4若き公爵
「ローラン・ブラウニングは二週間前にこの世を去った。既に墓地に埋葬された後だ」
衝撃的な言葉に、私は思わず頭を抱えた。
これが現実かどうか確かめるために、何度か瞬きをしたり頬を引っ張ってみたけれど、状況は何も変わらなかった。
そうしている間にも、マーガス様は落ち着いた様子で、注意深く私の様子を観察している。
──いけない。
慌てて姿勢を正し、詳しい話を聞くために、再び、目の前の青年を見上げる。 非常に背が高いため、首が疲れてしまう……もう少し、後ろに下がった方がいいだろうか。しかし、わざわざ後ずさるのも失礼にあたるのではと躊躇してしまい、結局はそのままになった。
「偉大な方が亡くなられて、何も国民にお知らせがないと言うのは……」
何とか言葉を絞り出す事ができた。いくらなんでも、クラレンス伯爵家にその情報が入ってきていないとは考えられない。
「故人の遺言だ。自分が死んだ事はしばらく伏せておくように、とな」
よどみなく告げられる言葉にはまったく嘘がないように聞こえる。ちょうど戦争が終結し、国は戦勝の高揚感に酔いしれている。そこに水を差すのはやめようと、愛国心の強い方が考えてもおかしくはない。
「左様で……ございますか……」
会話は続かない。状況は分かった。けれど、ならどうして私はここにいるのだろう?
何かの行き違いがあった?
手紙が届くのが遅すぎて、私はローラン・フォン・ブラウニングの死に目に間に合わなかったのだろうか。
先ほどまではなし崩しに売り飛ばされてきたとは言え、まだやるべき事がはっきりとしていた。
けれど、今はどうだろう。私は寄る辺を失って、宙ぶらりんだ。寒くもないのに、体が震えだして、思わず縮こまってしまった。
このまま追い返されて、またあの家に戻って、役立たず、となじられるのだろうか? 騎竜の里は、私をもう一度雇ってくれるだろうか? そもそも私は一文無しだ。そこまでの交通費を一体どうしたものか……。
と、頭の中でぐるぐると思考を巡らせたところで、疑問は一向に解消されない。
「なら、どうして迎えの馬車がやってきたと思う?」
マーガス様の言葉にはっと顔を上げる。彼の顔つきは一見怜悧だけれど、その瞳には、どこかきらきらした少年の様な輝きがあるのだと、自分が置かれている状況を忘れて、一瞬見入ってしまった。
──確かにそうだ。彼は私がやってくる事を知っていた。
ローラン・フォン・ブラウニングが本当に死んでいるならば、わざわざ縁談の話を持ち込む必要は無いのだから、何か理由があるのだ。
「入りなさい。俺は君を歓迎する」
マーガス様はそう薄く笑って、私を迎え入れるために体をずらした。肩越しには、日中の淡い光でもぎらりと輝くシャンデリア。
屋敷の外観は地味と言ってもいいぐらいだけれど、この中は確かに公爵家の領域なのだ。
「……っ」
私が、こんな着古した服装のままで立ち入っていいのだろうか? 裏口の方がいいだろうか?
逡巡していると、マーガス様は気まずげに口を開いた。
「今はちょうど、人が居なくてな。屋敷の中に入るのが不安なら、テラスでも構わないが……」
「い、いえ、ぼーっとしてしまい、申し訳ありません」
私はブラウニング邸に一歩足を踏み入れた。
そのまままっすぐ、マーガス様の後ろについて行き、長い廊下の角を曲がる。
──自分の視界に入ったものに息を飲む。白髪のいかめしい顔をした男性の肖像画──彼が、ローラン様、だろうか?
