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第38回 東方見聞録:地獄編


「――よろしいですか、皆様。心して聞いてくださいまし」


飛空艇『クイーン・レティーティア号』のメインラウンジ。

雲海の上を滑るように飛ぶ船内は、マリアが淹れた紅茶の優雅な香りに満ちていた。

しかし、ホワイトボード(魔法投影式)の前に立つソフィアちゃんの表情は、魔王復活の報告をする時よりも深刻だった。


彼女の手には、クロガネ大使たちが残していった『日の本・社会実情データ』と、キサラギ・サエさんの『裏・業務日誌』が握られている。


「これから向かう『日の本』という国……。調べれば調べるほど、恐ろしい場所ですの」


ソフィアちゃんが杖でボードを叩く。

そこには、禍々しいオーラを纏った単語が投影された。


『KAROSHI(過労死)』

『SONTAKU(忖度)』

『KUUKI(空気)』


「……呪文か?」

レンがポテトチップスを摘みながら首を傾げる。


「いいえ、呪いですわ」

ソフィアちゃんが眼鏡(伊達)をクイッと上げる。


「まず、彼らの労働観について。……彼らは『定時』という概念を持っていますが、それは『帰れる時間』ではなく、『休憩時間が終わって本番が始まる時間』を指します」


「「「は?」」」


全員の声がハモる。


「意味がわからないな。契約違反だろ?」

ベルナデットが眉をひそめる。


「ええ。ですが、彼らはそれを『サービス残業』と呼びます。……『奉仕』ですわ」


「奉仕……? 神への?」

エレナが目を丸くする。

「いいえ、会社への、です。しかも無償で。……彼らは、死ぬまで働くことを『名誉の戦死』のように捉える節があります」


「……狂気だ」

ベルナデットが顔を青ざめさせる。

「戦場でも、休息を取らぬ兵士は真っ先に死ぬし、味方の足手まといだ。……それを美徳とするなど、指揮官が無能すぎる」


ソフィアちゃんは頷き、次のページをめくった。


「次に、『通勤』です。……首都では毎朝、定員率二〇〇パーセントを超える鉄の箱に詰め込まれ、一時間以上揺られて職場へ向かいます。……肋骨が折れるほどの圧力の中で」


「……げえ、奴隷船の輸送記録?」

レンがドン引きする。

「空間転移ゲートを使えばいいじゃん。なんでそんなマゾヒスティックなことするの?」


「それが『普通』だからですわ。……そして、職場に着く頃にはHPの半分を消費しているのです」


「可哀想すぎます……!」

エレナが涙ぐみ、祈り始める。

「そんな……一日の始まりが地獄だなんて……。癒やしが必要です、直ちに!」


ソフィアちゃんはさらに続ける。


「そして極めつけは、『飲み会』です」


「宴か? それは良いことではないか」

ベルが少し表情を緩める。


「いいえ。……これは『業務の延長』ですわ。上司のグラスが空く前に注ぎ、面白くもない自慢話に相槌を打ち、サラダを取り分け、セクハラまがいの発言を笑顔でかわす。……これを拒否すると、『付き合いが悪い』と査定を下げられます」


「毒杯の強要ですね」

マリアが真顔で呟く。

「私なら、その上司のワインに即効性の下剤を盛りますが」

「マリア、過激よ」

私が苦笑する。


「さらに不可解なのが、『ハンコ』という儀式です」

ソフィアちゃんが図解を示す。


「書類一枚を通すために、五人の上司の承認印が必要です。しかも、部下は上司にお辞儀をするように、印鑑を左に傾けて押さなければなりません」


「……非効率すぎて吐き気がする」

レンが頭を抱えた。

「電子署名で一秒で終わるじゃん。……その『角度』に何の意味があるの? 魔力効率が変わるわけ?」

「いいえ。……『敬意』だそうです」


「敬意とは、角度ではなく行動で示すものだ」

ベルが呆れ果てて剣の柄を叩く。


ラウンジの空気が、重く沈殿していく。

知れば知るほど、日の本という国は、高度に発達した文明を持ちながら、精神的には「自傷行為」を繰り返している奇妙な国に見えてくる。


「……総じて言えば」


ソフィアちゃんが結論を述べる。


「彼らは、『他人からどう見られるか』という監視カメラを、全員が脳内に埋め込んで生きているのです。……自分の幸せよりも、『世間体』という名の神様を優先する。……それが、日の本ですわ」


シーン……。


娘たちは言葉を失っていた。

ドラゴンや魔王のほうが、よほど話が通じる相手かもしれない。

「空気」という見えない魔物は、剣でも魔法でも切れないのだから。


「……帰りたくなってきた」

レンが正直な感想を漏らす。

「そんな理不尽な国、ボクたちのロジック通じないよ」


「私も……自信がありません。……自ら苦しみを望む人々を、どう救えば……」

エレナが弱音を吐く。


不安が広がる船内。

その時、私はカップをソーサーに置き、ことりと音を立てた。


「……あら、皆様。怖気づいてしまったの?」


私が微笑むと、全員の視線が集まる。


「でも、考えてみて? ……それだけ抑圧されているということは」


私は立ち上がり、窓の外に広がる雲海を指差した。


「それだけ、反動リバウンドも大きいということよ」


「反動……?」


「ええ。……彼らは『甘え方』を知らないだけ。飢えているのよ。……砂漠が水を吸い込むように、一度『肯定』の味を知ってしまえば……彼らは誰よりも深く、甘い沼に沈んでくれるはずだわ」


私は想像する。

満員電車で死んだ目をしているサラリーマン。

深夜のオフィスでキーボードを叩くOL。

彼らの背中に、そっと「お疲れ様」とブランケットを掛けてあげたら。

「頑張らなくていいのよ」と、温かいミルクを差し出したら。


きっと、その鉄の仮面は、飴細工のように簡単に砕け散る。


「そこは地獄ではありません。……手付かずの『巨大市場ブルーオーシャン』ですわ」


私の言葉に、娘たちの目に光が戻る。


「なるほど……。攻略しがいがある、と」

ソフィアちゃんがニヤリと笑う。


「ボクたちの科学力と魔法で、その『非効率』をぶっ壊せばいいんだね」

レンが拳を握る。


「疲れているなら……私の癒やしが、一番必要とされる場所ですね!」

エレナが使命感に燃える。


「理不尽な上司ごとき、私の剣圧で黙らせてくれる」

ベルが闘志を燃やす。


「……奥様。とびきり甘い砂糖と、胃に優しいハーブティーの準備を倍増させます」

マリアが倉庫へ走る。


「その意気よ、私の可愛い娘たち」


私は扇を開き、高らかに宣言した。


「さあ、着陸態勢に入りなさい。……黒船の来航よ。日の本の皆様に、文明開化(全肯定)の音を聞かせて差し上げましょう!」


雲の切れ間から、細長い島国が見えてきた。

灰色に霞むその島は、まるで「助けて」と泣いているように、私には見えた。


待っていなさい。

今、世界一甘いママが、降りていくからね。



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