第31話 甘い毒は蜜の味
それから、数年の月日が流れた。
王国の歴史書には、この期間のことが『薔薇のルネサンス』あるいは『大いなる午睡の時代』として記されることになるだろう。
大きな戦争はなく、飢饉もなく、ただ国民の幸福度指数と砂糖の消費量が異常な数値を叩き出した、奇妙で平和な時代として。
ローゼンタール侯爵家の庭園は、今や王国の「楽園」と呼ばれている。
拡張されたサンルームには、今日も心地よい陽だまりと、焼きたてのスコーンの香ばしい匂いが満ちていた。
「……ん、もう。レティ様ったら、またお砂糖を入れすぎですわ」
呆れたような、けれど甘えた声が響く。
成長し、王太子としての公務を完璧にこなすようになったソフィアちゃん――いえ、ソフィア殿下が、書類の束を置いてティーカップを手に取る。
彼女の指にはもう、痛々しいペンダコはない。適切な休憩と、効率的な魔法ペンの導入によって、彼女の手は白く美しいままだ。
「あら、頭を使う乙女には糖分が必要よ。……それに、今日の議題は『国民の祝日増加法案』でしょう? 甘い頭で考えたほうが、きっと素敵な休日になるわ」
私はポットを傾けながら微笑む。
私の隣では、かつての「鉄の女」、王妃ヒルデガルド様が、クッションに埋もれて優雅に編み物をしている。
引退こそしなかったが、彼女は今や「週休四日」を公言する、世界一ホワイトな王妃様だ。
「そうね。……『お昼寝の日』を作るのはどうかしら? 全国民が午後二時から四時まで、強制的にハンモックで寝なければならない法律」
「お母様、それはさすがに経済が止まりますわ」
「あら、止まればいいじゃない。夢の中で会うほうが経済的よ」
ふふふ、と笑い合う母娘。
そこにかつての殺伐とした空気は微塵もない。
「――おやつの時間か? 俺、新作のゼリー持ってきたよ」
空間が歪み、ひょっこりと顔を出したのは、すっかり背が伸びたレンだ。
彼女は今や王立魔術研究所の所長だが、その白衣の下は相変わらずフリルのワンピースだ。
後ろから、聖女エレナが籠いっぱいのフルーツを持って現れる。
「レンさん、また空間転移でサボって……。……でも、レティ様。この桃、孤児院の子供たちが『レティ様に食べてほしい』って」
「まあ、嬉しい。……エレナ、貴女の肌艶も素晴らしいわね。幸せホルモンが溢れているのね」
エレナは頬を染めて微笑む。
彼女が管理する教会は、今や「癒やしとカフェの融合施設」として、別の意味で信者を集めているらしい。
「皆様、おしゃべりも結構ですが、手がおろそかになっておりましてよ」
厳しい声が飛ぶ。
マリアだ。彼女は今や、ローゼンタール家だけでなく、王宮の侍女たちを統括する「裏の権力者」となりつつある。
けれど、私の前ではただの世話焼きなマリアのままだ。
「奥様、今日のお召し物は少し緩すぎませんか? ……リラックスも大事ですが、あまり隙を見せすぎると、またベルナデット様が鼻血を出して倒れますよ」
「呼んだか?」
庭木の剪定(という名の剣技訓練)をしていたベルが、葉っぱを頭に乗せたまま現れる。
彼女は近衛騎士団長に出世したが、相変わらず私の護衛任務を最優先にしている。
「……平和だな」
ベルが汗を拭いながら、満足げに庭を見渡す。
「敵がいないというのは、少々退屈だが……貴女が笑っているなら、それが最高の戦果だ」
◇
私は紅茶を啜り、愛おしい景色を眺めた。
私の「甘い革命」は、成功したと言っていいでしょう。
国は堕落した。
人々は、弱音を吐くことを恐れなくなり、休みを取ることに罪悪感を持たなくなり、互いに甘え合うことを覚えた。
以前のように、歯を食いしばって成長するような鋭さは失われたかもしれない。
けれど、代わりに手に入れたのは、折れないしなやかさと、温かい回復力。
「……レティ?」
ヒルデガルド様が、編み棒を止めて私を見た。
「何を考えているの? ……また、新しい悪戯?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ……幸せだなって、味わっていただけですわ」
私がそう言うと、全員が動きを止めた。
そして、一斉に私に向かって、とろけるような笑顔を向けた。
「当たり前ですわ。……貴女が作った世界ですもの」
「俺たちが、守ってるしね」
「レティ様の幸せが、私たちのエネルギー源ですから」
彼女たちの愛の重力は、年々増している気がする。
私はもう、この「全肯定」の檻から一生出られそうにない。
でも、それはなんて甘くて、心地よい檻なのかしら。
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第1部はこれにて完結です。
1月11日から第2部スタートです。




