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第3話 鉄壁の騎士と薔薇の庭

庭園の空気は、甘く淀んでいる。

手入れされずに伸び放題となった薔薇の枝が、互いに絡み合い、刺の壁を作っていた。けれど、その混沌とした生命力も、私には心地よい。

紅茶の湯気が、午後の微風に揺らめくのを眺めながら、私はカップの縁を指でなぞった。


カシャン、カシャン。


静寂な庭に、似つかわしくない硬質な音が響いてくる。

一定のリズム。金属同士が擦れ合う、重く、冷たい音色。

それは私の平穏を乱す雑音ではなく、新たな「愛すべき不協和音」の到来を告げる音楽だった。


「……ローゼンタール侯爵夫人に、挨拶申し上げます」


薔薇のアーチをくぐり現れたのは、動く城塞だった。

王宮騎士団の制服である白銀の甲冑。隙間なく身を固め、兜こそ被っていないものの、その表情は鉄仮面のように硬い。

赤毛のショートヘアが、風に揺れることもなく整えられている。

彼女は私から五メートル――剣の間合いよりも遠い、心理的な安全圏――で足を止め、直角に敬礼した。


「本日付で警護の任に着任しました、王宮騎士団第三部隊所属、ベルナデットです。この身に代えても、奥様の御身をお守りします」


声には抑揚がない。

まるで、教本を読み上げているかのような完璧な定型文。

けれど、私の目は誤魔化せない。


彼女の喉元、ゴルジェ(喉当て)の隙間から覗く肌が、わずかに汗ばんでいること。

握りしめたガントレットの革が、緊張できしんでいる音。

そして何より、その瞳が私を直視せず、私の背後の空間に焦点を合わせていること。


「まあ。なんて頼もしいのかしら」


私はカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の眉間が、ピクリと動く。


「お近づきになられませんよう。……私は武人です。ドレスを汚す恐れがあります」

「汚れる? 油の匂いのことかしら? それとも、鉄の匂い?」


私は足を止めない。

五メートル。三メートル。一メートル。

彼女が設定した結界を、ヒールの音と共に無邪気に踏み越えていく。


漂ってくるのは、確かに機械油と金属の冷たい匂いだ。

けれどその奥底に、安価な石鹸の香りと、鎮痛剤に使われる薬草の匂いが隠されているのを、私の鼻は逃さなかった。


「ち、近いです。奥様、これ以上は……」

「ベルナデット様と言ったわね。……貴女、痛いの?」

「は?」


彼女の鉄仮面が、初めて間の抜けた反応を見せて崩れた。

その隙に、私は彼女の目の前、吐息がかかる距離まで肉薄する。


「右肩よ。歩くたびに、重心を左に逃がしているわ。それに、ポールドロン(肩当て)の下……古傷が痛むのでしょう? 今日は湿気が多いものね」


私の指摘は、矢のように彼女の図星を射抜いたらしい。

ベルナデットの瞳が大きく見開かれ、動揺で呼吸が乱れる。


「な……なぜ、それを。この傷は、誰にも……報告書にも記載していないはず……」

「隠しているからよ」


私は右手を伸ばし、彼女の銀色の胸甲に触れた。

冷たく、硬い金属の感触。

世界から自分を守るための、そして自分を世界から隔絶するための、頑丈な殻。


「貴女の歩き方は美しいわ。けれど、その美しさは『痛み』を隠すための緊張の上に成り立っている。……重いでしょう、その鎧」


「……騎士として、当然の重さです。これを脱ぐことは許されません」


彼女は頑なに言い張り、一歩後ずさろうとする。

拒絶。

「私に関わるな」「私の弱さを暴くな」という、無言の悲鳴。

普通の令嬢なら、その鋭い拒絶に怯んで手を引くだろう。


けれど、私は元・天才令嬢の全肯定未亡人。

その拒絶すらも、「私に構って」というサインに脳内で翻訳変換される。


「許されない? 誰がそんなことを言ったのかしら」

「き、騎士団の規律です。任務中は常に……」

「ここは戦場ではなく、私の庭よ。そして貴女の守るべき主人は、今、貴女にこう言っているわ」


私は胸甲の上から、彼女の心臓のあたりをトントンと指先で叩いた。

硬い金属音が、不思議と軽やかに響く。


「『そんなにガチガチに固まっていたら、私の自慢の薔薇が怖がって枯れてしまいますわよ』って」


「は……?」


「だから、貴女に必要なのは警戒じゃないわ。……光合成よ」


