27脱走(前)
「……アルジェリータ」
「……はい」
「……その。なにか、飲み物をくれないか?」
「かしこまりました」
深く頭を下げると、マーガスさまの何か言いたげな視線が頭に突き刺さった。舞踏会の夜から、マーガスさまと会話するのを意識的に避けていて、ずっとぎこちない。
話を聞いたときは、マーガスさまに確認するまでは何も信じられない、と強く思っていたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、真実を知るのが怖くて何も言い出せない。
──彼は、わたくしに対する当てつけで、いいなりになるしかないあなたを飼っているのよ。騎竜よりはおとなしいでしょうからね。
セレーネ王女の言葉のひとつひとつが、棘となって私の心にずっと突き刺さっている。思い出す度に、ぎゅっと心臓を握りつぶされるような感覚になって、苦しい。
──こんな思いをするなら、最初から何も思わない方がよかった。
「アルジェリータ」
やさしくされているうちに、知らず知らず、私は甘えてしまっていたのだ。最初はただ置いてもらえればそれでよかったのに──いつの間にか、この家に受け入れられているような気持ちになってしまっていたから。
真実がどうであれ、私がマーガスさまにふさわしくないのは事実だ。
「アルジェリータ!」
ぽん、と肩を叩かれて我に返る。マーガスさまをお見送りするのに、物思いにふけりすぎてしまっていた。
「も、申し訳ありません。何か……御用でしょうか」
「いや……体調でも悪いのかと」
「申し訳ありません。少し考え事をしておりまして」
ゆっくりと首を振ると、マーガスさまは私を見て心配そうに目を細めた。やはり、女性をその場限りの感情で利用する方には見えなくて、頭の中がぐるぐるする。
「……今日は騎士団の演習で遅くなる」
「演習となると、ポルカを連れて行くのですか?」
ポルカが柵の向こうから、いつの間にか自分の手綱を咥えて顔を覗かせている。マーガスさまが外出するのだから自分も当然──と思っているのだろう。
「いや。彼女は置いていく。ほかの騎竜の騎乗訓練を行う」
ポルカは素晴らしい騎竜だ。けれど生き物には寿命があり、それはたいていの場合人間より短い。騎士を束ねるものが、いざと言う時に複数の騎竜を揃えていないのは業務に差し障るだろう。
「ポルカはがっかりするでしょうね」
マーガスさまがポルカ以外の騎竜を見つける。ポルカだって、元々は戦場で生まれて、育ってきた。長い戦いの中では、ポルカ以外にもマーガスさまと共にいた騎竜がいるのだ。
──私が知っているのは今と、それもほんのわずかの一瞬だけ。
仕方のないことだけれど。私は将軍であり、次期公爵であるマーガスさまの高位貴族としての顔を知らない。それは彼の力になれない事を意味する。騎竜の世話も、治癒も、妻の役割も、私より上手にこなせる人はたくさんいる。セレーネ王女の言った通り、マーガスさまが良い人であっても、私がそばにいることで彼の名声に傷がついてしまう可能性は十分にある。
「行ってらっしゃいませ」
屋敷を出るマーガスさまに向かって、深くお辞儀をする。何か言いたげな視線を頭部に感じるけれど、私は顔を上げることをしない。
──顔を上げると、決意が揺らいでしまいそうだから。
「……あ」
開け放っていた自室の窓から、何か青いものが飛び出してきた。──私の、小鳥だ。
飛ぶことはできないだろう、と言われていたのに、元気に飛び回っている。
──誰かの助けを借りないと生きられない存在が、自分の力で立ち上がって、巣立っていく。
──潮時……だろうか。
マーガスさまがセレーネさまと不仲になった理由は分からないけれど、セレーネさまの言う通りだとしたら……。これ以上お世話になっているわけにはいかない。いや、マーガスさまは私をこのまま雇ってくださるだろう。けれど自分がそれに耐えられるかと言うと──自信がないし、そんなのは嫌だ。
マーガスさまが出かけて、静かになった庭でポルカはじっと遠くを見つめている。彼女ももうすぐ自分たちの時間が終わる事を予感しているのかもしれない。
