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第1話 天才未亡人の優雅な帰還

馬車の車輪が砂利を噛む音が、計算通りに減速していく。

窓の外を流れる景色は、鉛色の空と、手入れの行き届いていない――けれど必死に体裁を保とうとしている――我が実家の庭園。


雨上がりの湿った空気には、土と緑の匂いに混じって、ほんのわずかな錆の匂いが漂っている。

門扉の蝶番が軋む周波数から察するに、ここ四年ほど適切なメンテナンスが行われていないわね。潤滑油の予算すら削らなければならない台所事情。視覚情報として入ってくる使用人たちの制服の袖口、その縫い直しの回数からも、ローゼンタール侯爵家の財政が限界値に近いことは明白だった。


普通なら嘆くところでしょうけれど。

私はふわりと扇を閉じ、口元を緩めた。


「……愛おしいわ」


崩れかけた均衡ほど、美しいものはない。

それは、私が手を差し伸べる余地が残されているということだから。


馬車が停止し、扉が開かれる。

冷たい風と共に、緊張で張り詰めた空気が流れ込んできた。


「お帰りなさいませ、レティーティア様」


整列した使用人たちの最前列。

深く頭を下げたのは、筆頭メイドのマリアだった。

私が嫁ぐ前からこの屋敷を取り仕切っている、生真面目を絵に描いたような女性。黒髪を一切の後れ毛もなくひっつめ、背筋を定規のように伸ばしているけれど、私には見えてしまう。


