第29話 全肯定未亡人は微笑む
バルコニーの石手すりは、夜風に冷やされてひんやりとしていた。
背後の大広間から漏れてくるワルツの調べは、分厚いガラス戸を隔てて、遠い海の底の音楽のように柔らかく響いている。
私は深く息を吸い込んだ。
冷たく澄んだ秋の夜気。そこには、薔薇の残り香と、王都の家々から立ち上る暖炉の煙の匂いが混じっている。
平和の匂いだわ。
「……綺麗な月」
夜空を見上げると、欠けることのない満月が、真珠のような光を地上に注いでいた。
それは誰を責めることもなく、ただそこに在るだけで世界を照らしている。
強烈な太陽のような正義ではなく、闇さえも優しく包み込む、静かな全肯定の光。
(……私のしたことは、正しかったのかしら)
ふと、そんな問いが頭をよぎる。
私の頭脳は、私の行動がもたらした社会的変革を客観的に分析する。
恐怖による統治の崩壊。
宗教的権威の失墜と再生。
軍事力の無力化。
結果として生まれたのは、誰もが弱さをさらけ出し、互いに甘え合う「堕落」した国家。
歴史家が見れば、これは王国の衰退の始まりと記すかもしれない。
けれど。
私は眼下に広がる王都の灯りを見下ろした。
そこには、怯えて暮らす民はいない。
明日のパンを心配する子供も、過労で倒れる聖女もいない。
ただ、温かいスープを囲み、今日あったことを笑い合う、ありふれた「堕落」があるだけ。
「……正解ね」
私は独りごちて、月に向かってグラスを掲げた。
正義なんて、人の数だけあるわ。
でも、「幸せ」の形は、きっと一つ――温かくて、甘くて、柔らかいもの。
それが堕落と呼ばれるなら、私は喜んでこの国を地獄の底まで導いてあげよう。
「「「「――レティ様」」」」
背後から、愛おしい声がした。
振り返るまでもない。その足音のリズムだけで、誰だかわかるもの。
いいえ、「誰」ではないわね。
「……主役が職場放棄ですか?」
私が振り返ると、そこには私の自慢の共犯者たちが勢揃いしていた。
夜空のようなドレスのマリア。
白銀の騎士服のベルナデット。
妖精のようなレンとエレナ。
未来を見据えるソフィアちゃん。
そして、柔らかな微笑みを浮かべる王妃ヒルデガルド様。
「主役がいないパーティーなんて、炭酸の抜けたサイダーみたいなものだよ」
レンが手すりに飛び乗り、ぶらぶらと足を振る。
「貴女が消えるから……一人でどこかへ行ってしまうのではないかと、心配しました」
マリアが眉を下げ、ショールを私の肩にかけてくれる。
その温かさに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「行きませんわ。……こんなに居心地の良い『沼』を作ってしまって、抜け出せるわけがないでしょう?」
私が答えると、皆の顔に安堵の花が咲く。
ベルが剣の柄に手を置き、夜空を見上げた。
「……平和ですね。剣を抜く必要がない夜が、こんなに静かだとは知りませんでした」
「ええ。でも、退屈ではありませんわ」
ソフィアちゃんが扇を開く。
「わたくしたちには、まだやることが山積みですもの。……教育改革に、技術開発、孤児院の運営……。レティ様が蒔いた種を、大樹に育てなければなりませんから」
彼女たちの目は、未来を見ている。
私に依存していただけの雛鳥たちは、いつの間にか、私と同じ方向を見て羽ばたく準備を整えていた。
頼もしくて、そして少しだけ、擽ったい。
「……ねえ、レティ」
ヒルデガルド様が私の隣に並び、手すりに身を預けた。
「貴女は、これからどうするの? ……この国はもう、貴女の色に染まりきってしまったわ。もう『攻略』する相手もいないでしょう?」
彼女の問いに、全員の視線が私に集まる。
才知と人たらしの天才未亡人。
全てを手に入れ、全てを変えてしまった私が、次に何を望むのか。
私は月の光に透かしたグラスを揺らし、悪戯っぽく微笑んだ。
「そうですね……。もっと楽しいことを、したいですわね」
「楽しいこと? ……例えば?」
レンが身を乗り出す。
「例えば……そうね」
私は指先で、夜空に大きな円を描いた。
「世界中を甘やかす旅、なんていかが?」
「「「「は?」」」」
皆が呆気にとられる。
「この国だけじゃ足りないわ。隣の帝国の皇女様も、まだ甘え足りない顔をしていたし。……海の向こうには、もっと強張って、疲れて、泣いている人たちがいるかもしれない」
私の想像(妄想)は膨らむ。
全世界征服。
武力ではなく、ハンドクリームと膝枕と、美味しいお菓子による侵略。
「……相変わらず、スケールがおかしいですわ」
ソフィアちゃんが呆れたように、けれど楽しげに笑う。
「でも、最高だな。……俺の転移魔法なら、世界の果てまでひとっ飛びだよ」
「私の祝福も、もっと多くの人に届けたいです……!」
「護衛なら任せてください。地の果てまでお供します」
「お荷物のパッキングは、私が完璧に行います」
次々と賛同の声が上がる。
ヒルデガルド様が、やれやれと肩をすくめた。
「……陛下が泣くわね。『国母』が家出するなんて言ったら」
「あら、フレデリックも連れて行けばいいじゃない。たまには長期休暇も必要よ」
私の提案に、全員が顔を見合わせ、そして夜空に響くような笑い声を上げた。
高らかな、屈託のない笑い声。
かつては誰もが仮面を被り、孤独を抱えていたこの場所で、今、こんなにも豊かなハーモニーが生まれている。
「……ふふ」
私は胸の奥で、確かな手応えを感じていた。
「堕落」。
それは悪いことではない。
鎧を脱ぎ、武器を置き、ただの人間に戻ること。
互いの体温を感じ、弱さを許し合い、共に生きていくこと。
私が起こした革命は、王の首を刎ねるものではなく、王にパジャマを着せるものだった。
そしてその革命は、決して終わらない。
人が寂しさを感じる限り、私の「全肯定」の出番はなくならないのだから。
「さあ、皆様。体が冷えてしまいますわ」
私はグラスを飲み干し、振り返った。
バルコニーの扉の向こう、光の洪水が待っている。
「踊りましょう。……夜明けまで、誰一人として帰しませんことよ?」
「望むところだわ、全肯定未亡人」
ヒルデガルド様が私の手を取る。
その手は温かく、もう二度と離れないという強い意志が込められていた。
私は月に向かって、最後にもう一度だけウィンクを投げた。
見ていてちょうだい、お月様。
私たちの甘くて騒がしい日常は、これからが本番よ。
「行きましょう!」
私はドレスの裾を翻し、光の中へと駆け出した。
私の大切な、愛すべき共犯者たちを引き連れて。




