婚約者が恋に落ちた瞬間、リリミヤは前世を思い出した 【コミカライズ進行中】
遠く獣の吠える声と鳥の鳴く声が聞こえた。
空を覆って隠してしまっている高い木々の樹冠の森を、リリミヤとジェファスは手を取り合って進む。
鬱蒼とした木々の空を切り取って拓けた場所もあったが森は差し込む陽光が遮られ霞のように弱く、真昼なのに薄暗い。
空気よりも森の緑の匂いの方が幾重にも濃かった。
巨木の根が土から所々剥き出しになり走り根となって横に広がり階段のような段差を作って、靴の下に固い感触を伝えた。横たわる朽ちかけた古木は地表に隆起した竜の背骨のように巨大で、苔むす歳月を静かに語っている。梢をぬける風音がザワザワと葉をゆすり地上の黒い影を蠢くように揺らしていた。
「ジェファス様…………」
10歳のリリミヤは、同じく10歳のジェファスの手をギュッと握った。
リリミヤは伯爵家の一人娘で、ジェファスは隣領の伯爵家の次男で婚約者であった。家柄の釣り合いがとれており資産も同格、派閥の問題もなく、リリミヤとジェファスは幼馴染みとして仲がよかったことから二人は6歳の頃から婚約を結んでいた。
リリミヤとジェファスが森で迷う1時間前。
今日は両家の父親たちの狩猟会で、父親と騎士たちは森に入ったがリリミヤとジェファスは森の浅い場所に設営された天幕の待機場所で母親たちとお茶を楽しんでいた。
小さな滝が流れる場所で、水量はさほど多くないが周囲の緑の木々と調和するエメラルド色の水が岩肌に水模様を描いて裾広がりに落ちる姿は優美であった。
幾重にも細い曲線が重なり。
白糸を垂らしたような水流には趣きあり。
滝壺に吸い込まれていくような流れの滝だった。
おだやかで和やかな時間であったのだが。
ドドドドドドッッ!!
突然、そこへ父親たちが狩りそこねた狼の群れが突っ込んできたのだ。
剥き出しの牙が光る。
矢で射られて傷を負った狼は、闘争と逃走の本能を上昇させて凶暴化していた。
母親や侍女たちの悲鳴が上がった。
護衛の騎士たちが狼を防ぐが、狼の方が数が多くて強い。騎士たちに武器はあっても狼たちには鋭い爪と牙があった。
あっという間に天幕は狼と人間が入り乱れ、悲鳴と怒号が交叉する阿鼻叫喚の舞台へと変わった。
「「「「「逃げろーー!!!」」」」」
絶叫が響き渡る。
突発的な襲撃で使用人たちが踏みつけられた蟻の巣のごとく大混乱に陥っている中、リリミヤとジェファスは側仕えたちから逸れてしまった。しかも無我夢中で走ったために方向が把握できずに森の深部へと迷いこみ、迷子となっていたのである。
そして現在。
「大丈夫だよ、リリミヤ。僕が必ず守るからね」
ジェファスがリリミヤの手を握り返す。残る片手は護身用の短剣を構えている。
狼も恐ろしいが、獣の目と鳥の目しかない森の中である。見知らぬ人間の方が狼よりも、いや、顔見知りの人間であっても油断はできなかった。一人娘のリリミヤがいなくなれば豊かな伯爵家の後継の座が転がりこむ、と密かに企む親族は少なくないのだ。実際に過去に何度もリリミヤは命を狙われていた。
なるべく明るい場所を求めて、フェアリーサークルのように地面を照らす木漏れ日を拾いつつ歩く。
時折、風が止み獣の声さえもフッと静かになる気配は仮死みたいな森閑さで。底のない穴の前に立つにも似た異様な、森に嚥下された食物のごとく腸道を行くような不気味さがあった。
リリミヤは口を引き結ぶ。
泣いてはいけない。
感情を制御せずに泣き声を上げることはジェファスの迷惑となり負担になる。
「恐い」
と、言葉として出せない感情があふれて涙となり零れそうになるが。
幼いからこそ自身の無力を理解していたリリミヤは、グッと涙をこらえて唇を噛んだ。赤い薔薇のような真紅の長い髪が影となって、滲みかけた涙を隠してくれる。
その時。
「リリミヤーッ! ジェファスーッ!」
リリミヤの耳に届いたのは、遠方から朝霧のように薄らと霞んで響く父親の声であった。