論理の飛躍。

彼女が思考を追いつかせようと混乱している間に、私は隣のテーブルを指差した。


「座って。マリアが焼いてくれたクッキーがあるの。お砂糖たっぷりで、今の貴女の脳には必要不可欠な栄養素よ」

「い、いえ、任務中に食事など……」

「私の手作りジャムも添えるわ」

「そ、それは……光栄ですが、しかし……」


揺らいだ。

彼女の視線が、私の顔とクッキーの間を往復する。

規律という名の鎖と、甘い誘惑との間で揺れ動く天秤。


私はその天秤に、とどめの一撃ウェイトを乗せる。


「それにね、ベルナデット様。貴女、私に憧れていたのでしょう?」


時間が止まった。

彼女の顔が、熟れたトマトのように瞬時に赤く染まる。


「なっ……!? そ、そそそ、そんな事実は! あ、いや、その、昔、遠くから拝見したことはありますが、それはあくまで貴族としての……!」


「ふふ、当たりね。脈拍が跳ね上がった音が聞こえたわ」


図星をつかれた騎士の反応は、なんとも初々しくて可愛らしい。

彼女は強面で通っているらしいけれど、その内側は砂糖菓子のように甘く、脆い。

かつて私が遠くから手を振っただけで、顔を赤くして俯いた少女騎士。その面影が、冷たい鉄仮面の下にはっきりと残っている。私の眼は、一度見れば、可愛い子の姿を決して忘れない。


「わ、私をからかっておられるのですか……!」

「まさか。……嬉しいのよ」


私は彼女の篭手ガントレットに包まれた手を取り、両手で包み込んだ。

金属越しでも、私の体温は伝わるはずだ。


「貴女のような強くて綺麗な方が、私のことを覚えていてくれたなんて。……ねえ、この堅苦しい鎧を脱いで、もっと近くで私とお話ししてくださらない?」

「っ……!」


彼女は何かを言いかけ、口を噤んだ。

その瞳が潤み、迷いを見せる。

物理的な鎧はまだ脱げない。けれど、心の鎧の留めバックルは、いま確実に一つ外れた。


「……今は、勤務中ですので」

「あら、残念」

「ですが……その……休憩時間になら……」


消え入りそうな声での、精一杯の譲歩。

私は満面の笑みで、彼女を肯定する。


「嬉しい! ええ、待っているわ。とびきり甘いお茶を用意して」


ベルナデットは逃げるように、けれど一度だけ振り返り、ぎこちない敬礼を残して庭の隅へと戻っていった。

その足取りは、先ほどまでの機械的なものとは違い、どこか浮足立っている。右肩の痛みを庇うことも忘れてしまったかのように。


「……可愛らしい方」


私はクッキーを一枚、口に放り込む。

サクサクとした音と、バターの香りが広がる。


堅物な騎士ほど、一度内側に入り込んでしまえば脆い。

彼女の鎧は、外部の攻撃を防ぐためのものではなく、内側の柔らかな心を隠すためのものなのだから。

その中身がとろりと溶け出すまで、そう時間はかからないでしょう。


***


夜。

屋敷は静寂に包まれていた。

マリアの手配によって、寝具も調度品も最高級のものに整えられた私の寝室。

その扉の外に、一つの気配がある。


扉一枚を隔てて、立っている人物。

足音を殺してはいるが、微かな鎧の擦れる音と、独特の整髪料の匂いでわかる。

ベルナデットだ。


彼女は夜番の警備として、私の部屋の前に立っている。

本来なら、廊下の端で待機すればいいものを、わざわざ扉の目の前に。


(ふふ……入りたいのかしら?)


扉の向こうから、葛藤するような重い溜息が聞こえた。

そして、コツ、と。

篭手の指先が、扉に触れる音がした。

ノックではない。ただ、触れただけ。


「……おやすみなさいませ、レティ様」


誰にも聞こえないような、独り言のような囁き。

その声には、昼間の硬さは微塵もなく、甘ったるい親愛の情が滲んでいた。


私はベッドの中で、口元を緩める。

まだ、扉は開けない。

焦らすことで、果実はより甘く熟すから。

彼女が自分から「鎧」を脱ぎ捨てて、この部屋に飛び込んでくるその時まで。


私は枕元の明かりを消し、闇の中で目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、次に攻略すべき「空から落ちてくる予定」の厄介ごとのこと。


私の安眠は、もう少しだけお預けになりそうだわ。


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