第34話 鉄の女の隠された糖度
王城の謁見の間は、奇妙な熱気と湿気に包まれていた。
それは、数十人の大の男たちが、豚汁をすすりながら号泣するという、地獄絵図 (あるいは天国?)のような光景が生み出すものだった。
「うぐっ、ひぐっ……! 母上……故郷の味がします……!」
「米が……白い米がこんなに甘いとは……!」
「おかわり! 誰か、おかわりを所望する!」
先ほどまでの「清貧の思想」はどこへやら。
彼らはただの、腹を空かせた迷子に戻っていた。
クロガネ大使に至っては、焼き鮭の皮を愛おしそうに齧りながら、私のドレスの裾にすがりついて泣いている。
「……やれやれ。男の人って、単純で助かるわ」
私は大使の頭を(少し雑に)撫でながら、次の標的を探した。
私のIQ200の観察眼は、この混沌の中でも冷静さを保っている人物を、決して見逃さない。
一行の末席。
他の男たちが餓鬼のように食事に群がる中、一人だけ、背筋を伸ばしたまま、静かに箸を動かしている人物がいた。
女性だ。
墨染めのスーツに身を包み、黒髪を一本の後れ毛もなく完璧なシニヨンにまとめている。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、知的だが冷ややかで、感情の起伏が読み取れない。
彼女の手元には、食事中にも関わらず、分厚いファイルと小型の計算機が置かれていた。
「……見つけた」
私は大使の相手をマリアに任せ(マリアは嫌そうな顔をしつつも、手際よくお茶を差し出している)、その女性のもとへと歩み寄った。
コツ、コツ。
私のヒールの音に気づき、彼女が顔を上げる。
眼鏡の奥の瞳が、私を射抜く。警戒と、分析の光。
「……ごきげんよう。お口に合いましたかしら?」
私が声をかけると、彼女は箸を置き、音もなく立ち上がって完璧な敬礼をした。
「……ローゼンタール侯爵夫人。お気遣い感謝いたします。……まさか、食料を用いた精神攻撃を仕掛けてくるとは。貴国の外交戦略、再評価が必要なようです」
声は硬質で、抑揚がない。まるで精密機械のようだ。
「あら、攻撃だなんて。おもてなしですわ。……ところで、貴女のお名前は?」
「……日の本国使節団、首席書記官兼会計監査役、キサラギ・サエ(如月 冴)と申します」
サエ。
その名の通り、冴え渡るような冷たさを纏った女性。
肩書を聞くだけで、彼女がこの使節団の「実質的な頭脳」であり、同時に「雑用係のトップ」であることがわかる。
「サエさんね。……他の皆様は夢中で召し上がっているのに、貴女はずいぶんと冷静なのね」
私は彼女の皿を見た。
綺麗に食べ進められているが、そこに「楽しみ」の感情は見えない。ただ、効率的に栄養を摂取する作業に見える。
「……感情に流されては、任務に支障が出ます。彼らが崩れた今、誰かが冷静に状況を記録し、本国へ報告しなければなりません」
「まあ。……大使が泣き崩れている横で、報告書の作成?」
「はい。それが私の仕事ですから」
彼女は無表情に答えた。
けれど、私は見た。
彼女がファイルをめくる指先。その爪の付け根が、ストレスでささくれ立っているのを。
そして、計算機を叩く指の関節に、慢性的な腱鞘炎の兆候があるのを。
この国(日の本)の男たちは、「苦労」を勲章のように語る。
けれど、女たちは違う。彼女たちは、その男たちの苦労を陰で支え、尻拭いをし、なおかつ「完璧であること」を求められる。
弱音を吐くことすら許されない、二重の鎖に繋がれているのだ。
「……ねえ、サエさん」
私は一歩、彼女に近づいた。
彼女の完璧な鉄仮面に、微かな亀裂を入れるために。
「日の本にも、甘やかされたい女の子はいるかしら?」
「……は?」
初めて、彼女の表情が崩れた。
眼鏡の奥の瞳が、驚きに見開かれる。
「……何を、仰るのですか。我々日の本の女子は、男を立て、国を支え、耐え忍ぶことを美徳としており……」
「それは『建前』でしょう?」
私は彼女の言葉を遮り、彼女の手に触れた。
冷たい。氷のように冷え切った指先。
「貴女のこの手。……インクと紙の匂いが染み付いているわ。……あの能天気な大使の何倍も、働いている証拠ね」
