第4話 鎧を脱がす指先
時計の針が深夜二時を回った頃。
私はナイトガウンの上にショールを羽織り、音もなく寝室の扉を開けた。
「……ッ!?」
扉の前に直立不動で立っていた銀色の影――ベルナデット様が、弾かれたように振り返る。
カシャン、と鎧が悲鳴のような音を立てた。
兜の下、疲労と睡魔と闘っていたであろう瞳が、驚愕に見開かれる。
「レ、レティ様!? このような時間に、何か異常事態でも……!?」
「ええ、異常事態よ」
私は真剣な面持ちで頷く。
彼女が腰の剣に手をかけ、殺気立つ。
「賊ですか!? それとも魔物……」
「ここよ」
私は彼女の右肩、分厚いポールドロン(肩当て)の上を指差した。
「貴女の僧帽筋が、悲鳴を上げているわ。私の安眠を妨げるほどの大音量で」
「……は?」
彼女がぽかんと口を開ける隙に、私はその手首――冷たいガントレットに包まれた手――を掴み、強引に部屋の中へと引き込んだ。
「入りなさい。これは治療という名の、夜のお茶会よ」
◇
私の寝室は、間接照明の柔らかな光と、ラベンダーのアロマに満たされている。
その中央、豪奢な長椅子に、借りてきた猫のように縮こまって座る、全身鎧の騎士。
シュールレアリスムの絵画のような光景だわ。
「あの、レティ様。やはり、任務中にこのような……」
「黙って」
「はい」
私は彼女の背後に回り、冷たい金属の留め具に手をかけた。
カチリ。
右手のガントレットのロックを外す。
彼女がビクリと震えたが、拒絶はしなかった。
「外すわよ。……貴女のその綺麗な指先が、革と鉄の匂いに染まりきってしまう前に」
ずっしりと重い金属の塊を、指先から引き抜く。
露わになったのは、剣ダコで硬くなり、節くれだった武人の手。
けれど、手入れ不足のマリアの手とは違い、そこには「守るために鍛え上げた」という誇り高い意志が刻まれている。
「……ゴツゴツして、可愛げのない手でしょう」
ベルナデット様が自嘲気味に呟き、手を隠そうとする。
「いいえ。とても誠実な手だわ」
私はその手の平に、たっぷりとマッサージオイルを垂らした。
人肌に温めた、特製のハーブオイル。滑らかな感触と共に、私の指が彼女の掌のコリを探り当てる。
「っ……!」
「ここね。剣を握りしめすぎて、親指の付け根が石のように硬くなっているわ」
グリ、と親指で加圧すると、彼女の口から艶っぽい呻きが漏れた。
鎧を着たまま、手だけが裸にされているという状況。
そのアンバランスさが、彼女の羞恥心と被虐心を同時に刺激しているのが、手に取るようにわかる。
「次は肩よ」
私は躊躇なく、彼女の肩当てのベルトを解いた。
ガチャリ、と重い金属板が床に落ちる。
その下の鎖帷子も、綿入りの下着も、私の指先の前では薄紙と同じだ。
「脱ぎなさいとは言わないわ。でも、私に触れさせて」
布越しに、彼女の患部――古傷が疼く右肩――に触れる。
熱を持っている。
湿度の高い夜は、古傷が痛む。彼女はその痛みに耐えながら、微動だにせず私の部屋の前に立ち続けていたのだ。
なんて健気で、愚かで、愛おしい生き物なのかしら。
「痛いでしょう」
「……騎士ですから。痛みは友です」
「悪いお友達ね。絶交なさい」
私はオイルを手に広げ、彼女の首筋から肩にかけて、ゆっくりとリンパを流すように撫で下ろした。
強張っていた筋肉が、私の指の動きに合わせて、波打つように解れていく。
「あ、うぅ……っ、レティ、さま……」
「騎士様は硬いのね。体も、心も」
「そ、そんな、そこは……っ」
「力を抜いて。……大丈夫、誰も見ていないわ」
耳元で囁きながら、ツボを正確に突く。
