第26話 誰がための幸福か
「引退宣言」から一夜明けたローゼンタール侯爵家のテラスは、奇妙な静寂と、張り詰めた緊張感に包まれていた。
私はデッキチェアに身を預け、パラソルの下で優雅にアイスティーを啜っている。
傍らには、何も書かれていない真っ白なスケジュール帳。
「……実験、開始ね」
私はサングラス越しに、庭園を行き交う「娘たち」の姿を追った。
私の提案――『三日間、私への相談・報告・甘えを一切禁止し、自分たちだけで国と家を回してみること』。
通称、「レティ抜き耐久テスト」。
これが成功すれば、私は晴れて南の島へ隠居できる……という名目だ。
「……見ていなさい、レティ。私たちがどれだけ成長したか、証明してみせるわ」
王妃ヒルデガルド様が、背筋を伸ばして執務に向かう。
その横には、大量の資料を抱えたソフィアちゃん。
二人の背中には、以前のような「孤独な悲壮感」はない。あるのは、頼もしい共闘関係としての信頼だ。
「行くわよ、ソフィア。今日の議題は?」
「教会領の農地改革と、魔術師団の予算配分ですわ。……レティ様なら、『みんながお腹いっぱいになれば平和よ』と仰るはず。その指針を具体化します」
「ええ。……あの子が安心して昼寝できる国を作るのが、今の私の仕事だもの」
二人は颯爽と馬車に乗り込み、王城へと出勤していった。
完璧だわ。
王妃様のカリスマ性と、ソフィアちゃんの事務処理能力。この二人が組めば、私の出る幕なんてない。
◇
視線を庭の隅へ移す。
そこでは、レンとエレナが、なにやら熱心に議論している。
「……治癒魔法の効率化。レンさんの魔力回路を使えば、遠隔地への『癒やし』の転送が可能かもしれません」
「んー、理論上はいけるけど。……それやると、エレナの負担が減る代わりに、ありがたみも減るんじゃない?」
「いいえ。レティ様は言いました。『奇跡は安売りしてこそ、日常になる』と。……誰もが気軽に絆創膏のように魔法を使える世界こそが、あの方の望みです」
「……そっか。じゃあ、俺が転送ゲート作るよ。……レティが見てなくても、サボらずやるから」
レンが指先で複雑な魔法陣を描く。エレナがそれに聖なる光を注ぐ。
かつて「実験体」と「道具」として使い潰されていた二人が、今は自分たちの意志で、未来のための技術を開発している。
そこに悲壮な自己犠牲はない。ただ、純粋な探究心と優しさがあるだけ。
「……立派になったわね」
私はグラスの水滴を指で拭った。
冷たくて、少し寂しい。
親鳥が巣立つ雛を見送る気持ちとは、こういうものかしら。
◇
屋敷の中からは、規則正しい足音と、きびきびとした指示の声が聞こえてくる。
マリアとベルナデットだ。
「廊下のワックスがけ、完了しました。……ベルナデット様、そこ! 剣の鞘で壁を擦らないでください」
「む。失敬。……しかしマリア、今日の献立は少し野菜が多すぎないか? レティ様は甘いものを所望されるはずだ」
「健康診断の結果、糖質制限が必要です。……奥様が長く健康でいられるよう管理するのが、私の愛です」
「……ふん。ならば私は、散歩コースの石ころ一つ残らず排除して、転ばないようにしてやる」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑い合った。
かつては火花を散らしていたライバル関係が、今は「レティを守る」という一点で強固な同盟を結んでいる。
(……完璧じゃない)
私はストローを噛んだ。
私の頭脳が、シミュレーション結果を弾き出す。
『レティ不要論』の証明完了。
彼女たちはもう、私がいなくても機能する。
国は回り、民は救われ、平和は維持される。
私の「全肯定」は、彼女たちの自己肯定感を育てるための土壌だった。
花が咲き、実を結んだ今、土壌は役目を終えて、静かに風化していくべきなのかもしれない。
「……寂しい、なんて。贅沢な悩みね」
私は空になったグラスを置いた。
カラン、と氷が鳴る音が、胸の奥の空洞に響く。
◇
三日目の夕暮れ。
実験終了の刻限。
テラスに全員が集合した。
皆、やりきった顔をしている。疲労はあるが、目は輝いている。
「……ただいま戻りました、レティ」
ヒルデガルド様が代表して報告する。
「この三日間。……国政、家事、警備、すべて滞りなく遂行しました。トラブル件数ゼロ。……貴女の手を煩わせることなく」
「……素晴らしいわ」
私は立ち上がり、心からの拍手を送った。
「合格よ。……貴女たちはもう、私の助けなんて必要ない。立派な自立した女性たちだわ」
私はサングラスを外し、にっこりと微笑んだ。
これでお別れ(隠居)の口実ができた。