安堵の感情が堰をきったように溢れ出す。
「お父様ーッ! お父様ーッ! ここです!!」
顔をくしゃくしゃにして涙を流し、リリミヤは大声を張り上げた。
「お父様です。ジェファス様、お父様が探して来てくださいました!」
リリミヤの瞳に映ったのは、刺すような眼光を正面に向けて短剣を持ったままのジェファスであった。
ジェファスは、父親が姿を現す最後まで警戒をゆるめることはしなかった。
その頼もしいジェファスに、この時リリミヤは恋をした。それまでは幼馴染みとして、婚約者としての雲のようにフワフワと浮くような漠然とした好意であったが。この時、正真正銘リリミヤはジェファスに甘く激しいときめきを覚えたのであった。
リリミヤにとって、それは幼さ故に無防備で一途な恋だった。
そして7年後。
リリミヤ・フリード伯爵令嬢、17歳。
ジェファス・レオツァルエル伯爵令息、17歳。
レオツァルエル伯爵家の親族である公爵家にて開かれた夜会に二人は出席していた。
「あそこに。フロアの中央で男爵令嬢に鼻の下を伸ばしている公爵家の従兄弟のベンジャミンがいるだろう。次男同士で気があって僕は親友と思っていたのだけれども……」
パーティー会場の中央には、公爵令息のベンジャミンをはじめ複数の貴公子が一人の令嬢を囲んで談笑していた。令嬢は後ろ姿だったが、長い金髪にダイヤモンドとレースの髪飾りが似合っていてキラキラと美しかった。
「最近、問題行動が多くて公爵夫妻が悩んでいるんだよ。婚約者がいる身なのに男爵令嬢に心を惹かれて、自分の婚約者を蔑ろにしているらしいんだ。公爵家の者なのに政略による婚約の意味を理解していない行動をするなんて愚かすぎる。婚約者を粗略に扱うということは相手方の家をも軽んじることに繋がるのに」
ジェファスが眉根を寄せる。不快感を示しているのはジェファスだけではない。ベンジャミンの言動は貴族社会の常識から逸脱したものとして多くの者の目に映っていた。
「ええ、社交界で噂の的になっていますわ。ベンジャミン様だけではなく複数の貴公子が男爵令嬢に侍っている、と。皆様、嬉々として男爵令嬢に貢いでいるとの評判で……。それぞれの婚約者との関係が破綻寸前だとか……。実際に婚約を破棄した家もあって、下位の貴族だったので噂にそれほどなっておりませんが……。これからどうなるのか不安です」
リリミヤの口調も重い。
その時、視線を感じたのか話題の男爵令嬢ユリシアが振り返ってジェファスとリリミヤを見た。
ユリシアは月の精霊のように美しい少女だった。
紫みが濃い大きな瑠璃色の瞳、金糸の長い髪、白磁のような白い肌、華奢な手足、可憐で儚く庇護欲をそそる、いや庇護欲そのものが形となったみたいな愛らしく綺麗な令嬢であった。
ジェファスが目を見開く。
一瞬でジェファスの頬が火照った。
その目に、ただただユリシアだけを映して時間が止まったかのごとく身体を硬直させている。
リリミヤは直感した。
深くジェファスを愛しているが故に本能的に感じてしまったのだ。
ジェファスは恋に落ちたのだ、と。
側にいるのにジェファスはリリミヤを見ることもしない。ひたすらユリシアのみを視界に捉えている。
吐き気がした。
唇が戦慄く。
ぐぅ、と喉が締めつけられたかのように息が詰まった。
指先は冷たいのに、こめかみはズキズキと血が逆立つように熱い。
その時、唐突に前世の記憶が蘇った。
何かの拍子に、ぎゅうぎゅうに詰め込んでいた箱が開いてしまい、中のものが溢れて雪崩れ落ちた時のように記憶が氾濫する。
しかし混乱は一瞬だった。
今は、前世のことよりも絶体絶命かも知れない自分の恋心の方がリリミヤには重要だったからである。
前世の知識を今世の自我が瞬時に取り込み、過去の記憶として吸収して、有効活用するべく情報を選択する。
そして前世の知識が選び出したのが『ユリシアの恋心』であった。
