第44話 将軍という名の迷子
江戸城、最奥。
そこは「大奥」と呼ばれる、男子禁制の聖域……のさらに奥にある、将軍の私室。
何百畳あるのかわからないほどの広大な畳の部屋には、家具一つなく、ただ冷たい静寂だけが満ちていた。
「……寒い」
レンが身震いする。
気温のせいではない。ここには、人の体温というものが決定的に欠けている。
部屋の最奥、一段高い上段の間に、御簾が垂れ下がっている。その向こうに、小さな影が一つ、座っていた。
「――面を上げよ」
御簾の向こうから響いたのは、低く、威厳に満ちた男の声だった。
けれど、私の耳には、それがどこか不自然に響く。
無理に喉を絞って低くしているような、あるいは何かの道具で変声しているような、歪な響き。
「余が、日の本を統べる征夷大将軍……トクガワ・ヨシノブである」
「ごきげんよう、上様」
私は平伏することなく、立ったまま優雅にカーテシーをした。
案内役のカツ海舟が、部屋の隅でニヤニヤしながら様子を窺っている。
「異国の女よ。……余の顔を見に来たのか? それとも、余の首を取りに来たのか?」
「いいえ。……お友達になりに来ましたの」
「友達……? 余に友達などおらぬ。余にあるのは、この国を背負う責務のみ」
将軍の声が強張る。
拒絶。孤独。そして、恐怖。
見えない敵と戦い続けてきた者の、張り詰めた糸のような気配。
「……上様。一つ、伺ってもよろしいかしら?」
私は一歩、御簾に近づいた。
「その兜。……重くはありませんか?」
「……何?」
「そして、その分厚い着物。……肩が凝って、息が苦しくて、泣きたくなっているのではありませんか?」
「無礼者! 近う寄るな!」
将軍が叫ぶ。
けれど、その声は先ほどの低い声ではなく、裏返った高い悲鳴だった。
「やはり」
私は確信した。
カツ海舟と目が合う。彼は「やれやれ、バレたか」と肩をすくめた。
私は迷わず、御簾に手をかけ――。
「失礼いたします」
バサッ。
御簾を巻き上げた。
◇
そこにいたのは、威厳ある武人ではなかった。
豪奢だがサイズが合っていない、ブカブカの直垂と、巨大な兜に埋もれるようにして座っている、一人の小さな少女だった。
黒髪のおかっぱ頭。
雪のように白い肌。
そして、大きな瞳には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。
年齢は、まだ十代半ば……いいえ、ソフィアちゃんよりも幼いかもしれない。
「……あ……」
少女は、私を見て固まった。
正体がバレた。将軍の権威が地に落ちた。
彼女の顔色が蒼白になり、震えだす。
「み、見るな……! 余は……余は男だ……! 強い将軍なのだ……!」
彼女は必死に、自分の体よりも大きな軍配を振り回そうとするが、重すぎて持ち上がらない。
「……ヨシノちゃん」
カツ海舟が、優しく声をかけた。
「もういいだろ。……この人たちには、虚勢は通じねぇよ」
「カツ……! お、お前……裏切ったな……!」
「裏切っちゃいねぇよ。……ただ、あんたに『普通の女の子』に戻る時間をあげたかっただけさ」
少女――ヨシノちゃんの目から、ポロリと涙が落ちた。
日の本国の頂点。
それは、大人の都合で「将軍」という役割を演じさせられた、孤独な少女の檻だったのだ。
「……可哀想に」
私は彼女の元へ歩み寄り、膝をついた。
「こんなに重いものを被って……。首が痛かったでしょう?」
私は彼女の頭から、巨大な兜を外した。
ゴトン、と重い音がして畳に転がる。
ヨシノちゃんは、首をすくめて私を見上げた。
「……余は……泣いてはならぬ……。泣けば、世が乱れると……」
「乱れませんわ。……貴女が泣いて、乱れるような世の中なら、壊れてしまったほうがいい」
私は彼女のブカブカの襟元を緩めた。
幾重にも重ねられた着物。
その下にあるのは、あまりに華奢な肩。
