第10話 拗らせ王女の憂鬱
「不敬よ! わたくしを誰だと思っていて!? この国の第二王女、ソフィア・エレオノーラ・フォン・アルカディアですわよ!」
ローゼンタール家の玄関ホールには、金切り声のようなソプラノと、過剰な香水の匂いが充満していた。
バラとムスクを煮詰めたような、鼻孔を圧迫する濃厚な香り。
それは「私を見て」「私を敬って」という、彼女の切実な自己主張そのものだ。
目の前には、豪奢なドレスに身を包んだ少女が仁王立ちしている。
金髪の縦ロールは見事に巻かれているが、毛先が少し痛んでいる。毎朝、完璧な形を作るために高熱のコテを当て続けている証拠だ。
首元には大粒の宝石。指にはめられた指輪の数は、彼女の細い指には重すぎるように見える。
「ようこそ、ソフィア殿下。……まあ、なんて情熱的なご挨拶」
私は階段を優雅に降りながら、扇を広げて微笑んだ。
私の背後には、昨夜のネグリジェから(私が選んだ)フリルのワンピースに着替えたレンが、怯えたように隠れている。
「レティ、あの人……魔力がトゲトゲしてる。ヒステリー起こしそうで怖い」
「しっ。お客様の前で正直すぎる感想は失礼よ」
ソフィア殿下が私を睨みつける。
その瞳は、王妃様と同じ氷河の色をしているけれど、底にあるのは冷徹さではなく、燃え上がるような焦燥感だ。
「ローゼンタール侯爵夫人! 昨晩、貴女が王城の庭から『重要な国家資産』を持ち去ったとの報告を受けましたわ! 直ちに返還なさい!」
彼女はビシッと私の背後のレンを指差す。
「そこの魔術師! わたくしが何度も勧誘の手紙を送ったのに無視して……あまつさえ、こんな出戻りの未亡人の元に逃げ込むなんて、どういうつもりですの!?」
「……勧誘?」
レンが首を傾げる。
ああ、なるほど。魔術師塔に届いていた手紙の山。レンは「どうせ苦情か実験要請だろ」と読まずに捨てていたと言っていたけれど、その中に王女からのラブレター(勧誘状)が混じっていたのね。
「わたくしなら、貴女に最高の研究環境を用意できましたわ! 王家の予算も、名誉ある地位も! なのに、なぜ……!」
ソフィア殿下の声が震えている。
彼女の言葉の端々から、血の滲むような「努力」の匂いがする。
彼女は、優秀な魔術師を手に入れることで、自分の価値を証明したかったのだ。
姉である第一王女や、完璧な母である王妃と比較され続け、「凡庸」の烙印を押された自分の評価を覆すために。
私は階段を降りきり、彼女の目の前で立ち止まった。
「殿下。……レンは『物』ではありませんわ」
「わ、わかっております! だからこそ、正当な評価のできる王家が管理すべきだと……」
「管理? いいえ、必要なのは『共感』です」
私はレンを背中から前へと押し出した。
レンはモジモジしながらも、覚悟を決めたように顔を上げる。
「レン。殿下に伝えて差し上げて。貴女がなぜ、私を選んだのかを」
レンが息を吸い込む。
アメジストの瞳が、ソフィア殿下の氷色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……俺、じゃなくて、私は。……地位も名誉もいらない。研究室も、予算もどうでもいい」
「なっ、なら何を望むと言うのです! 王家以上の条件など……」
「『可愛い』って言われたんだ」
レンの言葉に、ソフィア殿下がポカンと口を開ける。
「は……?」
「レティ様だけが、私の魔力を怖がらなかった。化け物扱いせずに、頭を撫でてくれた。……だから私は、この人の魔法使いになるんだ」
単純で、けれど絶対的な理由。
静寂が落ちる。
ソフィア殿下の顔が、みるみるうちに歪んでいく。
怒りではない。それは、どうしようもない惨めさと、羨望による崩壊の表情だった。
「……なによ、それ」
彼女の声から、威圧感が抜け落ちる。
「そんな……そんなくだらない理由で……。わたくしは、こんなに勉強して、魔導理論も全部暗記して、貴女の才能を活かす計画書まで書いて……!」
彼女の拳が震える。
爪が掌に食い込み、血が滲みそうだ。
「どうせ、わたくしにはカリスマ性なんてないわ……。お母様のように冷徹にもなれないし、お姉様のように聡明でもない……。どれだけ努力しても、誰もわたくしを選んでくれない……!」