この場面はジェファスがユリシアと初めて出会う―――つまりジェファスがユリシアに一目惚れするシーンである。
小説の題名は『ユリシアの恋心』。
ヒロインはユリシア。
ヒーローはジェファス。
類い稀な美しさによって多くの貴公子から求婚されていた男爵令嬢ユリシアが、ジェファスと出会い、自身の恋心に目覚めてジェファスとの真実の愛を育む物語だった。
リリミヤの役割は、嫉妬して二人の邪魔することによって物語を盛り上げる婚約者の役である。いわばムードを高めるスパイス的な悪役令嬢であった。
ドグッ、と心臓が嫌な音を立てた。
動悸が止まらない。
痛い。心臓が。胸が苦しかった。
顔から血の気が引いていく。
フラリとリリミヤはよろめいた。
よろよろと後ろに一歩、リリミヤはさがった。
二歩。
三歩。
隣に立つジェファスは、離れていくリリミヤに気付きもしない。一心不乱にユリシアを見つめているからだ。
そんなジェファスの背中をリリミヤも見つめる。
森で10歳のリリミヤを守ってくれた背中だった。
いつでも、いつだって前に立ったジェファスは背中で庇ってくれた。
あの暗い森でも。
親族の茶会で暴言を吐かれた時でも。
馬に矢を射られて落馬しかけた時でも。
デビュタントで緊張のあまりダンスのステップを忘れた時でも。
常にジェファスはリリミヤの前に立って、躊躇なく行動して守ってくれたのである。リリミヤを害そうとした親族たちも、リリミヤの父親と共にジェファスは制裁をしてくれた。もう欲深い親族は誰もいない。
そのジェファスから後ずさるなんて……。
小説のリリミヤはショックを受けて一人で馬車で帰った。逃げてしまったのだ。
この夜からリリミヤとジェファスの心はすれ違ってゆき、最後にはジェファスはユリシアを選ぶことになるのである。
けれども6歳から婚約をして11年。
人生の半分以上の時間をともにしてきた婚約者なのだ。乱暴な話だが前世の四捨五入を使えば人生の全てである。
リリミヤとジェファスはお互いに愛し愛されてきたはずであった。
今のリリミヤには、11年間ジェファスと積み重ねてきた愛情も結びついた強い絆も手放すことなどできなかった。
リリミヤは心からジェファスを愛しているのだ。
簡単に諦めることなどできなかった。
たとえそれが小説で与えられた天命だとしても、現実のリリミヤは逆らいたかったのである。
ぐっ、とリリミヤは足に力を入れた。
逃げちゃだめ!
ここで逃げてはダメ!
身体が震えた。
身の底から湧きあがってくる見えない何かの痛みに苛まれて涙が滲む。
ジェファスのもとに戻ろうとする足が枷をかけられたかのように、とてつもなく重い。
それでも。
いつだってジェファスといっしょに眺めた世界は綺麗だったから。11年間の思い出がリリミヤの背中を押してくれる。
小説のリリミヤは後ろに下がったが、現実のリリミヤは立ち止まった。
逆に一歩進み、リリミヤはジェファスの袖を咎めるように強く引く。
「ジェファス様!」
ハッ、と夢から覚めたようにジェファスがリリミヤに顔を向けた。
「リリミヤ……、顔色が……」
顔色の悪いリリミヤを視界に捉えたジェファスは己の失態を一瞬で悟った。
「ごめん! ごめんよ! 他の令嬢に見惚れてしまって! 綺麗だから目を奪われてしまって、いや、言い訳だ。リリミヤ以外に見惚れるなんて僕の落ち度だ、でも、好きとか違うから! 誓って違うからね!!」
狼狽えるジェファスの態度にリリミヤは胸を撫で下ろした。
まだジェファスにとってリリミヤへの愛の方がユリシアへの一目惚れよりも勝っている、と。否、ジェファスはユリシアの容姿を綺麗だと見惚れただけで、まだ一目惚れの域に達していないのかも知れない、と。
目は奪われても心までは奪われていないジェファスの様子に安堵したリリミヤは、
「……ひどい、ジェファス様」
と、わざと拗ねることにした。
「私はジェファス様を好きですのに、ジェファス様は他の令嬢を見るなんて……」
