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第25話 太陽の休息

意識が泥の底から浮上するとき、最初に感じたのは「重さ」だった。

まぶたが鉛のように重い。

指先一つ動かすのに、地球の重力が数倍になったかのような抵抗を感じる。

そして、熱。

体の芯で小さな暖炉が燃えているような、気だるい熱気が全身を支配している。


(……あら。私としたことが、寝坊かしら)


私の頭脳は、起動プロセスに失敗した古い魔導具のように、ノイズ混じりの思考を弾き出す。

私はうっすらと目を開けた。

視界がぼやけている。

見慣れた自室の天井……のはずが、そこには幾つもの影が覆いかぶさっていた。


「――気がついた!?」

「レティ様!」

「奥様!」


悲鳴のような歓声。

視界のピントが合うにつれ、その影の正体が判明する。

マリア、ベルナデット、レン、エレナ、ソフィアちゃん。

そして、枕元で濡れタオルを握りしめているのは、王妃ヒルデガルド様だ。


彼女たちの顔色は、一様に蒼白で、目の下にはクマがあり、髪は乱れている。

まるで、この世の終わりを目撃したかのような形相だ。


「……皆様、どうしたの? そんなに怖い顔をして」


声を出すと、喉が張り付いていて、ガラガラと枯れた音がした。

マリアが弾かれたように動き、吸い飲みに入った水を口元に差し出す。


「お飲みください。……丸三日、眠っておられたのですよ」

「……三日?」

「発熱はエレナ様の治癒魔法ですぐ治りましたが、お疲れが酷くて」


水を一口飲む。冷たさが喉を通り、少しだけ意識がクリアになる。

三日も寝込んでいた?

この私が?

他人の体調管理マネジメントには完璧な私が、自分のメンテナンスに失敗してシステムダウンしたというの?


「……恥ずかしいわ。不覚ね」


私が身を起こそうとすると、六人の手が同時に伸びてきて、私をベッドに押し戻した。


「ダメよ! 寝ていなさい!」


ヒルデガルド様が叫ぶ。

彼女の手は震えていて、握りしめたタオルから水滴がポタポタと私の頬に落ちている。

絞り方が甘い。家事スキルゼロの王妃様らしい、不器用な看病。


「でも、仕事が……。教会の引継ぎに、帝国との通商条約の批准書……それに、マリアのシフト表も作らなきゃ……」

「仕事なら、全部終わらせました!」


ソフィアちゃんが叫ぶ。


「わたくしと母様で書類を片付けましたわ! 帝国との交渉はベルナデットが睨みを利かせてまとめましたし、教会の子供たちはエレナとレンが手懐けました! マリアは屋敷を完璧に回しています!」


「だから、レティ様が心配することは、塵一つありません!」


ベルが私の布団を首まで引き上げる。

彼女の指先は、剣を握るときよりも慎重で、優しかった。


「……みんなで、やったの?」

「当たり前だろ」


レンがベッドの端に腰掛け、拗ねたように言う。


「レティが倒れたら、俺たちどうしていいかわからないし。……ご飯も美味しくないし、空気が冷たいし。……世界が灰色になったみたいだった」

「大袈裟ね」


私が笑おうとすると、頬の筋肉が引きつった。

うまく笑えない。


「大袈裟ではありません」


マリアが真剣な眼差しで、私の額のタオルを交換する。


「奥様。貴女はご自分を過小評価されています。……貴女がいなくなった瞬間、この屋敷だけでなく、王城も、街も、すべてが機能を停止しました。貴女は、皆の心臓ポンプなのです」