「皆様。……『甘やかし配置 (フォーメーション・スイート)』につきなさい!」
私の号令一発。
待機していた娘たちが、獲物を見つけた猛獣のように(しかし優しく)動き出した。
「了解! ……まずはこの堅苦しい服をパージ(排除)!」
レンが魔法で、ヨシノちゃんの重い着物を、ふわふわのシルクのネグリジェに変える。
「肩凝りが酷いですわね。……わたくしがマッサージしますわ。王家直伝です!」
ソフィアちゃんが背後に回り、手慣れた手つきで肩を揉む。
「お寒かったでしょう。……温かい光で包みますね」
エレナが両手をかざし、ポカポカとした陽だまりのような結界を展開する。
「護衛は任せろ。……この部屋には、ネズミ一匹、小言を言う爺一匹入れさせん」
ベルナデットが入り口で仁王立ちし、親指を立てる。
「上様。……特製の『プリン・ア・ラ・モード』でございます」
マリアが、どこからともなく出現させたちゃぶ台に、夢のようなデザートを並べる。
あっという間に、殺風景だった将軍の間が、ピンク色の女子会会場へと変貌した。
「な、な、なんなのだ、そなたたちは……!?」
ヨシノちゃんは目を白黒させている。
いきなり服が変わって、体が軽くなって、目の前にプリンがある。
キャパシティオーバーだ。
「私たちは、貴女の新しい『お友達』よ」
私はヨシノちゃんを抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。
断頭台ならぬ、将軍専用玉座(私の太腿)。
「お、降ろせ! 余は将軍ぞ! このような……このような無礼な……!」
彼女は小さな手で私の胸を押して抵抗する。
けれど、その抵抗は弱々しい。
温かい体温。柔らかい感触。そして、甘い匂い。
彼女がずっと、心の奥底で求めていたものが、今ここにある。
「無礼で結構。……さあ、ヨシノちゃん。お口を開けて?」
私はプリンをスプーンですくい、彼女の小さな唇に押し当てた。
「……た、食べぬ……! 毒かもしれぬ……!」
「甘い毒よ。……はい、あーん」
彼女は唇をきつく結んでいたが、鼻先をくすぐるカラメルの香りに負け、恐る恐る口を開けた。
パクッ。
「……っ!!」
ヨシノちゃんの瞳が、宝石のように輝いた。
「……あ、甘い……。とろける……」
「美味しい?」
「……う、うむ……。美味である……」
「よかったわね。……おかわり、たくさんあるわよ」
私は彼女の頭を撫でた。
その瞬間、彼女の中で何かが決壊した。
「……う、うあぁぁぁ……っ!」
彼女は私の胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
「辛かった……! 重かった……! 誰も……誰も余を見てくれなかった……! ただの『将軍』としか……!」
「ええ、ええ。よしよし」
「遊びたかった……! お菓子が食べたかった……! 可愛い着物が着たかったぁぁ……!」
積年の叫び。
カツ海舟が、目を細めて天井を見上げる。
彼もまた、この少女を救いたくても、立場上どうすることもできなかったのだろう。
だから、私たちという「外圧 (白船)」を利用したのだ。
「もう我慢しなくていいわ。……これからは、私が貴女の『お母様』代わりよ」
私は彼女を強く抱きしめた。
私のドレスに、将軍の涙が染み込んでいく。
こうして。
日の本国最強の権力者にして、最後のラスボス「征夷大将軍」は、私の膝の上で陥落した。
無血開城。
流れたのは血ではなく、涙と、プリンのカラメルソースだけ。
「……さて。将軍様も味方につけたことだし」
私は泣き疲れて眠り始めたヨシノちゃんをあやしながら、不敵に微笑んだ。
「この国を縛り付ける『空気』という魔物を、根こそぎ退治してさしあげましょうか」
全肯定革命、最終段階。
日の本の夜明けは、甘い朝食と共にやってくるはずだわ。