11年間もいっしょにいるのだ。どう言えばジェファスをつつけるのかをリリミヤは理解していた。
冬の雀が羽毛を立てて丸くなるみたいにちょこっと頬を膨らませ、リリミヤはわずかに唇を尖らせた。
「あちらの令嬢はお美しいですものね。殿方としては仕方がないのかも知れません。ハッ!? まさか、ジェファス様はベンジャミン様と同じように令嬢に侍るおつもりなのですか!?」
ゲフッ! 貴公子にあるまじき珍妙な声をジェファスが発した。
「お、恐ろしいことを言わないでくれ。あんな貴族のルールを無視した言動をする集団に加入なんてしたくないよ。信じてくれ、本当にちょっと見惚れていただけなんだ。ほら、星とか宝石とか見る感じだよ」
おろおろするジェファスにとって、ユリシアのことは単なる一瞬の衝動で終わるような感情であるらしい、とリリミヤは安心した。
リリミヤとジェファスの婚約は政略面は薄い。単純に両家にとって都合が良いだけの婚約であった。
レオツァルエル伯爵家は、リリミヤとの婚約が破談になってもジェファスに与える財産も爵位も保有している。ジェファスは、是が非でもフリード伯爵家に婿入りをしなければならない立場ではないのだ。
「僕は恥を知っているよ。あの恥知らずな集団の仲間入りなんて冗談でも無理だ。第一リリミヤを愛しているのに、ベンジャミンみたいに婚約破棄寸前になるなんて想像するだけで戦慄が走るよ」
「まぁ、ジェファス様ったら……」
嘘偽りない気持ちを吐露するジェファスに真っ直ぐに見つめられて、リリミヤは頬を染めながら少し後悔をした。ジェファスを疑ってしまった。
同時に、小説のリリミヤのように逃げ出さなくて良かったと思った。
小説のリリミヤはジェファスを失ってしまう可能性に怯えて竦んでしまった。だから臆病になって、逃げ出してしまったのだ。
しかし、一粒の勇気で現実のリリミヤは小説のリリミヤにはならなかった。
おそらく今夜が、小説のリリミヤと現実のリリミヤとの岐路であったのだろう。
ジェファスの青い海のような双眸に、リリミヤがひとひらの赤い花びらみたいに浮かぶ。花を見るようにリリミヤを見るジェファスの眼差しは優しい。
赤い髪にサファイアの花簪を挿して頬は薄紅色に染め、新緑色のドレスを着たリリミヤは咲初めの一本の赤い薔薇の花のごとく初々しかった。
お互いだけを瞳に映して見つめ合うジェファスとリリミヤに、無遠慮に近づく者たちがいた。
ユリシアと取り巻き集団の貴公子たちである。
「やぁ、ジェファス。久しぶりだね」
ジェファスの従兄弟であるベンジャミンが誇らしげに肩をそびやかして言った。ベンジャミンの腕にはユリシアの白い手が絡んでいる。その絶世の美貌で過度な称賛を受けているユリシアは、甘やかされて育ったために下位貴族の最低限の礼儀作法を教育されただけで高位貴族に対してのマナーが不十分であった。しかしベンジャミンたち取り巻きは、その未熟な面も魅力的だとユリシアに夢中になっていた。
「ちょうどよかった、紹介したい令嬢がいるんだ。僕の美しい人だよ。スタット男爵家のユリシア嬢だ」
「初めてまして、ユリシア嬢。ジェファス・レオツァルエルです。噂はかねがね」
チラリと視線をユリシアに走らせたジェファスが、優しげな貴族らしい微笑を浮かべた。しかし雰囲気は、婚約者との語らいの邪魔をする奴は滅んでしまえ、と冷え冷えとした冷気を醸し出している。
「僕も美しい人を紹介するよ。僕の愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい愛しい、最愛の婚約者であるフリード伯爵家の美しい真紅の薔薇リリミヤ嬢だよ。世界で一番美しい僕だけの薔薇の花なんだ」
婚約者を蔑ろにしているベンジャミンと同列に扱われては堪らないと、リリミヤを溺愛していることを強調するジェファス。保身の面もあった。ユリシアに見惚れてしまった罪悪感から、ユリシアと関わりたくない自衛でもあったのだ。