思わず立ち止まり、まじまじと見つめてしまった。絵の中の人物は老境にさしかかっているけれど、鋭く、意志の強そうな目元はマーガス様とよく似通っているように思えた。
「祖父の遺言だ。肖像画で失礼、とな。……驚いたか?」
その問いに思わず目を伏せた。
「少し……」
写実的な絵は、思わず本人その人が目の前に現れたのかと驚いてしまうほどだった。
「無理も無い。夜に帰って来ると俺でもびっくりすることがあるから」
マーガス様の言葉は冗談めいていた。緊張で冷や汗をかいている私をなんとか落ち着かせようと、気を遣ってくださっているのが分かる。
「入りなさい」
私が通されたのは一階にある応接室だ。一応使用人がいたらしく、程なくしてカートに乗せられたお茶や軽食、菓子が運ばれてきた。
「よろしければ私が……」
給仕をします、と立ち上がろうとしたところ、手で遮られる。
「自分の身の回りのことぐらい一人でできる」
「し、失礼しました」
高位貴族は身の回りの事を全て人に任せると聞いたけれど、戦地に赴くことが多い軍人だとそうはいかないのだろう。マーガス様は長く戦地にいらっしゃったので、信用の出来ない人間を自分の飲食物に近づける訳がない──少し考えれば分かる事に、情けなさに顔が赤くなる。
今まで食べた事もないような高級そうな菓子を勧められたものの、口の中が乾いて乾いてそれどころではない。
「嫌いだったか。体力を使う仕事だ。塩気があるものの方が良かったか」
「い、いえ、そ、そんな事は……食べ慣れていません、ので」
美味しいのは間違いない筈なのだけれど、じっと見つめられていると自分の咀嚼の音がいやに大きいのではないだろうか、とかカップを持つ仕草が不格好なのではとか、様々な思考が巡る。
「果物の方が好きだったか」
「は、はい。私は林檎が好きです」
質問に反射的に答えてしまって、なんだか妙な空気になってしまった。
「瓶詰めならあるはずだ」
「い、いえっ。催促ではなく。申し訳ありません、質問に答えただだけのつもりでして……」
マーガス様が落ち着け、と言わんばかりに手をかざすと、不思議なことにふっと気持ちが落ち着いた。指示に従う騎竜もこんな気持ちなのかもしれない。
「林檎が好きなのは……騎竜と一緒だな」
「は、はい、そうです。騎竜の里には林檎の木があって……それを食べるのが楽しみなのですが、騎竜も林檎が大好きなので収穫の時期になるとほしいほしいとねだられて……全く足りないのです。それでですね、二年前に食べ終わった林檎の種を取って森の日当たりのよい所に蒔いたのです……やっと小さい木になったのですが、あと何年したら取れるのでしょうね……」
緊張のせいか、彼にとってはどうでもいいことを口走ってしまい、わずかな沈黙があった。
マーガス様はどうしてこうもまともに話が出来ない女が連れてこられたのだろうと、きっと呆れているだろう。
「ここにも林檎の木がある。騎竜は林檎が好きだからな。残念な事に、今は季節ではないが」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。俺も林檎は好きだ」
私がしょうもない事を口走ったせいで、話が思わぬ方向へ転がっていってしまったけれど、マーガス様はさすが人の上に立つ御方と言うべきか、威厳がありながらも私の話を我慢強く聞いて、相鎚を打ってくれる。
──とてもよく出来た方だ。
比較対象が私の元家族、と言うのを差し引いても。
「サンドイッチでも?」
マーガス様は食事が進まない私を見て、気遣ってくれた。
「あ、はい。ありがとうございます」
「今日はもう疲れただろう。俺は仕事があるから、ゆっくりしていてくれ。家の中のものは全て自由に使っていい」
私がサンドイッチを食べ終えた矢先、マーガス様はそんな事を言い出した。 ここで一人にされてしまっては、今後どうしたものだかまったく分からなくなってしまう。
「ま、待ってください……」
立ち去ろうとしたマーガス様を、思わず引き留める。
「ここで……働かせていただけないでしょうか」
言いにくい事だけれど、これからは自分の力で生きていくと決めたのだから、ためらっている場合ではない。
マーガス様は呼びつけた人物をそのまま突き返すのは失礼だと、気を遣ってくださって、家に引き入れて一晩の宿を提供してくださるつもりなのだろう。しかし、それは問題の先延ばしにすぎない。
厚かましいけれど、ここはその優しさに甘えて、一時的に雑用係でも何でもして雇ってもらわないと……。
「働く必要はない」
──駄目だった。
「それは……困ります。私、お金が欲しいんです」
食い下がるしかない。ここで諦めたら、本当に路頭に迷ってしまう。
「いくらだ?」
「ええと……十万ギットほど……」
「その位なら、書斎の引き出しに入っているぞ。いつでも引き出して使えるように多めに置いておこう」
マーガス様にとってはその程度のお金は小銭と言う事だろう。
「そういう意味ではありません。あの……お返しできるアテがありませんので、何か、対価として賃金を……」
「仕事が欲しいのか?」
「はい」
「それなら話は簡単だ。俺の妻になれば良いだけだからな」
と、マーガス様はなんの感慨もなく言ってのけた。




