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第36話 人質交換:飴と鞭の外交


翌朝の王城、迎賓館。

そこは、戦場よりも悲惨な「阿鼻叫喚」の巷と化していた。


「サエ殿ーッ! サエ殿はどこでござるかーッ!?」

「拙者の靴下が見当たらぬ! 右足だけがない! これは妖怪の仕業か!?」

「ネクタイが結べぬ! いつもサエ殿がやってくれていたのに!」

「本日のスケジュールの紙はどこだ! これでは会議に行けぬ!」


いい年をした大人の男たち――日の本国のエリート侍たちが、パンツ一丁やシャツのボタンを掛け違えた姿で、右往左往している。

彼らは気づいてしまったのだ。

自分たちが「清貧で有能な官僚」でいられたのは、全てキサラギ・サエという一人の女性が、魔法のような手際で身の回りの世話を焼いてくれていたからだということに。


「おのれ、これは王国の陰謀か……! 我らの『お母さん (機能)』を奪うとは……!」


クロガネ大使が、片方だけの靴下を握りしめ、悲痛な叫びを上げる。

その時だった。


「ごきげんよう、皆様。……随分と賑やかな朝ですこと」


カツ、カツ、カツ。

優雅なヒールの音が響き、混沌とした部屋の空気を切り裂く。

現れたのは、完璧にドレスアップした私、レティーティア。

その後ろには、武装したベルと、ニヤニヤ笑うレンが控えている。


「ロ、ローゼンタール夫人!」


大使が駆け寄ってくる(ズボンのチャックが開いているわよ)。


「キサラギ書記官を知らぬか!? 昨夜から姿が見えず、部屋ももぬけの殻……まさか、拉致されたのでは!?」


「ええ、拉致されましたわ」


私は扇を開き、涼しい顔で告げた。


「犯人は、我が国の王妃ヒルデガルド陛下です」


「な、なんだと……ッ!?」


「現在、彼女は王妃様の寝室にて、最高級の羽毛布団と猫のぬいぐるみに囲まれ、二度寝の真っ最中です。……『あと五時間起こさないで』との伝言を預かっております」


侍たちが絶句する。

二度寝。それは勤勉を旨とする彼らにとって、最も罪深く縁遠い言葉。


「ば、馬鹿な……。サエ殿が職務を放棄するはずがない! 彼女は鉄の女だぞ!」

「鉄だって錆びますし、疲労骨折もしますわ。……彼女は今、人間への『回帰』プロセス中です。当面の間、お返しすることはできません」


私は宣言した。

これは事実上の「亡命受け入れ」宣言だ。


「そ、そんな……! では、我々はどうすればいいのだ! 靴下は! 日程は! 誰が茶を淹れてくれるのだ!」


大使が頭を抱えて蹲る。

国の危機よりも、自分の靴下のほうが重大事らしい。情けないけれど、これが彼らの現実。


「そこで、提案がございます」


私は大使の前にしゃがみ込み、彼の開いたままのチャックを(魔力で)スッと上げてあげた。


「サエさんは、我が国が責任を持って『保護(甘やかし)』させていただきます。彼女には、王妃様の個人的な相談役として、しばらく滞在していただくことになりました」


「なっ……! それでは、使節団の機能が麻痺する! 断固拒否する!」


「拒否なさるなら、昨夜の『豚汁号泣事件』の詳細を、全世界に配信してもよろしいのですけれど?」


レンが水晶玉(録画機能付き)をジャグリングしながら見せる。

大使の顔色が青から白へ、そして透明になりそうなほど血の気が引いた。


「くっ……卑怯な……!」

「外交とは、カードの切り合いですもの」


私は微笑み、本題を切り出した。


「ですが、貴方たちが困るのも事実。……そこで、『人質交換』といきましょう」


「人質……交換……?」


「ええ。サエさんを我が国に預ける代わりに……わたくしが、貴国『日の本』へ参ります」


その言葉に、部屋の時が止まった。


「は……? 貴女が……?」


「はい。王妃陛下より、『親善特命全権大使』の命を拝領しました。……私が貴国へ赴き、不景気と閉塞感に喘ぐ日の本を、内側から『視察(革命)』して差し上げますわ」


私は立ち上がり、窓の外、東の空を指差した。


「貴国に足りないのは、『引き締め』でも『我慢』でもありません。……圧倒的な『甘え』と『肯定』です。私が直接乗り込んで、その凝り固まった文化を、マシュマロのようにふやかして差し上げます」


大使は呆然と私を見上げた。

サエという実務の要を失い、代わりに手に入るのは、世界一甘くて危険な「全肯定未亡人」。

計算高い彼なら、これが割に合わない取引だとわかるはずだ。

けれど。


(……靴下も見つけられない彼らに、選択肢なんてないわ)


「……わかった」


大使はガクリと項垂れた。


「……認めよう。サエ殿の……一時的な滞在を。……その代わり、貴女には……我が国を……」


彼は言い淀み、そして縋るような目で私を見た。


「……我が国を、救ってくれるのか? この、息苦しい地獄から」


彼の本音。

彼自身もまた、「男らしさ」や「責任」という名の靴下を探して、迷子になっていたのだ。


「救うなんて、大それたことは言いませんわ」


私は彼の手を取り、立たせた。


「ただ……貴国の皆様全員に、温かいお茶と、ふわふわの膝枕を届けるだけです。……覚悟はよろしくて?」


「……お手柔らかに頼む」


交渉成立。

こうして、キサラギ・サエという一人の女性の「休暇」と引き換えに、全肯定未亡人レティーティアの「日の本・渡航」が決定した。


「さあ、皆様! 荷造りを手伝って差し上げますわ! ……靴下はタンスの二段目! ネクタイは私が選んであげます!」


「は、はいっ! レティ様!」

「ありがたき幸せーッ!」


先ほどまでのパニックが嘘のように、侍たちが私の指示に従って動き出す。

彼らは新しい「お母さん」を見つけたのだ。

ただし、このお母さんは、ただ甘やかすだけではない。

国ごと「幼児退行」させるつもり満々の、危険なママだということに、彼らはまだ気づいていない。


「……待っていてくださいね、日の本の皆様」


私は東の空を見つめ、不敵に微笑んだ。

不景気? 人口減少?

そんなの、国民全員が幸せな顔をして寝ていれば、案外なんとかなるものよ。


黒船ならぬ「白フリル」の来航。

サムライの国に、甘い嵐が吹き荒れる予感がするわ。



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