耳の先までぽぽぽと火が灯るように赤くして、はじらいつつもリリミヤは礼儀正しく淑女の礼を執った。
「フリード伯爵家のリリミヤです」
そしてジェファスの意図を汲んで輪に輪をかけて誇張するためにリリミヤは、
「お恥ずかしい。ジェファス様はいつも私のことを 『僕の最愛』とか『僕の美しい薔薇』とか褒めてくださって……、私など本物の薔薇の美しさの足元にも及びませんのに」
と謙遜のていをとっているが、溺愛されていることに自慢の笑顔をほころばせている。
「いや、僕は本気で言っているんだよ」
「まぁ、ジェファス様ったら……」
「だってリリミヤは世界で一番可愛くて綺麗なのだから」
「世界で一番だなんて……」
「信じてよ。僕のリリミヤ、僕の真紅の薔薇の花」
「ジェファス様……、人前ですわ……」
故意にユリシアとベンジャミンたちの前で、貴族の令息と令嬢として身体は触れることはないが言葉でいちゃつくジェファスとリリミヤ。
ぽかんと口を開けてベンジャミンたちは唖然としている。
自分たちが見せつけられている公開イチャイチャに絶句していた。ベンジャミンたちも言葉や行動の裏を読む高度な教育を受けた貴族である。ジェファスとリリミヤの表面的にラブラブする様子の裏に、空気という魔物を読め、という露骨なメッセージを察していた。
ジェファスのベンジャミンに対する友情の残滓であり、密やかな警告である、と。
ユリシアは怪訝な顔をして眉根を寄せている。
「どうしてリリミヤがいるの? パーティーから先に帰って、小説ではジェファスは一人の場面のはずなのに……」
と小さく呟く。
その声をリリミヤは聞き逃さなかった。警戒を高める。もしや小説を知っている転生者ではないか、と。
危機感を抱いたリリミヤだが、ユリシアに向けるジェファスの眼差しには嫌悪の色が宿っていた。
ベンジャミンに身体をくっつけているユリシアの姿は、貴族の令嬢としてはあり得ない姿であった。常識のある者ならば忌避感を持つのは当然だった。
ジェファスだけではない。
ベンジャミンの両親も。
ベンジャミンの婚約者の家も。
パーティー会場にいる貴族たちも。
ユリシアとベンジャミンたちと距離を取りつつ、見ていないようで見ていた。侮蔑と嘲笑。今は観察段階とはいえ、状況や相手を注意深く観察して、興味がないように装いながらも実際には行動や発言を冷酷に把握していた。
ユリシアのマナーだけが問題なのではない。
ベンジャミンをはじめ、ユリシアの取り巻きである各貴族家の令息たちが家と家との政治的・社会的な意味を伴う重要な契約に等しい婚約を軽視する姿勢が、あるいは、ユリシアに貢いで自身の財産を管理できていないことが政治や経済の観点において問題なのである。すなわち家の存続に直結する、既得権益に基づく大問題であるとベンジャミンたちが理解していない点が最重視されていた。
リリミヤは耳の奥底で、何かがパリンと壊れる音を聴いた。それはリリミヤが望んだ幻聴なのか、リリミヤの行動の結果なのか、何ひとつわからない。けれどもリリミヤは、身体に纏わりつく見えない薄氷のような何かから解放された気分になった。
このムードならばユリシアに先制攻撃が許されるかも、とリリミヤは思った。
陰険は社交界で生きる貴婦人の嗜みである。真昼の星のように見えないけれども、ひっそりと。王国では巧みに相手から味方を剥ぎ取り、自分の手を直接に汚すことなく陰湿に駆け引きをするのが母から娘への上位貴族の秘伝だった。
もうジェファスがユリシアに恋をする可能性は低いとは思うが、やはりユリシアを排除して安心をしたいリリミヤであったのだ。
「ユリシア様」
リリミヤが、ベンジャミンと恋人同士のように腕を組むユリシアの白い手を見て言った。
「私のジェファス様は素敵な貴公子ですけど、ユリシア様の婚約者様も凄く素敵な方ですね」
「あっ、いえ、ベンジャミン様は私の婚約者ではないのです」
