25王女セレーネ
「あら、大変。具合が悪くなったみたい。姉が休めるお部屋をご用意していただけますか?
リリアナが甲高い、よそ行きの声で周りに助けを求めているのが聞こえた。
「さ、姉さん、お茶でもどうぞ」
城の一室──控室だろうか。私はそこに運ばれて、リリアナが差し出したティーカップをじっと眺めている。
「顔色が悪いわ。お茶でも飲んで、休むといいわよ」
正直そんな気分ではないし、リリアナのことだ、善意かどうかはわからない。長居するわけにもいかないだろう。
「私……もう……帰らなくては」
マーガスさまとお会いしなければいけない。セレーネ王女との婚約について、直接お話を聞かなければいけないと思う。
「まあ、ショックなのはわかるわ。もう少しゆっくりしていったらいいじゃない。本当に偏屈なんだから」
リリアナはいかにも心外だと言うように目を見開いているけれど、本当はその美しい顔の下で、何を企んでいるかを推し量るのは難しい。
「そういうわけにもいかないのよ。私……早くマーガスさまにお会いしないと」
「ダメよ」
リリアナの冷たい瞳が、立ちあがろうとした私を見下ろしている。
──油断した。その瞳には、先ほどまでのよそゆきの様子はない。彼女は何か理由があって、私をこの部屋に連れてきたのだ。
「私、命令されているの。姉さんを──マーガスさまの愛人を連れてこいって」
「あ、愛人……?」
リリアナの唇が三日月型に吊り上がり、ランプの光で瞳は怪しく光っている。まるで魔物のようなその表情にぞっとして、鳥肌が立った。
「私は愛人なんかじゃ……」
「さっきの所を見たでしょう? それとも、姉さんはセレーネ王女が、誰彼構わず立派な方に駆け寄って腕を絡ませて、微笑みかけられる方だとでも思っているの?」
リリアナが大きく声を張り上げて、私は情けなくも萎縮してしまった。
「セレーネ様は、婚約者との関係に悩んでらっしゃったの。ささいな事で喧嘩して、マーガス様がそのあてつけに自分を無視するって、心を痛めてらっしゃったわ。それで、王女様のお力になろうと思って姉さんにお話を聞こうと思ったの」
──王家からの手紙と、驚いた使者の顔が蘇る。
「そうしたら、姉さんが恥ずかしげもなく自分が愛人だって吹聴するから、私、びっくりしてしまって」
「あ、愛人って……」
「だってそうでしょう。婚約者が他にいるのだから、姉さんは浮気相手なのよ。後妻として嫁いだ家の孫に色目を使うなんて、見た目の割に大胆な事をするのね」
──ローランさまは既にお亡くなりになっている。けれど、世間から見た私はそう思われても仕方がない。ここにいないマーガスさまを信じたいのに、目の前のリリアナの言葉に揺らぎそうになる。
「王女セレーネさまはね、マーガスさまの同情を買って取り入る姉さんにお怒りなの。でも、お優しい方だから許してくださると思うわ」
「……私、何もしていないわ」
「……では、同じ事をセレーネさまの前で言ってみればいわ。何もしていない、私はただ弄ばれただけなんです、って」
「っ!」
思わず立ち上がった私を嘲るように見つめて、リリアナが笑った。
「セレーネさま、お入りください」
リリアナの勝ち誇ったような声に、私は体をこわばらせた。ゆっくりと部屋に入ってきたのは、他の誰でもないセレーネ王女だったからだ。
「よく来てくれたわね。わたくしは第三王女、セレーネよ」
「お、お初にお目にかかります……」
慌てて臣下の礼を取る。まさか本当に王女が私に会いにやってくるとは思わずに、かすれた声が出た。
「あなたがアルジェリータね? リリアナから話は聞いているわ」
「は……はい」
声が震えそうになるのを必死に堪えて返事をすると、セレーネ王女は私の頭を撫でた。くすりと微笑む音が聞こえそうなほど、彼女が私のそばにいる。じっくり、買い物のために検分されている商品のような気持ちだ。
「そんなに緊張しないで? あなたのことは許してあげる。彼に親切にしてくれたのだもの。敬意を払うわ」
