第33話 鎧の下の過労死寸前
「――日の本国、特命全権大使、クロガネ・ソウジでござる!」
王城の謁見の間。
その空気は、今まで経験したことのない種類の「重苦しさ」で満たされていた。
ガレリア帝国の時のような、熱い鉄と油の匂いではない。
もっと湿っぽくて、カビ臭くて、そして胃が痛くなるような……「栄養ドリンクと胃薬」の匂い。
目の前に整列しているのは、東の果ての島国「日の本」からの使節団だ。
彼らは一様に、墨染めの奇妙な服(スーツに見える着物)を身にまとい、背筋を定規で測ったように伸ばしている。
しかし、その顔色は悪い。
土気色の肌、窪んだ眼窩、そして死んだ魚のように光のない瞳。
「……ようこそ、遥か東方よりの客人よ」
国王陛下が、少し引き気味に声をかける。
無理もない。彼らからは「生気」が感じられないのだ。あるのは、悲壮なまでの「義務感」だけ。
大使と名乗った男、クロガネ・ソウジが、カクカクとした動作で一礼した。
黒髪を短く切り揃え、銀縁の眼鏡をかけた神経質そうな男だ。年齢は三十代半ばだろうか。眉間の皺の深さが、彼の苦労の年輪を物語っている。
「単刀直入に申し上げたい。……貴国は今、『危機』に瀕しておられる!」
ソウジがいきなり声を張り上げた。
謁見室がざわめく。
「危機? 我が国はかつてないほどの好景気だが?」
「それは『バブル』でござる! 虚飾の繁栄でありますぞ!」
ソウジは懐から、分厚い巻物 (グラフ用紙)を取り出し、バサリと広げた。
「見られよ! 貴国の砂糖消費量、休日取得率、そしてエンゲル係数! すべてが異常値を示している! 民は堕落し、勤労の美徳を忘れ、ただ快楽を貪っている! ……これは、国家破綻への直行便でござる!」
彼の目には、狂信的な光が宿っていた。
それは、「苦労こそ美徳」「贅沢は敵」と信じて疑わない者の目だ。
「我が国『日の本』もまた、かつてはエコノミックアニマルと呼ばれ、繁栄を極めた。……だが今は! 不況! 財政難! 人口減少! 三重苦の地獄にある!」
彼は悲劇のヒロインのように拳を握りしめる。
「だからこそ、我々は悟ったのだ。……今こそ『引き締め』が必要だと! 増税! 緊縮財政! 休日返上! 欲しがりません勝つまでは! ……国民全員が歯を食いしばり、耐え難きを耐え、贅肉を削ぎ落とすことこそが、唯一の救済の道であると!」
「……ひえぇ」
ソフィアちゃんがドン引きして、私の背後に隠れる。
レンが「何あれ、自虐趣味?」と眉をひそめる。
ソウジは眼鏡を光らせ、陛下に迫った。
「国王陛下! 貴国も直ちに『甘やかし』をやめ、構造改革を断行すべきでござる! さもなくば、我が国のように……いや、我が国と共に、清貧の道を歩もうではないか!」
要するに、「俺たちが苦しいんだから、お前らも苦しめ (そしてあわよくば支援しろ)」という、極めて迷惑な道連れ勧誘だ。
人は追い詰められると、より一層自分を縛り付け、他者にもその縄をかけようとする。
典型的な「負のスパイラル」思考ね。
「……あらあら」
私は扇を開き、優雅に進み出た。
ソウジの鋭い視線が私に向く。
「貴様が……噂の元凶、『全肯定未亡人』か。……貴様の流す甘い毒が、この国を腐らせていると聞いている」
「ごきげんよう、クロガネ大使。……腐らせているのではありません。熟成させているのですわ」
私は彼の目の前、社会的距離ギリギリまで近づいた。
彼は後ずさりしようとしたが、背後の部下たち手前、動けない。
「……近い。離れられよ」
「クロガネ様。……貴方、いつからお休みになっていません?」
私の問いに、彼はフンと鼻を鳴らした。
「休み? そんなものは軟弱者の言葉だ。拙者はこの三ヶ月、一日二十時間労働で国務に励んでいる。……国家の危機に、寝ている暇などない!」
「まあ。……ご飯は?」