あわててユリシアがベンジャミンから手を離した。すっと身体を引く。
「まぁ、そうなのですか? とても親密に触れあっていらっしゃるから婚約者だとばかり……」
失言を詫びるようにリリミヤが口を扇子で隠す。
「誤解してしまいましたわ。お許しくださいませ」
言外に、誤解するような行為ははしたないですわ、と具体的なことは言わずともユリシアに悟らすように促し匂わせる。
悔しげにユリシアがリリミヤを睨む。
小説ではジェファスがユリシアに一目惚れする大切な場面なのに、リリミヤが同席していたために肝心の一目惚れが不成立であったことも不満だったのだろう。
怒りを秘めた大きな瑠璃色の瞳が爛々と光った。
「いやいや、誤解しても仕方がないよ。ベンジャミンはユリシア嬢を『僕の美しい人』と紹介してくるし、何よりも蜜月の仲のように腕を組んで密着しているんだから」
ジェファスがリリミヤに加勢する。
「確か、ベンジャミンの婚約者はウリア公爵令嬢のはずなんだけどね」
「まぁ、そうなのですか……」
「一般的には、婚約者がいる者ならば婚約者をエスコートするのが普通だしね」
「ええ、ジェファス様のおっしゃる通りですわ」
ジェファスとリリミヤからの非難する視線の的となったベンジャミンが頬を羞恥で紅潮させる。ベンジャミンは視野が狭くて考えも甘い。女性は心で恋をするが男性は目で恋をするといわれる典型みたいな若者だった。だが、恥の念は残っていたらしい。哀れむような軽蔑の眼差しをリリミヤとジェファスは取り巻きの令息たちにも流した。ゴクリ、と喉を上下させたベンジャミンはキョロキョロと周囲を見回して(ようやく空気を読んで)、ユリシアからあからさまに距離をとった。令息たちも。
少し指摘されただけで態度を変えるベンジャミンと令息たちにリリミヤは呆れたが、家族の真摯な忠告に聞く耳を持たなくとも他者からの軽蔑や評価には敏感に反応する者は少なくない。
リリミヤは、ベンジャミンたち取り巻きたちからユリシアを切り離せれば、と煽っただけである。
ベンジャミンたちが力添えをしなければユリシアはただの男爵令嬢にすぎない。軽く薄っぺらい力しかないのだ。
身分と差別の貴族社会である。
この王国では、他国と比較しても特に階層構造の上下関係が厳しい。
ジェファスから接近しない限り、ユリシアにチャンスはないのだ。
ベンジャミンや取り巻きの令息たちから物理的に間隔を空けられたユリシアは、根源となったリリミヤに焼け付くような憎悪を募らせた。目尻を吊り上げ、唇を歪めたユリシアの美しい顔面には煮えたぎるみたいな憎しみがあった。
この時、ユリシアは思い違いをしていた。
今までは周囲からチヤホヤされて、何もかもが思い通りになっていた。多少の失敗も、まだ幼いからと大目に見てもらえていた。何よりもユリシアには圧倒的な美貌があった。
小説でも、ジェファスに庇われて全てから保護されるヒロインだった。
だから、自分は許される存在なのだとユリシアは錯覚していたのである。
それに小説を熟知している転生者ならばジェファスに対して未練もあったのだろう。ジェファスは資産も地位も能力もある優良株である、性格も優しい。順調にベンジャミンまで虜にした過去が、小説の強制力のある世界なのでは、という慢心に繋がっていたのかも知れない。
自分は愛されるヒロインである、と。
最も愛らしく見える角度の微笑をつくったユリシアは、しなやかにジェファスにすり寄った。
「ジェファス様、私はユリシアと申します」
白い指先を伸ばしてジェファスの腕に触れようとする。美しく微笑んだユリシアに身を擦り寄せられて、鼻の下を伸ばさなかった令息はいなかった。
しかしジェファスはスルリと回避する。
「驚いたな。婚約者の目の前で、こんな下品であからさまな行為は初めてだ」
バッサリと下品と言われたユリシアは顔を真っ赤にした。