「心臓……」

「ええ。貴女が止まれば、世界も終わる。……それは比喩ではなく、事実として証明されました」


マリアの言葉に、全員が深く頷く。

どうやら私が眠っている間、相当なパニック(という名の愛の暴走)があったらしい。


「……ごめんなさい」


私は小さく謝った。


「迷惑をかけたわね」

「迷惑?」


ヒルデガルド様が眉を吊り上げる。


「ふざけないで。……貴女は私たちが溺れかけた時、泥だらけになって助けてくれたじゃない。……私たちが貴女を助けるのが『迷惑』だなんて、二度と言わせないわ」


彼女は不器用に絞ったタオルを、私の額に乗せた。

冷たくて、少し水っぽいけれど、そこには彼女なりの必死な「愛情」が詰まっている。


「たまには……世話をさせなさいよ。私たちだって、貴女を甘やかしたいのよ」


王妃様の言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。

熱のせいではない。

いつも「与える側」だった私が、初めて「受け取る側」に回った感覚。

それはくすぐったくて、申し訳なくて、そして……どうしようもなく心地よい。


「……お腹、空きませんか?」


エレナが控えめに尋ねる。

言われてみれば、胃袋が空っぽで収縮しているのを感じる。


「……少しだけ」

「用意してあります。……みんなで作ったんです」


エレナがワゴンから運んできたのは、湯気の立つお粥だった。

見た目は……正直、美しくない。

お米の形は崩れすぎているし、具材の切り方は不揃いだし、卵の火の通り加減もまばらだ。

マリア一人なら完璧なものを作るはずだから、これは間違いなく「全員で手を出して収拾がつかなくなった」結果でしょう。


「……毒見はしたのかしら?」

「し、失礼な! 味は保証します!」


ソフィアちゃんが顔を赤くして抗議する。

ヒルデガルド様がスプーンを手に取った。


「はい、あーん」

「え……」

「私が食べさせてあげる。……貴女、いつも私にそうしたでしょう?」


王妃様からの「あーん」。

これは王国の歴史上、最高の栄誉(あるいは不敬)かもしれない。

私は大人しく口を開けた。


一口。

とろりとしたお粥が広がる。

味は……少し塩辛くて、でも卵の甘みがあって、生姜が効いていて。

不格好で、混沌としていて。

けれど、私が今まで食べたどんな高級料理よりも、深く体に染み渡る味だった。


「……どう?」


皆が固唾を呑んで見守っている。

私はゆっくりと飲み込み、ふわりと微笑んだ。


「……美味しいわ」


嘘ではない。

元天才令嬢の味覚分析が「塩分濃度過多」と警告を出していても、レティ(いまのわたし)の心は「幸福度限界突破」を叫んでいる。


「世界一、優しい味がするわ」


その言葉を聞いて、全員の表情が一気に緩んだ。

ソフィアちゃんが安堵のあまり泣き出し、レンが「よかったぁ」とへたり込み、ベルが天井を仰いで涙を堪えている。

マリアは静かに目元を拭い、ヒルデガルド様は「当然よ」と言いながら、震える手で二口目を運んでくる。


(……ああ、そうか)


私は熱に浮かぶ頭で理解する。

私が「全肯定」してきた彼女たちは、もう私が守らなければならない雛鳥ではない。

私を支え、温め、守ってくれるだけの強さを持った、立派な翼を持っていたのだ。


「……レティ様」


枕元で、マリアが私の手を握った。


「貴女はずっと、太陽のように私たちを照らしてくださいました。……でも、太陽にも夜が必要です」

「……夜?」

「はい。沈んで、休んで、誰かに守られる時間です」


マリアの手は、私がハンドクリームでケアしたおかげで、以前よりずっと滑らかになっていた。

その手が、今の私には何よりの命綱に感じる。


「……そうね」


私はお粥を飲み込み、瞼を閉じた。

体の重さが、不快なものではなく、温かい毛布に包まれているような安心感に変わっていく。


「……少し、甘えさせてもらおうかしら」

「ええ。存分に」

「一生分、返させてやるからな」

「覚悟してくださいまし」


口々に囁かれる愛の言葉。

私はその音色を子守唄にして、再び深い眠りへと落ちていった。

今度の眠りは、高熱による気絶ではない。

愛する人たちに守られた、幸福な「太陽の休息」だった。


***


数日後。

私の体力はすっかり戻り、医師(宮廷医を王妃様が拉致してきた)からも全快のお墨付きが出た。

けれど、ベッド周りの過保護体制は解除されるどころか、強化される一方だ。


「レティ、歩くのは禁止よ。移動はベルにおんぶしてもらいなさい」

「書類仕事は一日一時間まで。残りは俺が魔法で燃やす」

「おやつは三食しっかり食べてください。栄養価計算済みのスペシャルメニューです」


私はベッドの上で、ふかふかのクッションに埋もれながら、テキパキと働く彼女たちを眺めていた。

窓の外は秋晴れ。

平和で、豊かで、そして少しだけ……退屈。


(……みんな、立派になったわね)


ソフィアちゃんが大臣たちに指示を出し、ヒルデガルド様が笑顔でそれを承認する。

レンとエレナが教会の改革案を練り、ベルが警備計画を見直している。

マリアが屋敷の隅々まで目を光らせている。


私がいなくても、世界は回る。

いいえ、私が蒔いた種が芽吹き、花を咲かせ、自律的に森を作ろうとしている。


「……ふふ」


私は読みかけの本を閉じた。

これなら、もう大丈夫かもしれない。

ふと、ある考えが頭をよぎる。


「……ねえ、皆様」


私が声をかけると、全員が一斉にこちらを向く。

その反応速度の速さも、愛おしい。


「私、決めましたわ」


「何をですか? 新しいお菓子?」

「旅行の計画?」


みんながワクワクした顔で待っている。

私はニッコリと微笑み、爆弾を投下した。


「私、引退しようと思いますの」


「…………はい?」


空気が凍る。

鳥のさえずりさえ止まったかのような静寂。


「い、引退……とは……?」


ヒルデガルド様の声が裏返る。


「言葉通りよ。……侯爵家の当主も、王国の御意見番も、革命の旗手も。全部おしまい」


私は窓の外、遠く広がる空を指差した。


「私、これからはただの『可愛い女の子』として、隠居生活を楽しもうと思うの。……南の島でのんびり暮らすのも素敵じゃない?」


私の全肯定わがまま爆弾。

それがもたらす波紋は、戦争よりも大きな衝撃となって、彼女たちを襲うことになった。


「「「「認めません!!!!」」」」


絶叫が重なる。

どうやら、私の休息は終わりを告げ、新たな「引き留め工作(愛の監禁)」が始まる予感がするわね。



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