──顔を上げると、セレーネ王女は美しく笑っていた。
「彼は、わたくしの婚約者なの」
王女が「彼」と親しげに読んだのはマーガスさまの事だ。やはり、先ほど笑顔で駆け寄っていたのは……。マーガスさまを信じたい気持ちと、王女殿下が嘘をつくわけがないという気持ちがせめぎ合う。
「リリアナが居てくれてよかったわ。喧嘩のあと、マーガスったらずっとふて腐れたままなの。わたくしほとほと困り果ててしまって……でも、時間が解決してくれると考えていたの。まさか腹いせにこんな純朴そうな女性を騙そうとするなんて……」
セレーネ王女の瞳から、ぽろりと透明な宝石のような涙がこぼれた。
「騙す、だなんて」
「いいの。だってあなた、公爵邸にいらっしゃらないでしょう? だから知らなかったのよね。仕方がないわ。責める気はないの。あなたは被害者だから」
「そんな……」
王女の言葉に顔が青ざめてゆくのを感じている──違うと言いたいのに、私はその証拠を持っていなくて、ただただ唇を噛みしめることしかできないのだ。
「ほら姉さん、王女殿下の優しさに甘えて、ぼーっとしてないで謝るのよ」
リリアナがぐいっと私の髪の毛を掴もうとした。
「リリアナ、お止めなさい。アルジェリータは傷ついているのだから」
「は、はい。失礼しました」
リリアナから解放された私の頬を、セレーネ王女は優しく撫でた。
「あなたをここに呼んだのはね、誰のことも傷つけたくないからよ。もちろん、あなたもね。わたくしとマーガス、二人のあいだのいざこざのためにそんな可哀想な人を、作ってはいけないと思って」
「可哀想な……」
「だって、そうでしょう。老人の後妻として嫁いで、うまく同情を引いて取り入ることができたと思ったでしょうに、利用されていただけだったなんて」
セレーネ王女は同情するように私に語りかけたけれど、その瞳に冷たい光が宿っているのが見えた。リリアナもその後ろで笑うのを堪えているかのように口元を歪めている。
──私は嘲笑されているのだ。
「ね、アルジェリータ。愛人の貴女にお願いがあるの。……マーガス・フォン・ブラウニングから身を引きなさいな」
「それは……」
「マーガスはね、本当はあなたを愛してなんかいないの。まだわからないの? かわいそうな子ね。彼はわたくしへの当てつけに、言いなりになるしかないあなたを飼っているだけ。……騎竜よりは大人しいでしょうからね」
「でも、私、は……」
はっきりしない返事に、セレーネ王女は目を吊り上げ、私の腕をつかんだ。
「それとも、あなたは自分がブラウニング公爵家にふさわしいとでも?」
「い、いいえ」
「わかっているのなら、彼の前から姿を消しなさいな。マーガスは清廉潔白で実直な武人として評価されているわ。その彼が祖父の後妻に手を出して囲っているなんて──そんな醜聞で、輝かしい彼の未来にドロを塗っていいといいと思っているの?」
セレーネ王女が私の手を離すと、全身の力が抜けて、私は力なく椅子に座り込んだ。王女の言葉が頭の中をぐるぐると回っている。マーガスさまのお気持ちがどうこうではなくて、私の存在そのものが、マーガスさまに悪影響を与えてしまう、と事実を突きつけられて、目の前が真っ暗になった。
「お金が必要ならあなたには十分なぐらい、融通してあげるわ。郊外に小さな屋敷もあげる。あなたはそこで静かに暮らすの──結婚のあてがないのなら、十分でしょう」
「王女殿下、姉のようなものにそのような寛大な……お心遣いに感謝いたします」
リリアナが嬉しそうに、恭しく頭を下げた。
「それじゃあね。決心がついたらリリアナを介して連絡してちょうだい。ああ、それから……」
セレーネ王女は、私の首元のネックレスに指をかけた。
「──あなたには、似合わないわ」
じわりと涙が浮かんできたけれど、泣きたくはなかった。私がじっと俯いていると、セレーネ王女は部屋を出ていった。