「栄養補給ゼリーと、カフェイン錠剤があれば十分だ。食事の時間すら惜しい」
誇らしげに語る彼。
けれど、私のIQ200の目は誤魔化せない。
彼の指先は小刻みに震えている(低血糖)。
肌は乾燥しきっている(ビタミン不足)。
そして何より、スーツの襟元から覗く首筋には、ストレス性の湿疹ができている。
彼は「頑張っている」のではない。
「頑張っている自分」に酔うことで、思考停止しているだけだ。
現実の辛さから目を背けるために、自らを痛めつけるという「麻薬」を使っている。
「……可哀想に」
私が呟くと、彼のこめかみに青筋が浮いた。
「可哀想……だと? この国の礎とならんとする拙者の気概を、愚弄するか!」
「いいえ。……だって、貴方のその『引き締め』政策。……成果は出ていますの?」
図星。
ソウジが言葉に詰まる。
「そ、それは……まだ道半ばであり……国民の忍耐が足りぬゆえ……」
「違いますわ。……貴方たちが鞭を打ちすぎるから、馬が走れなくなっているのよ」
私はそっと手を伸ばし、彼の胸元――ポケットに入っていた、安っぽいボールペンを引き抜いた。
カチカチと、無意識にノックしていたせいで、芯が出たり入ったりしている。
「国民も、そして貴方自身も。……もう限界でしょう?」
「……だ、黙れ! 貴様に何がわかる! この国の借金がどれほどか……少子化がどれほど深刻か……!」
「わかりますわ。……だって、貴方の胃袋の音が、悲鳴を上げていますもの」
ぐぅ〜〜〜……。
静まり返った謁見の間に、情けないほど大きな腹の虫の音が響き渡った。
ソウジの顔が、瞬時に茹でたカニのように真っ赤になる。
背後のサムライたちも、連鎖反応のようにお腹を鳴らし始めた。
「こ、これは……武士の恥……! 切腹……!」
「切腹なんてさせません」
私はパチンと指を鳴らした。
控えていたマリアが、即座にワゴンを押してくる。
そこに乗っているのは、日の本の人々が泣いて喜ぶであろうメニュー。
炊きたての白米。
黄金色に輝く出汁巻き卵。
脂の乗った焼き鮭。
そして、具沢山の豚汁。
湯気と共に広がる、懐かしい香りが、サムライたちの鼻腔を直撃する。
「……あ……」
「……み、味噌の匂い……」
「……米……白い米だ……」
彼らの「鉄の意志」が、音を立てて崩れていく。
食欲という原始の欲求が、理屈という鎧を内側から溶かし始めた。
「さあ、召し上がれ。……政策論争は、お腹がいっぱいになってからにしましょう?」
「くっ……! このような餌付けには屈せぬ! 我々は清貧を……清貧を旨とし……!」
ソウジは震える手で刀の柄(実際には万年筆だが)を握りしめ、必死に抗おうとしている。
頑固ね。
でも、その頑固さがポキリと折れる瞬間こそ、一番美味しいのよ。
「あら、食べないのですか? ……では、この豚汁は私がいただきますわ。……ああ、熱々で、お味噌のコクが染みていて……」
私がわざとらしく椀を持ち上げ、香りを彼の方へ仰ぐ。
ソウジの喉仏がゴクリと動いた。
限界だ。
「……く、殺せ……! いっそ殺してくれぇ……!」
彼は膝から崩れ落ちた。
空腹と疲労、そして故郷の味への郷愁が、彼の精神防壁を粉砕したのだ。
「殺しはしません。……ただ、堕落していただくだけ」
私は彼の手を取り、箸を持たせた。
「『いただきます』は?」
「……い、いただき……ます……」
涙目で呟く鉄仮面のサムライ。
彼が白米を一口頬張った瞬間、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。
不景気? 財政難?
そんな難しいことは、まずはこの一杯のご飯を食べて、ぐっすり眠ってから考えればいい。
東の果てから来た、一番真面目で、一番不器用な迷子たち。
私の「全肯定」で、骨の髄までふやけさせて差し上げるわ。




