第35話 鋼鉄の乙女、猫になる
王城の夜は更けていた。
客としてあてがわれた執務室で、キサラギ・サエは、カチカチと乾いた音を立てて計算機を叩き続けていた。
机の上には、日の本国への報告書の山。
「国王の堕落」「食料事情の異常な豊かさ」「大使の情緒不安定」……書くべきことは山ほどある。
「……ふぅ」
彼女は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
頭が重い。カフェイン錠剤の効果が切れかかっている。
けれど、休むわけにはいかない。私が倒れれば、あの能天気な男たち(侍)は路頭に迷うのだから。
コンコン。
控えめな、しかし楽しげなノックの音が響いた。
「……どうぞ」
「失礼いたしますわ、サエさん。……まだ残業?」
現れたのは、レティーティア・フォン・ローゼンタール。
彼女は夜会用のドレスではなく、柔らかなショールを羽織っただけの、ラフな姿だった。
それだけで、サエの警戒レベルが跳ね上がる。この姿の彼女は、「公務」ではなく「私事 (甘やかし)」に来ている証拠だからだ。
「……レティーティア様。何かご用でしょうか。明日の日程調整なら……」
「いいえ。……今夜は、王妃陛下からの『勅命』をお伝えに来ましたの」
「勅命……?」
サエが背筋を伸ばす。
王妃ヒルデガルド。この国の実質的な支配者にして、かつて「鉄の女」と呼ばれた冷徹な指導者。
外交問題に関わる重大な命令かもしれない。
「心して承ります。……内容は?」
レティは扇で口元を隠し、悪戯っぽく瞳を細めた。
「『直ちに我が寝室へ出頭せよ。服装は問わないが、武装(仕事道具)は没収とする』……とのことですわ」
「は……?」
◇
連行された先――王妃の寝室の扉が開いた瞬間、サエの思考回路はショートした。
「……な、なんですか、ここは……」
そこは、ピンク色の間接照明に照らされた、ファンシーな異空間だった。
天蓋付きのベッドの上には、色とりどりのクッションとぬいぐるみが山積み。
そして、その中心で車座になっているのは、この国のVIPたちだ。
「あら、いらっしゃい。待ちくたびれたわよ」
ウサギ柄のパジャマを着て、クッキーを齧っている王妃ヒルデガルド。
「ようこそ、サエさん! これ、私のオススメの美容液マスクですわ!」
ネグリジェ姿でパックを顔に貼っている、第二王女ソフィア。
「お仕事お疲れー。……ここ、重力軽減結界張ってあるから、座るだけで肩こり治るよ」
抱き枕を抱えてゴロゴロしている、王立魔術研究所長レン。
「サエさんの分のお茶、ハーブ多めで淹れておきました。胃に優しいですよ」
天使のような微笑みで手招きする、聖女エレナ。
「ここが私の定位置ですが……今夜はお譲りしましょう」
複雑そうな顔をしつつも、場所を空けてくれる近衛騎士団長ベルナデット。
そして、最後に部屋に入ってきたレティが、ガチャリと鍵を閉めた。
「ようこそ。……『革命のお茶会』へ」
◇
「り、理解不能です……! これは外交儀礼上、いかなる意味を持つ会合なのですか!?」
サエは扉に背を預け、震える声で問いただす。
彼女の常識では、国家の中枢メンバーが、パジャマ姿で密会するなどありえない。ハニートラップか、何かの儀式かと疑うのも無理はない。
「意味? そんなものないわ」
ヒルデガルド様が、ポンポンとベッドの空きスペースを叩いた。
「ただ、私が貴女と話したかっただけよ。……『鏡を見ているようで放っておけない』から」
「……鏡?」
「ええ。……眉間の皺。完璧に結い上げた髪。そして、『私がやらなきゃ世界が終わる』と思い込んでいる、その悲壮な目」
ヒルデガルド様が苦笑する。
「レティに甘やかされる前の私そっくりだわ。……見ていて痛々しいくらいにね」
サエが息を呑む。
鉄の女と呼ばれた王妃からの、同族認定。
それは彼女の心の防壁を、正面からノックする言葉だった。
「さあ、座りなさい。……これは王妃命令よ」
逃げ場はない。
サエは覚悟を決めたように(あるいは処刑台に向かうように)、おずおずとベッドの端に腰掛けた。
すると、すかさずマリアが背後から忍び寄り、サエの髪留めをスルスルと解いた。
「あ……っ」
黒髪がバサリと広がる。
首筋が露わになる。
鎧(スーツと髪型)を剥がされた彼女は、急に幼く、華奢に見えた。
「こちらのほうが素敵ですわ。……それと、これに着替えていただけますか?」
レティが差し出したのは、サエが隠し持っていた缶ケースと同じ、猫の柄のパジャマだった。
しかも、耳付きフードのついた、あざといデザインのやつだ。
「こ、これを……私が……? 三十路手前の公務員が……?」
「あら、年齢なんてただの数字よ。……可愛いものが好きなら、着ればいいじゃない」
「拒否権は?」
「ありません」
数分後。
猫パジャマに着替えさせられたサエは、顔を真っ赤にして、膝を抱えて小さくなっていた。