彼女の背骨を電流が駆け抜け、自制心という名の最後の鎧が砕け散った。
「あ……ぁ……っ!」
ベルナデット様がガクンと力を失い、背もたれに深く沈み込む。
荒い息遣い。
汗ばんだ額。
その瞳は潤み、恍惚と安堵が入り混じった、とろけるような色をしていた。
「ふふ、やっと柔らかくなった」
私は彼女の背中を包み込むように抱きしめた。
汗と鉄の匂いがするけれど、今はそれすらもスパイスだ。
「ベルナデット。貴女は強くて立派な騎士よ。でもね」
「は、い……」
「私の前では、ただの『ベル』でいてくださらない?」
愛称呼び。
それは、公的な主従関係から、私的な共犯関係への招待状。
彼女の体が、小刻みに震える。
それは拒絶の震えではなく、堰き止めていた感情が決壊する振動だった。
彼女は残った左手のガントレットで顔を覆い、くぐもった声で答えた。
「……ずるいです、貴女は」
「あら、何が?」
「こんな……こんな風にされたら、私はもう、剣を握るたびに貴女の指の感触を思い出してしまう……」
「あら、光栄ね。戦場でも私と一緒ということでしょう?」
全肯定。
彼女の迷いを、すべて「愛」に変換して返す。
「……レティ様」
「なぁに?」
「……もう少しだけ、このままで。……肩が、軽くなるまで」
彼女が体重を預けてきた。
鎧の重みが、私にかかる。
それは彼女が初めて見せた、「甘える」という行為だった。
「ええ、朝まで付き合ってあげるわ。……私の可愛い盾様」
***
翌朝。
鳥のさえずりと共に目覚めると、ベルナデット様はすでにいなかった。
代わりに、サイドテーブルには一枚のメモと、美しく磨き上げられたガントレットが置かれていた。
『朝の鍛錬に行ってまいります。……昨夜のことは、生涯忘れません。ベルナデット』
文字の端々が少し踊っている。
可愛い人。
私は伸びをして、ベルを鳴らした。
すぐにマリアが現れ、完璧な手際でカーテンを開ける。
彼女の顔色も、以前よりずっと良くなっている。私の「管理」が順調な証拠だ。
「おはようございます、奥様。今朝はお肌の艶がよろしいようで」
「ええ、いい運動をしたもの。……それで、何か届いているわね?」
マリアが銀の盆に乗せて差し出したのは、一通の封書だった。
深紅の封蝋。
そこに押された紋章は、国章――王家の紋章だ。
「……王宮からの招待状です。来週の夜会に、是非にと」
マリアの声が硬くなる。
王妃主催の夜会。それは社交の場という名の、政治的な戦場。
王家の肝入りで隣国に嫁いだ私が、出戻った後。大人しくしているか、それとも排除すべき危険分子となっているのかを見極めるための、査問会のようなものだろう。
「あら、嬉しいわ。私の復帰を祝ってくださるなんて」
私は封筒を丁寧に開封する。
中身など読まなくてもわかる。「来い。さもなくば……」という圧力に満ちた文面だ。
けれど、私の興味はそこにはなかった。
窓の外。
朝露に濡れた庭園の一角に、不自然に焦げた跡があるのが見えたからだ。
昨夜、ベルナデット様が来る前にはなかった痕跡。
薔薇の植え込みが、円形に黒く炭化している。
ただの火事ではない。あれは、高密度の魔力が暴走し、空間ごと焼き切った跡だ。
「……空から落ちてくる準備は、もう整っているようね」
私は招待状を指先で弾き、不敵に微笑んだ。
盾(騎士)を手に入れた私に、次は「矛(魔術師)」を与えてくれるというのなら。
運命すらも、私を甘やかそうとしているに違いない。
いいわ、たっぷり甘やかし返してあげましょう。
「マリア、一番派手なドレスを用意して。……喧嘩を売りに行くのではないわよ。新しいお友達を迎えに行くの」




