第48話 偏微分方程式が導く「甘やかし」の最適解
江戸城、緊縮財務省の大広間。
かつては「増税」と「削減」の呪文が飛び交っていたこの場所は今、アカデミックな熱気と、甘いお菓子の香りに包まれていた。
「――よろしいですか? ここが重要ですわ。テストに出ますよ?」
巨大な黒板の前に立ち、チョーク(特製チョコミント味)を振るうのは、ソフィアちゃんだ。
黒板には、常人が見たら即座に気絶しそうな、複雑怪奇な数式がびっしりと書かれている。
『連続時間HANKモデルにおける、幸福度最大化のハミルトン・ヤコビ・ベルマン方程式』
聴講生は、かつてソロバンを武器にレティたちを阻んだ、カンジョウ奉行と財務官僚たちだ。
彼らは今や、パンケーキの糖分で脳を活性化させ、目を血走らせて(良い意味で)ノートを取っている。
「先生! 質問でござる! この偏微分方程式における『ストレス項』の係数は、マイナス無限大に発散するリスクがあるのでは!?」
「いい質問です、奉行。……そこで導入するのが、この『レティ定数(全肯定パラメータ)』です!」
ソフィアちゃんが黒板にピンク色のチョークで『Letty = ∞』と書き込む。
「この定数を導入することで、国民の不安(リスク回避度)は限りなくゼロに収束します。……つまり、貯蓄選好が低下し、消費性向が爆発的に上昇するのです!」
「おおおぉぉぉ……!!」
「美しい……! なんと美しい数式だ……!」
官僚たちが感動に打ち震える。
彼らは元来、数字と論理を愛する「数学オタク」たちだ。
今までその能力を「いかに民を絞り上げるか」に使っていたが、ソフィアちゃんはそれを「いかに民を豊かにするか」というベクトルへ、鮮やかに転換させたのだ。
「従来の『緊縮モデル』は、国民を均質なロボットとみなす古い理論でした。……しかし、最新の『甘やかし経済学』では、人々の多様な『欲望』と『弱さ』を数式に組み込みます」
ソフィアちゃんは、タブレットを操作し、新たなシミュレーション結果をホログラムで投影した。
「計算結果が出ましたわ。……この国を救う最適解。それは……」
彼女は高らかに宣言した。
「『甘やかしベーシックインカム(ABI)』の導入、および無制限の『甘やかし国債』の発行です!」
◇
翌日。
江戸の街に、衝撃的な高札(掲示板)が立てられた。
『お触れ書き
一、国は民に対し、毎月「お小遣い(ベーシックインカム)」を支給する。
一、ただしこの金は、生活必需品ではなく「自分の好きなもの(推し活、スイーツ、旅行など)」に使うことを推奨する。
一、財源は、国が発行する「甘やかし国債」によって賄う。これは国民の「笑顔」を担保とする、世界一安全な資産である。』
「……お、おい、マジかよ?」
「毎月、遊ぶ金がもらえるってのか!?」
ざわめく町人たち。
しかし、財務省の動きは迅速かつ精密だった。
「計算通りだ! 金が回るぞ! 回転速度を上げろ!」
カンジョウ奉行たちは、徹夜で(楽しそうに)システムを構築した。
彼らは、国民一人一人の「ストレス値」と「欲望値」を偏微分方程式でリアルタイム解析し、最適なタイミングで「お小遣い」と「甘い言葉」を振り込むアルゴリズムを完成させたのだ。
結果は、劇的だった。
長屋の八っつぁんは、支給された金で、ずっと欲しかった釣り竿を買った。
「へへっ、これで明日から釣り三昧だ!」
彼は笑顔になり、釣った魚を近所に配り、近所の食卓が潤った。
呉服屋の娘は、可愛い着物を買った。
「キャーッ! 可愛い! お出かけしたい!」
彼女は街に繰り出し、お茶屋でお団子を食べ、芝居小屋で笑った。
お茶屋も芝居小屋も大繁盛し、雇い入れを増やした。
「……すごい」
カツ海舟が、活気づく街を見下ろして唸った。
「金ってのは、天下の回りものとはよく言ったもんだが……ここまでスムーズに回るとはな」
「ええ。……彼らが『不安』というダムで堰き止めていたお金が、一気に流れ出したのですわ」
私は隣で、奉行たちが持ってきた「甘やかし国債(ピンク色の証書)」を扇代わりに仰いだ。
「しかも、この国債……金利の代わりに『地域の特産スイーツ』が届く仕組みになっていますの」
「なんだそりゃ! ……そりゃあ、誰も売らねぇわな」
「はい。保有すればするほど、太る(豊かになる)。……完璧なシステムですわ」
◇
こうして、日の本国は「ゆるゆるで豊かな国」へと変貌を遂げた。
人々は週休三日、あるいは四日が当たり前になった。
残業という概念は「前時代の奇習」として博物館行きとなり、代わりに「シエスタ(昼寝)」が義務化された。
ガチガチだった官僚たちは、今では「いかに効率よくサボるか」を競う数理モデルの開発に熱中している。
「局長! 新しい『二度寝の限界効用曲線』を発見しました!」
「でかした! 直ちに政策に反映させろ! まずは俺たちが実践だ!」
そして彼らは、執務室に持ち込んだコタツで一斉に寝るのだ。
「……素晴らしいですわ、ソフィアちゃん」
私は、満足げにエクセル(魔導表計算)を眺める愛弟子に声をかけた。
「貴女の数式が、この国の『空気』を書き換えたのね」
「ふふん。当然ですわ。……経済学とは本来、『経世済民(世を經め民を済う)』……人々を幸せにするための学問なのですから」
ソフィアちゃんは眼鏡(伊達)を外し、悪戯っぽく微笑んだ。
「それに……わたくし、日の本の『オタク文化』に興味が出てきまして。……予算を確保して、コミックマーケットを国営化しようと画策中ですの」
「あらあら。……また一歩、深淵に近づきましたわね」
東の果ての島国は、もう「沈む国」ではない。
世界で一番、計算高く、そして世界で一番、幸せな「甘やかし国家」として、黄金の(そしてピンク色の)時代を歩み始めたのだ。
「さて。……そろそろ私も、お役御免かしら?」
私は平和になった江戸の空を見上げ、ふと、故郷のバラ園を思った。
革命は成った。
将軍も、王妃も、官僚も、みんな笑顔になった。
けれど。
私の旅は、これで終わりなのだろうか?
その時、懐のマリア印の通信機が鳴った。
表示されたのは、意外な人物の名前だった。
『――レティ様! 大変です! ……あの大国、アメリカ合衆国が……!』
どうやら、全肯定未亡人の休息は、まだ少し先のようだった。




