32さよなら過去よ
「はい──」
「──待ちなさい、アルジェリータ!」
マーガスさまの手を取ろうとしたとき、背後から私を呼ぶ声がした。両親だ。手紙を無視しているから、直談判も致し方なし、と言うところだろうか。
「あ、アルジェリータ。我が家の誇りよ。父と母に挨拶もなしとは、冷たいじゃないか」
フォンテン公爵家の遺産相続が無くなった今、マーガスさまの妻の座に座ろうとしている私を逃す手はない──という事だろう。父が私の手を掴もうとして、マーガスさまが私を庇う様に進み出た。
「私の婚約者に触れないでいただけないか?」
「あ、アルジェリータは私たちの娘ですよ……!」
母が両手を合わせ、すがるように、上目遣いでマーガスさまを見上げた。けれど、マーガスさまは眉ひとつ動かさない。
「手切れ金は支払ったはずでしょう? 私は言ったはずだ、この金額で娘さんに関する一切の権利を譲り受けたい、と。アルジェリータに関するすべての権利は、この私、マーガス・フォン・ブラウニングにある。私は自分の領域を害されるのが何よりも嫌いであることは、先ほどの一件であなたがたにも十分におわかりと思うが」
「そ、それは……」
マーガスさまにじろりと睨まれて、両親はすくみあがった。納得のできないことには王家相手でも刃向かうマーガスさまの姿を両親も見ていたはずだ。どんなにお金に汚かろうが、権力欲があろうが、マーガスさまに逆らう度胸はないだろう。
「お話は以上でよろしいか? ──行こう、アルジェリータ」
「アルジェリータ、お前のような子は公爵様とは釣り合わない。必ず後悔する。悪い事は言わないから、うちに戻ってきなさい。体の調子が良くないのは本当なんだ──また、家族で一緒に暮らそう。この世界でたった一つの、血を分けた家族じゃないか」
その言葉に立ち止まり、振り向く。
「……お父様、お母様。お二人にはリリアナがいるでしょう? 自慢の娘、大事な家族は私ではなかったと思いますけれど」
「リリアナは……」
両親が言い淀んだ瞬間、リリアナの甲高い叫び声が聞こえた。そちらの方角を見ると、どうやらウィリアムと何やら言い争っているようだ。二人はもみ合っていて、どうやらウィリアム名義で購入した宝飾品を婚約破棄するなら返せ、いや返さない、なら結婚して一緒に働いて返すべきだ、それは嫌……の堂々巡りだ。
「公爵になれないあんたとなんか結婚するわけないじゃない」と叫んで、白々しく泣き崩れたリリアナを慰める人はいない。公爵家の遺産をあてにして、盛大に略奪婚の案内をばらまいた後のはずだけれど、これから二人はどうするのか。
借金が残ったとしても、魔力がなくなる訳じゃないのだから真面目に働けばいいだけなのに……とは思うけれど、それは余計なお世話だろう。とうの昔に私とリリアナは違う家の人間なのだから。
「……まあ、リリアナの事はいいです。それでは」
……両親が私を産んでくれた事には感謝しているけれど。
──私は意を決して、俯いた顔をあげた。にっこりと、記憶に残るように、満面の笑顔を二人に向ける。
「……さようなら!」
こんなに強烈な笑顔を両親に向けるのは、物心ついてから始めてかもしれない。今、私はこんなにはっきりと自己主張して、思いっきり笑う事ができる。それも全て、この家から解放されたからだ。
マーガス様の手をとって広間を抜け、外へ出る。マーガスさまが指笛を吹くと、遠くでポルカの鳴き声がした。
何回か瞬きをすると、ポルカがマーガスさまの部下──軍にいる時のお世話係を引きずりながら姿を現した。
「駄目よ、ポルカ。ゆっくりよ」
手で合図をすると、ポルカの歩みは少しだけゆっくりになった。あの一件から、なんだかんだ私の言う事を前より聞いてくれるようになったのだ。