彼女の頚動脈の脈拍数が、平時より一五パーセントほど上昇していること。

目元の筋肉が微細に痙攣し、慢性的な睡眠不足を訴えていること。

そして何より、その完璧な礼の角度が、主を迎える喜びではなく、「見捨てられる恐怖」によって維持されていることが。


「ただいま、マリア。……ふふ、顔を上げて?」


私は差し出された手を借りず、自ら降り立つと、彼女の目前まで歩み寄った。

マリアがびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。

その瞳には、夫を亡くして出戻った「不吉な令嬢」を見る警戒心と、没落寸前の家を支えきれない罪悪感が、複雑なグラデーションを描いていた。


「お、お悔やみ申し上げます。旦那様のご不幸、なんと申し上げてよいか……」

「あら、いいのよ。あの方も最期は幸せそうだったもの」


事実だ。私の全肯定介護によって、彼は三十年来の人間不信を溶かし、最後は赤子のように微笑んで逝ったのだから。

私はマリアの言葉を遮り、屋敷の玄関ホールへと視線を巡らせた。


磨き上げられた大理石の床。曇りのない窓ガラス。

花瓶には、庭で摘んだばかりであろう野薔薇が生けられている。高価な温室の花を買う余裕がないからこその工夫。


「素晴らしいわ」


私の言葉に、マリアが瞬きをする。


「え……?」

「隅々まで清掃が行き届いている。貴女たちがどれほどこの家を大切に守ってくれていたか、床の輝きが雄弁に語っているわ。……ありがとう、マリア」


肯定の言葉は、時に刃物よりも深く刺さる。

マリアの瞳が揺らぎ、必死に構築していた「鉄の女」としての防壁に、細かな亀裂が走った。


「も、勿体ないお言葉です。ですが、ご覧の通り屋敷は老朽化し、使用人も減り……旦那様亡き後、奥様をお迎えするにはあまりに不十分で……」

「不十分? いいえ、違うわ」


私は一歩踏み出し、彼女との距離を詰める。

ソーシャル・ディスタンスの侵害。貴族社会では無礼とされる距離だが、心の壁を壊すにはこれくらいが最適解だ。

漂うのは、安価な洗濯糊と、焦燥感を含んだ汗の匂い。


私は彼女の手を取った。


「っ、奥様!?」


反射的に引っ込めようとする手を、優しく、しかし絶対的な力で包み込む。

指先はガサガサに荒れ、あかぎれが幾つも赤く口を開けていた。爪の間には、掃除の際に染み込んだであろう黒ずみ。

それは労働の勲章であり、同時に、彼女自身を虐げる鎖の象徴でもあった。


「……ご覧にならないでください。汚い手です」


マリアが悲痛な声で漏らす。


「使用人の手は、家の恥です。手入れをする時間があるなら、一枚でも多く皿を磨けと、そう教育されてきましたから」


彼女は私の視線を拒絶するように俯く。

これが第一の防衛ライン。「職務への忠誠」という名の自己犠牲。

ここで「可哀想に」と同情するのは三流だ。それでは彼女の誇りを傷つけ、関係は「哀れむ者」と「哀れまれる者」に固定されてしまう。


だから私は、知性で瞬時に最適解を弾き出し、慈愛でその言葉をコーティングする。


「汚い? マリア、貴女は目が悪くなったのかしら」

「え……」

「私には、宝石よりも輝いて見えるわ。この傷の一つ一つが、私不在のローゼンタール家を支えてくれた証拠でしょう? 愛おしくて、頬ずりしたいくらい」


私は荒れた親指の腹を、自らの頬に押し当てた。

とろり、とした熱が伝わる。


「お、奥様!? な、何を……!」

「けれどね、マリア。貴女のその献身は美しいけれど、少しだけ『方向音痴』ね」


私は懐から、小瓶を取り出した。

王都で流行している、高価な薔薇の香油入りハンドクリーム。本来なら、夜会に出る貴婦人が自身の虚栄心を満たすために使うものだ。


「ほ、方向音痴、ですか?」

「ええ。貴女の手が傷つくことで守られる家の体面なんて、私には必要ないの。……私が欲しいのは、貴女が自身の肌を慈しみ、明日も笑って私の紅茶を淹れてくれる、その余裕よ」


私は小瓶の蓋を開け、クリームを指先に取る。

甘く濃厚な薔薇の香りが、玄関ホールの冷たい空気を塗り替えていく。


「手を出して」

「いけません、そんな、もったいない……!」

「命令よ」


甘く、低く、囁くように。

それは拒絶を許さない、絶対君主の響き。


マリアの体が硬直する。思考がショートしているのがわかる。

「主人の命令は絶対」という忠誠心と、「身分不相応な施しを受けてはならない」という自制心が衝突し、彼女の思考回路を焼き切ろうとしているのだ。


そして、その隙は私が作り出したもの。

私は抵抗の弱まった彼女の指に、たっぷりとクリームを塗りつけた。


「あっ……」


冷たいクリームが体温で溶け、荒れた皮膚に浸透していく。

私はマリアの強張った関節を一つ一つ解きほぐすように、ゆっくりと、円を描いてマッサージを施した。


「ん……」


マリアの口から、無防備な吐息が漏れる。

痛みと緊張で凝り固まっていた神経が、強制的に弛緩させられていく感覚。

私が触れているのは手だが、同時に彼女の脳の報酬系を直接撫でているに等しい。


「ん、はあ、お、奥様……」

「いいこと、マリア。この手の荒れは私の『管理不行き届き』の証よ」

「んん……え、奥様の、せい?」

「ええ。私が早く帰ってこなかったから、貴女にこんな重荷を背負わせてしまった。だからこれは私の罰であり、償い。……大人しく、私に甘やかされなさい」


論理のすり替え。

責任をすべて私が引き受けることで、彼女から「申し訳なさ」を奪い取る。

残るのは、ただ与えられる快楽と、底なしの安心感だけ。


マリアの膝が微かに震え、その場に崩れ落ちそうになるのを、私は肩を抱いて支えた。

先ほどまでの、鉄のような強張りはもうない。

あるのは、砂糖菓子のように脆く、甘く崩れた一人の女性。


「あ……はい、奥様……。申し訳、ありません……いぇ、ありがとう、ございます……」


瞳が潤み、焦点が合っていない。

彼女の中で「主従」の定義が書き換わった音がした。

『仕えるべき主人』から、『愛と安らぎを与えてくれる絶対的な庇護者』へ。


私は満足げに微笑み、艶やかになった彼女の手の甲に、唇を寄せた。


「さあ、お風呂を沸かしてちょうだい。……二人で入りましょうか?」

「へ……?」

「冗談よ。まだ、ね」


真っ赤になって俯くマリアを置いて、私は屋敷の奥へと歩き出す。

靴音が、軽やかに響く。


最初の鍵は開いた。

この屋敷に満ちている閉塞感と義務感を、すべて蜂蜜のような幸福で溺れさせるまで。

私の、甘くて忙しい革命が始まったのだ。


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