第11話 凡庸という名の非凡
ローゼンタール侯爵家のサンルームは、昼下がりの柔らかな陽光と、少しだけギスギスした空気で満たされていた。
「だから! 基本術式第3項の魔力変換効率を無視して、どうしてそんな出力が出せるんですの!? 論理的に破綻していますわ!」
テーブルをバンと叩く音。
ソフィアちゃん(第二王女殿下)が、分厚い魔導書を広げて声を荒らげている。
その指先には、青いインクの染みがいくつも付着していた。ここ数時間、彼女はレンの魔法を「解明」しようと、必死にペンを走らせていたのだ。
対するレンは、口の端にクリームをつけたまま、不思議そうに首を傾げている。
「えー……? だって、ギュッとしてドーンってやれば出るし。効率とか計算する前に、イメージで繋げちゃえばいいじゃん」
「それがおかしいと言っているんですの! 『ギュッとしてドーン』なんて、学会で発表できますか!? 再現性がゼロですわ!」
感覚派の天才と、理論派の凡人(と本人は思っている)。
二人の会話は平行線だ。
ソフィアちゃんの眉間には、深い皺が刻まれている。それは怒りというより、目の前にある「理不尽な才能」への絶望に近い。
私は紅茶のカップを揺らしながら、その光景を愛でていた。
マリアが絶妙なタイミングでお代わりを注いでくれる。
「奥様。そろそろお止めになったほうがよろしいのでは? 殿下のストレス値が限界に見えますが」
「そうかしら? 私には、とても有意義な『共同研究』に見えるけれど」
私はカップを置き、立ち上がった。
ソフィアちゃんの肩が、小刻みに震え始めている。
「……もう、いいですわ」
彼女がぽつりと呟き、魔導書をバタンと閉じた。
その勢いで、インク壺がカタと揺れる。
「わたくしには、理解できません。……どんなに本を読んでも、徹夜で計算しても、貴女の一瞬のひらめきには勝てない。……やっぱり、わたくしは……」
言葉の最後が、嗚咽に飲み込まれる。
彼女は顔を覆い、席を立とうとした。
逃げようとしている。自身の「無力さ」という事実から。
「待って、ソフィアちゃん」
私が声をかけると、彼女はビクリと足を止めたが、振り返らない。
「引き留めないで。……これ以上、わたくしの惨めな姿を笑わないでくださいまし」
「笑ってなどいないわ。……感心しているのよ」
私は彼女の背後に回り、その小さな手をそっと取った。
彼女が抵抗しようとして、力が抜ける。
「見て、レン。このノート」
私はソフィアちゃんが書き散らしたメモを拾い上げ、レンに見せた。
そこには、レンが「なんとなく」で行使した魔法のプロセスが、びっしりと数式と言語で記述されていた。
「……すげぇ。俺の魔法、こんな複雑な式になってたのか?」
「ええ。レン、貴女は感覚で空を飛べるけれど、その飛び方を他人に教えることはできないわね?」
「うん。『飛べばいいじゃん』としか言えない」
私はソフィアちゃんの手を、レンの目の前にかざした。
「でも、ソフィアちゃんは違うわ。彼女は、貴女が『飛んだ』軌跡を、誰もが登れる『階段』として設計図に落とし込むことができる」
「……え?」
ソフィアちゃんが顔を上げ、涙に濡れた目で私を見る。
「それが、何だと言うんですの……。結局、わたくし自身は飛べないままですわ」
「飛べる人が一人いても、世界は変わらない。でも、飛び方を教えられる人がいれば、世界中の人が空を目指せるわ」
私は彼女の中指にある、硬いペンダコを親指で撫でた。
ザラザラとした感触。
それは彼女が、才能の壁に爪を立て、必死にしがみついてきた証拠。
「レンは『孤高の天才』よ。誰も追いつけない、一人ぼっちの星。……でも貴女は、その星と地上の私たちを繋ぐ『翻訳者』になれる。そうして私たちの社会を変えられるの」
「翻訳、者……」
「ええ。それは、レンには絶対にできないこと。……凡庸であることを嘆く必要はないわ。貴女のその『わからなさ』こそが、貴女の最大の武器なのだから」
わからないからこそ、わかるまで噛み砕ける。
できないからこそ、できるまでの過程を言語化できる。
それは、国民を導く王族にとって、突出した魔力よりも遥かに得難い資質だ。
「……わたくしが、武器……?」
「そうよ。……ねえ、レン。貴女の魔法、ソフィアちゃんがいれば、もっと遠くへ届くと思わない?」
話を振られたレンが、目を輝かせて頷いた。
「思う! 俺、細かい制御とか苦手だし、説明するの面倒くさいし……。ソフィアが代わりに説明書書いてくれるなら、俺、もっと凄い魔法作れるかも!」
「……っ、都合のいいことを!」
ソフィアちゃんが顔を赤くして叫ぶ。けれど、その表情にもう悲壮感はない。