「すっかり暴れ竜を手懐けてしまって。参ったな」
「これが仕事ですから。──私のこと、自分のペットだと思っているんだと思いますよ」
「……ぎー」
ポルカは立ち止まると、もういいの? と言いたげに城を見つめた。
「もういい。貰うものは貰ったし、言う事は言ったからな」
私たちが去った後、中で何が起きているかは──きっと、次のゴシップ誌を読めば書いてあるだろう。
「ポルカ、乗せて!」
懐に隠し持っていた干し林檎を見せると、ポルカは仕方がないわねぇ、と言わんばかりに足を曲げた。
「随分気を許しているな。少々妬ける」
「油断できませんよ、ポルカだもの」
「確かにな」
二人乗りをしてからマーガスさまが足で合図をすると、ポルカはゆっくりと、優雅な足取りで王城を出た。
「君にはいつも迷惑をかける」
と、ポルカに揺られながらマーガスさまは言った。
「迷惑なんて、一度もかけられていませんよ」
「さすがに何らかの処分を受けるかもしれない。将軍位を剥奪されるとかな」
可能性が無いとは言わないけれど、国王陛下はマーガスさまの味方に思えた。セレーネさまの絶望具合を見ると、本当に他国との縁談が持ち上がっているのかもしれない。懲罰的な人事をされるとしたら、セレーネさまのほうだろう。
「……むしろ、そうだったらいいのにって思いました」
「公爵位がなくなってもか?」
「だって、もしそうだったら。好きなところへ行って、好きな仕事ができるでしょう?」
別に困る事はないのだ。私にはやりがいのある仕事もあるし、多少は癒やしの魔力が使えるようになったし、そうなったらマーガスさまは騎竜便でもやればいい。……そう願った所で、部下の方達が放っておかないと思うけれど。
「公爵夫人以外の仕事のほうが、気楽でよいですし、ね」
そう笑うと、マーガスさまはくしゃりと笑った。少年のような笑顔は、初めて見る顔だ。マーガスさまも私と同じように、問題から解放されてすっきりとした気持ちでいてくれるのなら、こんなに素敵なことはない。
「ありがとう。──こんなに情けなくて、煮え切らない態度で君を振り回したのに──そう言ってもらえて、嬉しい」
「……ぎー……」
ポルカが立ち止まり、身をかがめて、やってられないわ──とでも言わんばかりに、道端の草を食べ始めた。
「俺たちのせいで胸やけをしている、とでも言いたいのか?」
「かもしれませんね」
マーガス様がふたたび足で合図をすると、ポルカは矢のようにかけ出した。マーガスさまがどこへ向かうのか、尋ねなくてもわかる。ウェルフィンのお墓に行くのだ。
「そういえば、どこで騎竜の乗り方を?」
ポルカがどんなに速度を上げても私が臆する様子がないので、マーガスさまはとうとう私が抱えている最初で最後の秘密に切り込んできた。
「実は、騎竜の里にいる時に。本当は良くないんですけれど──ウェルフィンが練習をさせてくれたんです」
「ウェルフィンが──歩くことも難しくなっていたのに……」
もう隠し事は何もない。そっと、懐に忍ばせていたウェルフィンの羽を取り出した。優しい騎竜は、私が病の痛みを和らげてやると、お返しとでも言いたげに、背中に乗せてくれた。まるで、教えがいつか私の役に立つとわかっているかのように、根気強く練習に付き合ってくれたものだ。
「ウェルフィンが……」
マーガスさまは私の手に自分の手のひらを重ねて、そっとウェルフィンの羽を撫でた。
ウェルフィンはとても立派な騎竜だったけれど、騎竜を愛しているマーガスさまが目の届かないところに彼を追いやるとは思えなくて、今までふたりの関係が私の中でつながることはなかった。でも、いつも話はとても単純なものだ。それがわかるまでに、結構な遠回りをしたけれど。




