士。
これなら、どんな古狸が巣食う王城でも、ピクニック気分で制圧できるでしょう。
「行きましょうか。……ああ、そうだわ」
私は立ち上がり、ふと思い出したようにサイドテーブルの新聞を指差した。
「王城へ行く前に、少し確認しておきたい噂があるの」
「噂、ですか?」
マリアが首を傾げる。
「ええ。……『魔術師塔』で、最近ボヤ騒ぎが多いそうよ。赤い閃光が見えたとか、子供の悲鳴が聞こえたとか」
「ああ、あの変わり者たちの巣窟ですか。あそこは常に爆発していますから」
ベルが呆れたように肩をすくめる。
「ですが、今日は特に騒がしいようです。王宮騎士団にも、『落下物に注意せよ』という奇妙な通達が来ていました」
「落下物?」
「ええ。本とか、実験器具とか……時には『人』が落ちてくるとか」
ベルは冗談めかして言ったが、私の元・天才令嬢の直感は、それが単なる笑い話ではないと告げている。
魔力の暴走。組織内での孤立。
それは、助けを求めるSOSの狼煙だ。
「楽しみね」
「は?」
「いいえ、なんでもないわ。……さあ、空を見上げながら参りましょう」
私は扇を開き、口元を隠して微笑んだ。
今日、王城の空から「運命」が降ってくる確率は、限りなく一〇〇パーセントに近い。
私の甘い独裁国家には、まだ空席があるのだから。