「……っ、触らないでください」
彼女が反射的に手を引っ込める。
「私は……私は、彼らとは違う。……甘えなど、必要ない。完璧に仕事をこなすことだけが、私の存在意義……」
「嘘ね」
私は断言した。
「貴女のその鞄。……一番奥のポケットに、何を隠しているの?」
「ッ!?」
彼女が息を呑み、自分の鞄を強く抱きしめた。
私のIQ200の観察眼は見逃していなかった。彼女が食事の前に一瞬だけ、鞄の奥を愛おしそうに撫でたのを。
「……まさか、透視能力まで……?」
「いいえ。ただの勘よ。……ねえ、見せてくださる?」
彼女は躊躇した。
国の機密書類を見せるより、抵抗があるようだった。
けれど、私の視線から逃れられないと悟ったのか、彼女は震える手で鞄の奥から「それ」を取り出した。
それは、小さな、可愛らしい缶ケースだった。
蓋には、デフォルメされた猫のキャラクターが描かれている。
無骨なスーツと書類の山には似つかわしくない、ファンシーな代物。
「……それは?」
「……非常食、です」
「中身は?」
「……高カカオチョコレートと、……いちごミルク味の、キャンディが少々」
彼女は蚊の鳴くような声で答えた。
耳まで真っ赤になっている。
鉄の女の隠し事。
それは、疲労の限界を誤魔化すための、小さな甘い麻薬だった。
彼女は「完璧な書記官」という鎧の下で、たった一人、この小さな缶ケースを心の支えにして戦ってきたのだ。
「……ふふ」
「……わ、笑わないでください! これは、脳の活性化に必要な糖分補給で……!」
「笑ってなどいないわ。……可愛いなと思っただけ」
私は彼女の手から、そっと缶ケースを受け取った。
「サエさん。……貴女、ずっと我慢していたのね」
「……な、何を」
「男たちが『苦しい』と大声で叫ぶ横で、貴女は声を殺して、この小さな飴玉で自分を慰めていた。……誰にも『辛い』と言えずに」
「……っ」
彼女が唇を噛む。
眼鏡が曇る。それは、彼女の体温が急上昇したせいか、それとも――涙のせいか。
「……私は、泣いてはいけないんです。……女が感情的になれば、すぐに『これだから女は』と見下される。……だから、私は……鉄にならなければ……」
「鉄になんて、ならなくていいわ」
私は缶ケースを開け、中からピンク色のキャンディを一つ取り出した。
包み紙を剥くと、甘酸っぱい香りが漂う。
「はい、あーん」
「え……?」
「命令よ。……私の国では、女の子は、甘やかされる義務があるの」
私は彼女の口元に飴を差し出した。
彼女は困惑し、周囲を見る。上司の大使はまだ泣きながら鮭を食べている。誰も彼女を見ていない。
彼女は観念したように、小さく口を開けた。
コロン。
飴が舌の上に乗る。
人工的な、けれど懐かしいいちごミルクの味が広がる。
その瞬間。
彼女の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あ……」
彼女は慌てて眼鏡を外し、涙を拭おうとする。
けれど、一度決壊したダムはもう止まらない。
「……甘い……です……。……すごく、甘くて……」
彼女はその場にしゃがみ込み、声を殺して泣き始めた。
完璧な書記官の仮面が剥がれ落ち、そこには疲れ切った、ただの迷子の女の子がいた。
「……よしよし」
私はしゃがみ込み、彼女の硬い肩を抱きしめた。
「日本の女の子も、やっぱり甘えん坊だったわね。……大丈夫、もう隠れて飴を舐めなくてもいいわ。……ここでは、堂々とケーキをホールで食べたって、誰も文句は言わないもの」
泣きじゃくるサエさんの背中を撫でながら、私は確信した。
この国(日の本)の闇は深い。
男たちの「ドMな精神論」も厄介だが、それを支える女たちの「隠された我慢」こそが、この国を窒息させている真因なのだ。
「……さて。この子たちをどう料理して差し上げようかしら」
私はマリアに合図を送る。
マリアが心得たように、デザートのワゴンを準備し始めた。
東の国からの使者たち。
彼らの帰国予定日は、無期限延期決定ね。
骨の髄までとろとろになるまで、徹底的に「再教育」して差し上げなくては。




