第2話 筆頭メイドは忠誠に溺れる
翌朝、私の目覚めと共に漂ってきたのは、焦げたトーストの匂いではなく、インクと古紙の乾いた匂いだった。
ベッドサイドに積み上げられた帳簿の山。それは昨夜、マリアが「ご覧になる必要はございません」と青ざめた顔で隠そうとした、ローゼンタール家の財政状況そのものだ。
私はシルクのシーツから身を起こし、一番上の革表紙を手に取る。
パラパラとページをめくる音だけが、静謐な朝の空気を震わせる。
「……なるほどね」
数字は嘘をつかない。けれど、数字は時に叫び声を上げる。
赤字の羅列。不自然な支出の削減。特に食費と人件費の項目が、限界を超えて圧縮されている。
私の知性が、この数字の羅列から一つの事実を導き出すのに、三秒もかからなかった。
マリアは、自分の給金を返上し、睡眠時間を削って、私を迎えるための支度金を捻出していたのだ。
帳簿の数字が、彼女の擦り切れた血管のように見えてくる。
「おはようございます、奥様」
タイミングを計ったように、ノックの音と共にマリアが入室してくる。
銀の盆には湯気の立つ紅茶。完璧な所作だ。
けれど、私の目は誤魔化せない。
ファンデーションで厚く塗り隠した目の下のクマ。
盆を持つ指先の、微細な震え。
そして何より、彼女がまとっている空気が「ガラス細工」のように張り詰めている。ほんの少し指で突けば、粉々に砕け散ってしまいそうな脆さ。
「おはよう、マリア。……今日は少し、紅茶の香りが薄いかしら?」
「申し訳ございません! すぐに淹れ直して……ッ!」
私の些細な指摘に過剰反応し、彼女は踵を返そうとして――足をもつれさせた。
ガシャン、と耳障りな音が響く。
銀の盆が床に落ち、熱い紅茶が飛び散る。
「あ、あぁ……申し訳、ありません、私としたことが、床を汚して……!」
マリアは顔面蒼白になり、熱湯で濡れた絨毯に膝をついて素手で拭き取ろうとする。
その指が火傷で赤くなることなど、気にも留めていない様子で。
典型的なパニック状態。自己処罰感情の暴走。
「マリア」
「すぐに、すぐに片付けます、お許しください、私はなんて無能な……」
「マリア、やめなさい」
私はベッドから滑り降りると、彼女の背後からその手首を掴んだ。
熱い。
紅茶の熱さではない。彼女自身の体温が、異常なほど高い。
「……熱があるわね。三十八度後半といったところかしら」
「いえ、平気です、これくらい……働けます、働かせてください」
「ダメよ」
私は短く、しかし重く宣告する。
彼女がビクリと体を震わせ、懇願するように私を見上げた。
「奥様、お願いです。私が動かなければ、誰が屋敷を回すのですか。使用人は足りず、予算もなく……私が、私がやらなければ、ローゼンタール家は……」
彼女の瞳から、ポロリと涙がこぼれた。
それは恐怖の涙だ。
自分が足を止めた瞬間、すべてが崩壊するという強迫観念。彼女はこの数年間、たった一人で「沈みゆく船」の帆を支え続けてきたのだ。その糸が切れることを、死ぬよりも恐れている。
「ねえ、マリア。貴女は計算が得意?」
「は、はい……?」
「私は得意よ。だから教えてあげる」
私は彼女の濡れた手を引き、無理やり私のベッドへと座らせた。
シーツが濡れることも厭わず、彼女の肩を押し、強制的に横たわらせる。
「私の計算ではね、貴女がこのまま倒れて一週間寝込むのと、今ここで一日完全に休むのとでは、後者の方が二百倍も効率がいいの」
「ですが……」
「それに、貴女が辛そうにしていると、私の紅茶が不味くなるわ。これは私の利益のための命令よ」
「私の利益」。
その言葉を聞いた瞬間、マリアの抵抗が少し弱まった。
自己犠牲を美徳とする彼女にとって、「自分のため」に休むことは罪だが、「主人のため」ならばそれは「業務」になる。
ちょろい……いいえ、愛すべき誠実な人。
私は彼女の腰元に吊るされた、重そうな鍵束に手を伸ばした。
屋敷中の扉、倉庫、金庫の鍵。彼女が四六時中守り続けてきた、責任の物理的重量。
「これ、貸りるわね」