周囲からは「可愛い!」「似合う!」の嵐。
彼女の自尊心はボロボロだが、同時に奇妙な開放感が彼女を包み始めていた。
もう、完璧な書記官でいなくていい。ただの「猫」になってしまったのだから。
「さあ、革命の第一歩よ」
レティが、サエの目の前に山盛りのスイーツ皿を置いた。
ショートケーキ、マカロン、ティラミス、そして特製のプリン。
「……こんなに、食べられません。カロリーが……」
「カロリーは熱に弱いから、揚げたり焼いたりすればゼロになるのよ」
「そんな科学的根拠のない……」
「いいから、食べなさい」
ヒルデガルド様が、自らフォークでケーキをすくい、サエの口元に運んだ。
王妃様からの「あーん」。
本日二度目の不可避イベント。
サエは観念して口を開けた。
甘いクリームと、ふわふわのスポンジ。
脳髄が痺れるような糖分の奔流。
「……んぅ……」
「美味しい?」
「……はい……悔しいですが……美味しいです……」
サエの目尻が下がる。
それを見たソフィアちゃんが、身を乗り出して尋ねた。
「ねえ、サエさん。……日の本の男性たちって、みんなあんなに『引き締め』が好きなのですか? あの大使、昨日も『空調の設定温度を下げて精神統一する』とか言って、風邪引きそうでしたわよ」
「……はぁ」
サエが深く、重い溜息をついた。
糖分が入ったことで、愚痴のストッパーが外れたらしい。
「彼らは……『我慢すること』自体が目的なんです。成果が出なくても、苦労していれば褒められる文化なんです。……おかげで、尻拭いをするのは全部私。経費精算もしない、日程管理もできない、あげく『お茶淹れて』だなんて……!」
「わかるわ」
ヒルデガルド様が激しく同意する。
「男って、どうしてあんなに『名誉』とか『メンツ』にこだわるのかしらね。……私の夫も、すぐに『王の威厳が』とか言って、素直に甘えないもの」
「そうです! 大使なんて、道に迷っても『これは戦略的迂回だ』とか言って、地図を見ようともしないんです!」
「あはは、いるいるそういうタイプ」
レンが笑い転げる。
「ボクの上司もそうだったよ。『理論より気合だ』とか言って、実験室爆破してた」
「騎士団にもいますね。剣の手入れもしないで、精神論ばかり語る古株が」
ベルも紅茶を飲みながら頷く。
国境を超えた女子会トーク。
共通の敵は「わからず屋の男たち」。
サエの口からは、溜まりに溜まった鬱憤が、機関銃のように溢れ出していた。
「だいたい、あの国は『良妻賢母』を求めすぎなんです! 働け、産め、育てろ、そして老後は介護しろ!? 体がいくつあっても足りません!」
「そうよ! もっと言ってやりなさい!」
「貴女は頑張りすぎたのよ!」
「ここではもう、何もしなくていいの!」
全肯定のシャワー。
共感の嵐。
サエの肩から、見えない重りが一つ、また一つと落ちていく。
ひとしきり叫んで、食べて、笑った後。
サエはふと、静かになった。
そして、隣で微笑んでいるレティを見た。
「……不思議です。……私、こんなに大声で喋ったの、何年ぶりだろう」
「スッキリした?」
「……はい。少しだけ」
サエは眼鏡を外して、テーブルに置いた。
素顔の彼女は、とても幼く、そして寂しげな目をしていた。
「でも……明日になれば、また戻らなければなりません。……私が支えなければ、あの人たちは……」
「支えなくていいわ」
レティが、サエの体を優しく引き寄せた。
レティの膝の上。
特等席の「断頭台」。
「え、あ、あの……」
「倒れればいいのよ、一度くらい」
レティはサエの髪を撫でた。
「貴女がいなくなって、彼らがどれだけ困るか。……一度思い知らせてあげるのも、教育のうちよ」
「……教育……」
「そう。貴女は『お母さん』じゃない。……ただの、甘いお菓子が好きな女の子よ」
「……女の子……」
サエの視界が滲む。
ずっと否定してきた言葉。
ずっと閉じ込めてきた自分。
「……私、疲れたんです……」
「ええ」
「本当は……もっと寝たい。……おしゃれもしたい。……猫の動画を一日中見ていたい……」
「ええ、ええ。全部叶えましょう」
レティの体温が、サエの冷え切った芯を溶かしていく。
サエは、レティの胸に顔を埋めた。
「……おやすみなさい、サエ」
数分後。
王妃のベッドには、幸せそうな寝息を立てる猫が追加されていた。
その周りを、ウサギ(王妃)や他の動物たちが囲んで眠っている。
「……さて」
レティは、眠るサエの頭を撫でながら、窓の外の月を見上げた。
隣の部屋――使節団の宿泊棟の方角を見る。
「明日の朝が楽しみね。……『お母さん』がいなくなったサムライたちが、どうやって靴下を探すのか見物だわ」
甘い革命は、国境を超えて。
東の鉄の女は陥落した。
残るは、頑固な男たちの「全肯定」だけ。
「……覚悟してね、クロガネ大使。貴女の右腕は、私がいただいてしまったわ」
レティは悪戯っぽく微笑み、自らも温かいベッドの海へと沈んでいった。