「じゃあ、私は安心して南の島へ……」
「――待ってください」
ベルが低い声で遮った。
彼女が一歩前に出る。その後ろで、全員が同じ強烈な光を目に宿して頷く。
「何か勘違いしていませんか、レティ様」
「勘違い?」
「貴女は、『自分がいなくても機能するから、自分は不要だ』と考えているのでしょう?」
図星だ。
ベルは私の思考を見透かしたように、真っ直ぐに私を見据えた。
「それは大きな間違いです」
「……どうして? 現に貴女たちは完璧だったわ」
「機能の問題ではありません」
マリアが口を開く。彼女は私の手を取り、自分の頬に寄せた。
「私たちが頑張れるのは、夕方に貴女が『お帰り』と笑ってくださるからです。……貴女がいなくなったら、私はただの『優秀な機械』に戻ってしまいます」
「そうだよ」
レンが私の腰に抱きつく。
「俺が魔法を作るのは、レティに『すごい』って頭撫でてほしいからだもん。……レティがいない世界なんて、色がない塗り絵みたいなもんだよ」
「依存ではありませんわ」
ソフィアちゃんが扇を閉じる。
「これは『共生』です。……貴女がいるから、わたくしたちは強くなれる。わたくしたちが強くなることで、貴女はもっと甘やかせる。……そういう永久機関なんですの」
「……永久機関」
「はい。……誰がための幸福か、と問われれば」
エレナが祈るように手を組む。
「私たちは、貴女のために幸せになるんです。……貴女が悲しまないように、貴女が笑顔でいられるように、私たちは世界を平和にするんです」
全員の視線が、私に集中する。
そこにあるのは、依存でも強制でもない。
自立した個人が、自らの意志で選んだ「推し(私)への献身」。
「……もう、私は不要かしら、なんて思っていたのだけれど」
「まさか」
ヒルデガルド様が呆れたように笑い、私の肩を抱いた。
「貴女は私たちの『心臓』だと言ったでしょう? ……心臓がなくなったら、体は動かないのよ」
「……うまいこと言ったつもり?」
「事実よ。……だから、引退なんて許さない。死ぬまで……いいえ、死んでも私たちの中心で輝いていなさい」
彼女たちの愛の重力。
それはブラックホールのように、私を逃がさない。
けれど、その暗闇は温かく、心地よい。
「……降参ね」
私は両手を上げた。
「わかったわ。南の島はキャンセルします。……その代わり、これからもたっぷりと甘やかしてくださる?」
「「「「喜んで!!」」」」
歓声が上がり、私はもみくちゃにされた。
幸せな窒息。
私が蒔いた種は、私を閉じ込める美しい森に育ってしまったようだ。
その時。
テラスの入り口に、国王陛下が現れた。
その後ろには、恭しく巻物を持った侍従たち。
「……邪魔をするようで悪いが、レティーティア殿」
陛下が咳払いをする。
その表情は、真剣そのものだ。
「三日間の『実験』の結果、余と宰相会は一つの結論に達した」
「結論、ですか?」
「うむ。……現在の王国の繁栄と安定は、すべて君の『全肯定』という理念に基づいている。……よって、君を正式に国の重要ポストに迎えたい」
陛下が巻物を広げる。
そこには、王家の印章と共に、驚くべき肩書きが記されていた。
「『王宮筆頭肯定官』兼『影の宰相』……あるいは、『第二の国母』として」
「……はい?」
私の目が点になる。
国母? 影の宰相?
隠居どころか、国のトップに据えられようとしている?
「給与は国家予算の自由裁量権。勤務地は君のベッドの上でも構わん。……どうだ、受けてくれるか?」
陛下が真顔で提案する。
周囲のヒロインたちが、「それなら安心だ!」「法的にも縛り付けられる!」と色めき立つ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私はただの未亡人で……!」
「未亡人だからこそ、自由な立場で国を愛せるのだろう? ……頼む、レティ。君がいないと、妻(王妃)がまた鉄仮面に戻ってしまう」
陛下の切実な懇願。
外堀どころか、内堀まで埋められてしまった。
私は空を見上げた。
秋の空は高く、どこまでも青い。
どうやら私の「甘い革命」は、私の予想を遥かに超えて、この国を根本から作り変えてしまったらしい。
「……やれやれ。これは、一生働き詰め、もとい甘やかし甘やかされ詰めになりそうね」
私は苦笑し、差し出されたペンの代わりに、マリアが持ってきたクッキーを手に取った。
契約書へのサインは保留。
まずは、この甘いクッキーを味わってから考えることにしましょう。
幸福とは、誰かのためにあるのではない。
互いに甘やかし、甘やかされる円環の中で、とろとろに溶け合っていくものなのだから。