「あっ、それは……! それだけは……」
マリアが反射的に鍵束を握りしめる。
指の関節が白くなるほどに。それを渡せば、自分の存在意義がなくなるとでも思っているようだ。
「マリア」
私は彼女の頭を、自分の膝の上に乗せた。
いわゆる、膝枕の体勢。
「へ……お、奥様!?」
「いい匂いでしょう? 昨日、貴女に塗った薔薇のクリームよ」
彼女の視界を、私の姿と香りで埋め尽くす。
視覚、嗅覚、触覚。すべてを私でハッキングする。
混乱する彼女の額に、私はひんやりとした掌を当てた。
「貴女の命は、この鍵束なんかじゃないわ。……ここにある、温かい心臓と、私のことを想ってくれる優しさよ」
「う……ぅ……」
「鍵は預かるわ。その代わり、貴女にはもっと素敵なものをあげる」
私は彼女の凝り固まった指を、一本ずつ優しく撫でて、強張りを解いていく。
頑なだった指が、花が咲くように力を失い、チャリ……と音を立てて鍵束がシーツの上に滑り落ちた。
武装解除。
「いい子ね」
私は勝利の笑みを浮かべ、彼女の髪を梳いた。
硬いひっつめ髪を解くと、黒い髪が波のように枕に広がる。
今の彼女は、ただの熱に浮かされた少女だ。
「……何も、考えなくていいの。今日の献立も、予算のことも、雨漏りのことも。全部私がどうにかしてあげる」
「でも……どうやって……」
「私を誰だと思っているの? ……元・天才令嬢レティ様よ。今は未亡人だけどね」
悪戯っぽくウインクしてみせると、マリアの瞳が揺れ、やがてとろんと焦点が滲んだ。
限界だったのだ。
私の体温と匂い、そして「責任からの解放」という甘い猛毒に当てられて、彼女の意識は急速に泥のような微睡みへと沈んでいく。
「奥様……私、は……」
「おやすみなさい、私の可愛いマリア。……夢の中でも、私に仕えてくれる?」
「……はい、……ずっ、と……」
最後の抵抗が消え、規則正しい寝息だけが残った。
彼女は私の太腿に顔を埋め、赤子のとき以来であろう、深い安息の中にいる。
私は落ちた鍵束を拾い上げ、サイドテーブルの帳簿の隣に置いた。
さて。
彼女を寝かしつけたところで、現実的な問題を片付けなければならない。
私は再び帳簿を手に取った。
マリアは真面目すぎた。
「支出を減らす」ことだけに注力し、「資産を運用する」視点が抜け落ちている。
屋敷の倉庫に眠る骨董品リスト。領地の森に自生する珍しい薬草の分布図。そして、王都の貴族たちが今、何を欲しているかというトレンド情報。
これらを組み合わせれば、資金を生み出すことなど造作もない。
例えば、この倉庫に眠る「前々代当主のコレクションである古びた甲冑」は、最近即位した軍事マニアの隣国王子に売りつければ、相場の三倍で売れるだろう。
領地の「雑草」として処理されていた青い花は、美容液の原料として王妃派の貴婦人たちが血眼で探しているものだ。
あるべきものをあるべき場所へ。ただし他の者に先んじて。
これだけで富など簡単に手に入る。
必要なのは、知識と情報。それらをもたらしてくれる人とのつながり。
「……ふふ。宝の山じゃない」
私はペンを取り、次々と指示を書き込んでいく。
マリアが目覚める頃には、この屋敷の赤字は解消され、彼女には最高級の休暇と、新しいドレスをプレゼントできるだろう。
忠誠心だけで人は動くけれど、忠誠心だけでは人は摩耗する。
必要なのは、適度な飴と、絶対的な依存先。
「重いわね……」
膝の上のマリアの頭を撫でる。
物理的な重さではない。彼女が私に向けてくれた、湿度の高い信頼の重さだ。
けれど、悪くない。
窓の外、雨上がりの空に薄日が差し込んできた。
その光の中で、屋敷の門が開くのが見えた。
武骨な馬車。
降り立ったのは、銀色の甲冑に身を包んだ、一人の騎士。
まるで歩く城壁のような堅苦しさ。
「……あら」
次の「お客様」がいらしたようだ。
マリアという内政の要を落とした次は、外敵から身を守るための盾が必要だものね。
私は眠るマリアの頬をつつき、低く囁いた。
「ゆっくりお休み。……起きたら、忙しくなるわよ?」