「下品だなんて、酷いですわ。私は下位貴族です。下位貴族でしたらこれくらいの接触は多々あることですわ」
嘘である。
下位貴族に気軽に身体を接触させるマナーはない。だが、それを承知でリリミヤは大仰にため息をついた。諭すように優しげに言う。
「まぁ、ユリシア様。それが下位貴族の当然のマナーとしても、ここをどこだとお思いですか? ここは筆頭公爵家のパーティーですよ。まさか筆頭公爵家のお屋敷で下位貴族のマナーを押し付けるおつもりなのでしょうか?」
今までそれを許していたベンジャミンが俯く。
逆にユリシアは攻撃的となってリリミヤに噛みついてきた。
「どうして私を虐めるのですか? リリミヤ様って下位貴族の失敗を嗤う意地悪で慈悲心のない方なんですね」
愚かだ、とリリミヤは思った。
遠巻きに様子を窺っている令嬢たちや夫人たちの姿をユリシアは見えていないのだろうか、と。
いらっしゃいな、と透明なのに底の見えない地底湖みたいに瞳を薄く光らせている令嬢たちと夫人たちの恐ろしさをユリシアはわかっていない。
ベンジャミンがユリシアの口を塞いだ。
とっさに手で、口枷のようにユリシアの口を覆う。
「失礼。ユリシア嬢は体調不良で言葉も低劣となっているようだ。申し訳ない、リリミヤ嬢への詫びは後日にする故に今夜はこれで失礼をするよ」
腐っても公爵令息。生存本能は強いらしい。
ユリシアが暴言で社交界のボーダーラインを越える前に、抵抗するユリシアを取り巻き令息たちと協力して引きずってパーティー会場から出てゆく。
「あら、残念」
もう少しで社交界から疎外できたかも知れないのに、とリリミヤは毒のある鈴蘭のように可愛く笑う。
「でも今夜でたぶん、ユリシア嬢の愉快な取り巻き会は解散だね。皆、崖っぷちに気がついてしまっただろうから」
「もう遅いと思いますけど? 各家での選別は終わってしまっているかと」
「それでも最後の最後に我にかえったからね。各家の判断はそれぞれだろうけど、最悪を選ばない家も多いと思うよ。それにベンジャミンは家族から愛されているし、まだ公爵家で庇うことのできる範囲だしね」
「若気の至りとか、ハニートラップの練習台とか、便利な言葉がありますものね」
「僕もホッとしているんだ。ベンジャミンは親友なんだよ。ありがとう、リリミヤ。嫌な役だっただろう?」
「いいえ? ノリノリで楽しかったですよ?」
「実は僕も楽しかった。リリミヤと公開いちゃいちゃができて」
くすくす、とお互いを見つめてリリミヤとジェファスが笑った。
手と手を重ねる。触れる。
ベンジャミンたちの前では手を繋ぎたくなかった。二人だけの真摯な想いだから。
「愛しているよ、リリミヤ」
「私も。ジェファス様を愛しています」
短い言葉には11年分の重みがあった。
ジェファスがリリミヤの手を真珠を育む真珠貝のように柔らかく両手で包む。
「離さないから。ずっといっしょに生きていこうね」
想いは言葉にすることで現実の形となる。
リリミヤが花咲くように微笑んだ。
「約束ですよ」
「絶対に破ることのない約束だ」
そして翌年、リリミヤとジェファスは結婚した。
結婚式の席には、感謝と感動で大泣きするベンジャミンの姿があった。ベンジャミンは、にこやかな笑顔の婚約者のお尻に敷かれる形で生涯円満継続となった。
ユリシアは、生家の男爵家ごと社交界からいつの間にか消え去っていた。爵位を返上して隣国へ家族そろって移住したらしい。なお、この件に関してはリリミヤは一切関与していない。
こうして『ユリシアの恋心』は物語が始まる前に終了してしまったのだった。
ただし物語とハッピーエンドは同じであった。
『二人は一生仲睦まじく幸福に暮らしました』、と。
読んでいただき、ありがとうございました。
10月31日にリブリオン様より電子でコミカライズします。
「金貨を出せます、鳩も出ます」
作画は、しゃけふれ先生です。
短編なので短いですが、どうぞよろしくお願いいたします。




