第42話 財政の鉄壁と数式の聖女
「――通すわけにはいかぬ。断じて、いかぬ!」
将軍のいる「大奥」へと続く廊下。
そこには、今までとは種類の違う、冷たく乾燥した絶望の壁が立ちはだかっていた。
行く手を阻むのは、鼠色の裃を身にまとい、両手に巨大なソロバンを構えた役人たちの集団。
彼らの目は、まるで数字しか映さないガラス玉のようだ。
彼らこそ、日の本を裏で支配すると噂される最強の官僚組織、『緊縮財務省』の精鋭たちである。
「カツ様と言えど、これ以上の浪費は許さん! 『甘やかし』だと? 言語道断! 国の借金が見えぬか!」
先頭に立つ男、カンジョウ奉行が叫ぶ。
彼の背後には、「増税」「歳出削減」「財政規律」と書かれた幟が、亡霊のように揺らめいている。
「ちっ……出やがったな、妖怪『ソロバン弾き』ども」
カツ海舟が舌打ちをする。
「こいつらは話が通じねぇ。どんなに民が苦しんでようが、『帳簿の数字』が赤くなることだけを恐れてやがる」
「レティ様、ここはわたくしにお任せを」
一歩前に出たのは、ソフィアちゃんだった。
彼女は眼鏡(伊達)の位置を直すと、不敵な笑みを浮かべて、懐から愛用の「魔導タブレット(計算機)」を取り出した。
「わたくし、王国の財政を預かる身として、彼らの『勘違い』を正さねばなりませんわ」
◇
ソフィアちゃんは、カンジョウ奉行の目の前に立ち、優雅にタブレットを起動した。
空中に、複雑なグラフと数式がホログラムとして展開される。
「貴方がたの主張はこうですわね? 『国にお金がないから、節約し、税を取り、借金を返せ』と」
「いかにも! 入るを量りて出ずるを制す! これぞ家計の常識!」
「それが間違いですのよ」
ソフィアちゃんがピシャリと言い放つ。
「国家財政を、一般家庭の家計と同一視するなんて……経済学の初歩からやり直しですわ! 貴方がたが節約すればするほど、市場からお金が消え、民は貧しくなり、結果として税収も減る……『合成の誤謬』です!」
「な、なんだと……!?」
「ご覧あそばせ! これが最新の経済モデル、『HANKモデル(不均質主体ニューケインジアン・モデル)』によるシミュレーションです!」
ソフィアちゃんの指が、高速で画面を叩く。
空中に浮かぶ数式が、生き物のように蠢き、未来を予測する。
「貴方がたは国民を『全員同じ行動をするロボット(代表的個人)』と仮定していますが、現実は違います! 貯蓄する余裕のある富裕層と、その日暮らしの貧困層では、お金の使い方が違うのです!」
彼女の講義(演説)は熱を帯びる。
「レティ様の『甘やかし(財政出動)』は、最も苦しんでいる層……つまり『限界消費性向』が高い人々に直接届きます。
彼らにお金を渡せば、彼らは我慢していた美味しいご飯を食べ、新しい服を買い、旅行に行きます。
するとどうでしょう? お店が儲かり、企業が潤い、賃金が上がり、巡り巡って国の税収も増える!
これぞ『乗数効果』! 甘やかしこそが、国を富ませる最強の投資なのです!」
「そ、そんな……馬鹿な……」
カンジョウ奉行がよろめく。
「さらに!」
ソフィアちゃんは追撃の手を緩めない。
「将来への不安が消えれば、若者は恋をし、子供を産みます。少子化も解消!
不景気、財政難、少子化……この国の三重苦は、貴方がたが『財布の紐』で国民の首を締めていることが原因ですのよ!」
「ぐうの音も出ない正論……!」
「わたくしの計算に間違いはありません。さあ、そのソロバンを捨てて、金庫を開けなさい!」
ソフィアちゃんがビシッと指差す。
完璧な論理。圧倒的なエビデンス。
普通の人間なら、ここでひれ伏し、改心するところだ。
しかし。
彼らは「人間」をやめて久しい、妖怪だった。
「……え、えらー……えらー……」
カンジョウ奉行の目が泳ぎ始めた。
彼の脳内で、長年染み付いた「借金=悪」「増税=善」というドグマと、ソフィアちゃんの「高度すぎる真実」が衝突し、処理落ちを起こしたのだ。
「り、理解……不能……。HANK……? ニューケインジアン……? わからぬ……わからぬ!!」
「え?」
「そんな横文字は知らん! とにかく借金は悪なのだ! 孫子の代にツケを残すな! 増税だ! 我慢だ! 欲しがりません死ぬまでは!!」
奉行たちは耳を塞ぎ、目を閉じ、大声で念仏のように唱え始めた。
思考停止。
論理的敗北を認めるくらいなら、知性を捨てて殻に閉じこもることを選んだのだ。
「ざ、財務真理教の狂信者どもめ……!」
ソフィアちゃんが愕然とする。
「わたくしの完璧な数式が……『理解したくない』という感情論だけで弾かれるなんて!」
「……やれやれ」
カツ海舟が煙を吐いた。
「言ったろ? こいつらは数字を見てるようで、見てねぇんだ。……『我慢させてる自分たち』に酔ってるだけだからな」
論理の壁は突破した。
けれど、その奥にある「頑固」という名の絶対防壁は、数式では壊せない。
「……ソフィアちゃん、下がって」
私が前に出た。
私の可愛い弟子が、顔を真っ赤にして悔しがっている。
その肩を優しく抱き、私は呆れ果てたソロバン隊に向き直った。
「……難しいお話は、苦手なようですわね」
私は扇を開いた。
「論理が通じないなら……『物理(甘味)』で溶かすしかありませんわ」
数式を拒絶する彼らの口を、もっと原始的な「幸福」で塞ぐ。
緊縮財務省vs全肯定未亡人。
ファイナルラウンドのゴングが鳴った。