あるのは、自分の居場所を見つけた安堵と、くすぐったいような照れ。
「わたくしを助手扱いするなんて、百年早いですわ! ……でも、まあ、貴女のデタラメな魔法を理論化できるのは、この国でわたくししかいないのも事実ですけれど!」
ふふ、立ち直りが早くて助かるわ。若いっていいわね。
私は彼女のインクで汚れた指先に、もう一度キスを落とした。
「素敵な手。……知識と努力の香りがするわ」
「……もう、からかわないでくださいまし」
彼女は手を引っ込めたが、その顔は嬉しそうに緩んでいる。
自己否定の呪縛が解け、自己肯定の芽が息吹き始めた瞬間だ。
「さて、研究の続きをしましょうか。……マリア、脳の糖分補給が必要ね。とびきり甘いチョコレートケーキをお願い」
「かしこまりました」
その後の時間は、幸福な喧騒に包まれた。
レンが魔法を放ち、ソフィアちゃんが文句を言いながらそれを解析し、私が「すごいわ」「天才ね」と二人を交互に褒めちぎる。
永久機関のような、肯定のサイクル。
夕暮れ時。
王城からの迎えの馬車が到着し、ソフィアちゃんは名残惜しそうに席を立った。
その腕には、書きかけのノートと、レンから押し付けられた魔石の欠片が抱えられている。
「……また、来てもよろしくて?」
「ええ、いつでも。私の屋敷は、貴女の第二の研究室よ」
「ふん。……勘違いしないでくださいね。あくまで、国のための視察ですから!」
綺麗なツンデレ台詞を残し、彼女は馬車へと乗り込んだ。
その背筋は、来た時よりもずっと伸びやかで、王女としての本来の気品を漂わせていた。
***
王城、王妃の執務室。
重厚な扉を開け、ソフィア・エレオノーラは足を踏み入れた。
室内は冷房が効いたように冷たく、書類の紙擦れの音だけが響いている。
机の向こう、この国の実質的な支配者である王妃が、書類から顔も上げずに声をかけた。
「……遅かったわね、ソフィア。ローゼンタール家へ行っていたとか。……あの『出戻り』に、何か吹き込まれたのかしら?」
冷徹な声。
いつもなら、この声を聞いただけでソフィアは萎縮し、「申し訳ありません」と謝罪していただろう。
自分は母の期待に応えられない、出来損ないの娘だから。
けれど、今日は違った。
彼女の指先には、まだ微かに、レティにキスされた熱が残っている。
『貴女の努力は美しい』という言葉が、心臓を支える柱になっている。
「いいえ、お母様」
ソフィアは顔を上げ、はっきりと答えた。
「吹き込まれたのではありません。……わたくしが、自分の目で『才能』を見つけてきたのです」
王妃の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、氷色の瞳が娘を射抜く。
そこには、今まで見たことのない、強い光を宿した娘の姿があった。
「……生意気な口を利くようになったものね」
「成長と言っていただきたいですわ。……あの方は、少なくともわたくしの話を聞いてくださいましたもの」
小さな、けれど明確な反逆。
王妃の目がスッと細められる。
「……そう。あの女は、私の娘まで誑かすというわけね」
王妃がペンを置いた。
カツン、という硬質な音が、宣戦布告のゴングのように響く。
「よろしい。ローゼンタール侯爵夫人……。ただの道化だと思っていたけれど、どうやら『排除』すべき害虫のようね」
母の放つ強烈な殺気に、ソフィアの膝が震える。
けれど、彼女は退かなかった。
(レティ様は、わたくしを信じてくれた。なら、わたくしもレティ様を守らなきゃ)
「害虫ではありません。……あの方は、お母様が忘れてしまった『温もり』を持った方ですわ」
言い捨てて、ソフィアは一礼し、部屋を退出した。
扉が閉まる瞬間、王妃の深い溜息が聞こえた気がしたが、彼女は振り返らなかった。
廊下を歩きながら、ソフィアは自分の胸を押さえる。
心臓が早鐘を打っている。怖い。
けれど、不思議と足取りは軽かった。
「……待っていてくださいませ、レティ様。わたくしが、必ずお守りしますから」
王城の奥深くで、少女の覚悟が決まった。
それは同時に、王妃という巨大な敵が、本格的にレティへと牙を剥く合図でもあった。
一方、そんなこととは露知らず。
私は屋敷で、マリアが焼いてくれたクッキーを頬張りながら、次の「獲物」について考えていた。
そろそろ、この屋敷の平穏を脅かす「外の風」――教会からの干渉が始まる頃合いだ。
「……聖女様、か」
風の噂で聞く、奇跡の少女。
彼女がもし、噂通りの過重労働を強いられているのなら。
私のハンドクリームと膝枕の出番は、近いかもしれないわね。