──騎竜の里に、帰ろう。
「一身上の都合により、お暇いたします……頼るあてはありますので、どうかお気になさらないでください……の後はどうしましょう」
マーガスさまにあてた手紙を書くけれど、なかなかうまくは進まない。いきなり居なくなるのは無責任なので、まずは辞表を提出して、お話をして、騎竜の里に帰って、また雇ってもらって……。
「そんなに真剣にして、恋文でも書いてるんですか?」
ドアの陰から、ミューティがいぶかしむように私を見つめている。勘のするどい娘だ。私とマーガスさまがぎくしゃくしている事に、とうに気が付いているだろう。
「なんでもないわ。どうかしたの?」
さりげなく手紙をポケットにしまい込む。今の動きは、完全にばれてはいると思うけれど。
「さっき、広場で新聞の号外が出ていたんです。これ、奥さまの知り合いの騎竜ですかね?」
ミューティが差し出してきた新聞記事を見て、血の気が引いた。
『市街地で騎竜が逃走中。王都内屋敷への移送中に檻を壊して逃げ出した模様。青みのある毛色、年齢は8歳ほど。プレートはついておらず、騎士団を引退した騎竜とみられる』
「まさか……」
騎士団所属の騎竜は胸に金のプレートをつけている。それが付いていないという事は、確かに騎竜の里の──私が知っている誰か、かもしれない。
「かなり気が立っていると思いますから、家から出ないでくださいよ。間違っても、探しに行こうとか、自分がなだめて捕まえようとか思わないでください」
ミューティが念を押すように言った。
「でも……」
「でももだってもないです。大事になって町の衛兵でも手に負えないとなれば、それこそ旦那さまが出動して、あっと言う間に捕まえてくれるでしょう」
「そうね──」
おとなしくしているわ、と言いかけた瞬間に、騎竜の遠吠えが聞こえた。雄の力強い、仲間を呼ぶ声だ。
「──ラルゴ!」
間違いない。私にはわかる。青みを帯びた毛色もそうだけれど──鳴き声にはそれぞれ特徴がある。しばらく一緒に暮らしたラルゴの声を、私が間違えるはずがない。
──彼を探さなければ!
ラルゴはまだ若い竜で、元々の主人と離れ離れになってしまった事がどうにも納得できずに、しょっちゅう逃走を試みていた。大けがをして足が悪かったので、大事には至らなかったけれど──私が去ってから、彼はなんらかの理由で健康を取り戻し、主人を探すために駆けてきたのだ。
一般人を傷つけた騎竜は殺処分されてしまう。けれど、彼は賢いから私の事を覚えているかもしれない。
人のためにも、そしてラルゴのためにも。なんとかして、事件が起きてしまう前に彼を捕まえなくてはいけない。
「だから、ダメですよ」
ミューティは私の手を掴んだ。痛くはないのだけれど、彼女は格闘術を身に着けているのか、動きにまったくスキがないし、振りほどいて彼女を置いていくのは困難だろう。
「マーガスさまに協力をお願いするわ。なら、いいでしょう。穏便に済むなら、それでいいじゃない」
「まあ、旦那さまにお伝えするのであれば……」
ミューティはしぶしぶ手を離した。彼女は屋敷で留守番で、ラクティスが私についてきてくれる。ラクティスが馬車を用意する間、私は玄関口で待っていた。
……機会を逃してしまった。
手紙はポケットに入れたままだ。けれど、ラルゴの一大事だと言うのに、自分のことに構ってはいられない。
「……ぎゅっ」
騎竜のささやかな鳴き声がした。一瞬硬直して振り向くと、そこにいたのはマーガスさまに置いてきぼりを食らったポルカだ。
「なんだ、ポルカ。今ね、貴女に構っていられないの」
「ぎゅっ」
ポルカはちぇっ、とでも言いたげに小さく鳴いて、鼻先で私の肩のあたりをつついた。いつもよりしおらしくて妙な感じ……。
と思ってから、この状況は異常なのだ、と気が付く。
──ポルカはいつも、柵の向こうにいるはず。マーガスさま以外の人間が、ポルカを柵の外に──正門前に離すわけがないのだ。
──逃げた。
振り向くと、ポルカの黄金の瞳はまだ私を見つめていた。ゆっくり、捕まえようと手を伸ばした瞬間──ポルカは正門の鉄柵を軽々と飛び越えてしまった。