ダムが決壊したように、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
王冠の重さに耐えきれず、少女の首ががっくりと垂れる。
彼女は今、王女であることをやめて、ただの「認められたい女の子」に戻って泣いている。
「……レティ、どうしよう。泣かせちゃった」
レンがオロオロと私を見上げる。
マリアもベルも、どう対応すべきか戸惑っている。
王族の涙を見てしまった者は、本来なら不敬罪を恐れて目を背けるべき場面だ。
けれど、私は一歩踏み出した。
ヒールの音が、泣きじゃくる声に重なる。
「……来ないで! 見ないで! わたくしの無様な姿なんて……!」
「無様?」
私は彼女の前に跪いた。
これで視線の高さは同じ。いいえ、私のほうが下になる。
「殿下。貴女の手を見せていただけますか?」
「……っ、何を……!」
彼女が拒絶するよりも早く、私はその手を取った。
宝石だらけの、冷たくて小さな手。
けれど、私の指先は感じ取った。
中指の横にある、硬いペンダコ。
人差し指の、紙で切った無数の小さな傷跡。
そして、魔術の触媒に触れすぎて荒れた指先。
「……綺麗な手」
「は……? 嫌味ですの? インク染みだらけで、こんな……」
「いいえ。これは『努力の結晶』ですわ」
私はその指先に、敬愛を込めて口付けた。
彼女がビクリと震え、涙に濡れた目で私を見る。
「たしかに天才は、息をするように成果を出します。レンのように。……けれど貴女は、息を止めて、必死に石を積み上げてきた。誰にも褒められなくても、一人でずっと。……誰でもできることではありませんよ」
私の頭脳は、彼女の知識量が並大抵のものでないことを見抜いていた。
彼女が提示しようとした「計画書」。それはきっと、完璧な理論で構成されていたはずだ。ただ、そこに「相手の心」という変数が欠けていただけ。
「わたくしは……天才じゃありませんわ……」
「ええ。貴女は『努力の天才』よ」
私は顔を上げ、ニッコリと微笑む。
「私は天才が好きですけれど、努力家はもっと好きよ。……ねえ、ソフィアちゃん。そんなに重い宝石、一度外してしまわない?」
「……ちゃん、付け……?」
「ここには王家も派閥もありませんもの。あるのは、美味しいお茶と、貴女の話を聞きたい私だけ」
私は立ち上がり、呆然とする彼女の肩を抱いた。
彼女は抵抗しなかった。
張り詰めていた糸が切れ、私の腕の中に崩れ落ちる。
漂っていた攻撃的な香水の香りが、ふわりと和らぎ、本来の彼女が持つ石鹸の香りがした。
「……悔しいですわ……」
「ええ、悔しいわね」
「貴女なんかに……負けたくないのに……」
彼女には私が、自分が欲しい才能を全て持っている女に見えているのだろう。それが王家による私の評価だった。『才能を鼻にかけた生意気な女』。だからこの国は私を持て余した。『政略結婚』によって余所の国へ追い払おうとした。だけどこうして私は戻ってきた。
「ふふ、負けてなんていないわ。貴女は今、私の心を勝ち取ったもの」
私はマリアに目配せする。
最高級の紅茶と、涙で失われた糖分を補給するためのケーキを。
「さあ、顔を上げて。泣き顔も可愛らしいけれど、貴女には笑顔のほうが似合うわ」
ソフィア殿下――いいえ、ソフィアちゃんは、私の胸でひとしきり泣いた後、赤くなった目でレンを睨んだ。
けれどその目には、もう先ほどまでの殺伐とした光はない。
「……勘違いしないでくださいまし。わたくしは、貴女たちの監視のためにここに留まるだけですわ!」
「あら、長期滞在のご希望?」
「お茶くらい、付き合ってあげてもよろしくてよ!」
典型的なツンデレ台詞。
レンが「めんどくさ……」と呟きかけた口を、私が手で塞ぐ。
ようこそ、私の小さくて騒がしいお茶会へ。
これで「権威(王女)」のカードも手札に加わった。
けれど、彼女が本当に輝くのは、このコンプレックスを武器に変えた時だろう。
窓の外、王城の方角から、新たな不穏な気配――王妃様の苛立ち――が伝わってくるような気がした。
娘を取り込まれた母親が、黙っているはずがないものね。




