最高の一日
「今日ここに来るんだったら、すぐに連絡入れてよ」
「朝一でお電話したのに、出なかったのはお兄さんの方でしょう?」
ぼくの腕の中で、彼女は唇を尖らせた。
「なんだ、あの電話はきみからだったのか」
そうか。一〇年前のあの日、彼女はぼくの電話番号をしっかり手帳にメモしていた。だから、彼女の方からはぼくに電話で連絡することができたんだ。
「出てくれなかった時は、ちょっと悲しかったですけど。……でも、嬉しい。本当に連絡先を変えていなかったんですね」
優しげな微笑は悪戯を企んでいるような笑みに変わって、ぼくは思わず肩を竦めた。
「あんなこと言われたら、変えるに変えられないよ」
「……あの時のネックレス、つけてくれてるんですね」
「うん」
ぼくの胸元で輝くネックレスを、彼女はそっとなぞった。
「嬉しいです。お兄さん、恥ずかしがり屋でしょ? こういうの、身につけてくれないんじゃないかと思いました」
「こいつのお陰で、立ち直るきっかけができたんだ」
そういうと、圭はほっとしたみたいだった。
彼女の肩は撫で下ろしたようになだらかに下がった。
「ということは……」
圭は真剣な眼差しになって訊ねた。
「お兄さん。わたしのこと、好きなんですか?」
ぼくは彼女の顔をまじまじと眺めた。
彼女は、茶化す風でもなく、真面目くさった顔をして、ぼくと対峙していた。
その問いに応じるのは、とても勇気のいることだった。なんせ恥ずかしい。
でも、ぼくはすぐに頷いてみせた。
圭は肩を震わせた。
最初、泣き出してしまったのかと思ったが、どうやら、彼女は腹のうちから込み上げる笑いに堪えているみたいだった。
「お兄さん、あの時のわたし、六歳なんですけど。いくらなんでもあの時のわたしじゃあ、恋愛対象としては低すぎるんじゃ……」
そう言って、淡い薄紅色をした唇を覆った。
あまりにも笑うものだから、ぼくは思わずむすっとした表情をして言った。
「そんなこと言われるんだったら、瀬奈さんにしておくべきだった……」
ドン、と握り拳で胸を叩かれた。
「ぐほっ、一〇年前も胸を叩かれたような気が……」
「……それは、お兄さんがわたしの胸触ったり、浴衣脱がすから!」
彼女はパッとぼくから距離を取ると、左右の手で胸を覆った。
かつては両手で覆えたそれは、今では大きく膨らんでしまっていて、掌の範疇には全然収まっていなかった。
「そうですよ、あの時、ちゃんと約束したじゃないですか!?」
「きみね、待たせ過ぎだよ」
「でも、これでわたしも一六歳です。お兄さんと結婚だって、できるんですよ」
彼女はそういうと、眉を上げてみせた。
「……それは気が早過ぎるよ」
「でも、一〇年間、相思相愛じゃないですか。年の差一一歳の壁を、気にすることなく」
彼女は爪先立ちして、両腕をぼくの首に絡ませた。
ぼく達は見つめ合った。
彼女はともかく、ぼくはもういい歳になってしまったというのに、きっと頬が真っ赤になってしまっているだろう。
ぼくは、そっと黒い箱を差し出した。
「これは、一〇年前の?」
「いや、さっきあの射的屋で取ってきたんだ」
ぼくの顔を、彼女はまじまじと見つめた。
「開けていいですか?」
「どうぞ」
彼女は丁寧な手付きで開封した。
なかから現れたのは、見覚えのある銀のネックレスだった。
祭りのために置かれた仮設照明に照らされて、眩い光を放っている。その白い輝きは網膜に焼き付いて離れようとしない。
「これ、お揃いじゃないですか」
「まぁ、露店のものだしね」
彼女はそれに頭を潜らすと、髪を払った。
銀色のネックレスが照明の灯りを受けて、まるで自分から光り輝いているかのようだった。
「よく似合ってるんじゃないかな」
「選んだ人のセンスがいいんですよ、きっと」
「それさ、一〇年前の自分のセンスが良いって、言いたいんだよね?」
彼女は笑った。
険しい表情を緩める様な笑い方は、今でも変わっていなかった。
「お兄さん」
「何?」
「わたし、お母さんが亡くなってしまって、帰る家がないんです」
彼女は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
この街に帰って来るきっかけ。それもまた彼女にとって、一つの契機になったのだろう。
でも、すぐにその感情とは決別し、真っ直ぐぼくを見据えた。
「今日、お兄さんのお宅にお邪魔してもいいですか?」
ぼくは髪を掻いた。
「……ったく、一〇年遅いよ」
ぼくは最後に柄にもなく強がりながら、彼女を力一杯抱き締めていた。
もう、どこかへ行ってしまわないように。固く、キツく。
ぼく達が抱き合っていると、不意に空が明るくなった。
「これは?」
「ほら、あっちだ」
黒い空に浮かび上がった炎の華を見て、ぼく達は溜息をついた。
眩い光を発しながら、夜の空を一直線に駆け上がると、黒いキャンパスにいくつもの線や曲線をなぞっていく。色とりどりの光で筆は、迷うことなく走っていき、光の軌跡が人々に歓声を上げさせる。
圭は思わず息を飲んで、その光景を見守っていた。
立て続けに打ち上げられる花火の爆音は、まるで早まる心臓の鼓動だった。空で爆ぜているはずなのに、それはぼく達の耳元で、そして胸元で鳴り響いているかのような迫力だった。
声を上げることもなく、はしゃぐこともなく、ただ、その目を輝かせている姿は、一〇年前の祭りの帰り道の時と同じように純真無垢だった。
大粒の瞳に、この情景を忘れまいと網膜に焼き付けているように、ぼくには見えた。
彼女の丸くて大きい瞳に映る花火を、ぼくは目を細めて眺めた。
「やっぱり、今日は最高の一日だと思います」
夜空に咲く花火を見ると、ぼくはいつでも思い出す。
無数の提灯で彩られた夜の暗がりに浮かぶ、あの子の華奢な後ろ姿を。
その姿は、網膜に鮮明なまでに焼き付いて、ぼくの視界から離れなかった。




