22力の目覚め(後)
「い、痛みを緩和させることはできるけれど、歩けるようになるのかはわからないわ……」
少女の期待を一身に背負いながら、黒い犬に向かって魔力を込める。動物は敏感な生き物だ。突然魔力にさらされて落ち着かない気持ちになるだろうに、じっと目をつぶって、うなり声も上げずにおとなしくしている。
「いい子ね。そのまま、じっとしていてね」
ぼんやりとしていたはずの私の魔力は、他の人にもはっきり目視できるほど強まっている。……今までにはなかったことだ。ミューティの言う通り、必要に迫られて、徐々に力が強まっていると言うのだろうか──?
考え事をしていると、犬が「もういいです」と言わんばかりに、すっくと立ちあがった。そのままくるくると回ったり、ジャンプをしたり。先ほどのしょんぼりとした様子とはまるで別犬、とでも言おうか。
「え……」
自分で始めたことなのに、こんなにも即効性があるとは思わなくて、あっけに取られてしまった。困惑しているのは私だけのようで、ミューティはさも当然かのようにぱちぱちと拍手をしているし、ラクティスは家主とかたい握手を交わしていた。
「すごい! すごい! オニールが治っちゃった! お姉さん、ありがとう!」
「え、ええ。こちらこそ」
ぎゅっと抱き着かれて、正直悪い気はしない。動物のお世話は好きだけれど、人間相手だとこんなにもはっきりと感謝の気持ちを示してもらえるのか、と新鮮な驚きがある。
「やめなさい、この方は公爵夫人なのよ」
母親だろう女性に引きはがされて、少女はさらに歓声をあげた。
「公爵夫人って、お姫様のこと!? お姫様がうちにきて、魔法を使ってくれたの!?」
「違うわよ。公爵夫人と言うのはね、公爵さまのお嫁さんよ。……失礼いたしました。なにぶん平民育ちのものですから……」
ぺこぺこと頭を下げられると、つられて自分も頭を下げてしまう。
「いえ、そんな、大層なものでは。アルジェリータとお呼びください。そんな、貴族とか奥様とかそういったものでは……急にお邪魔して、失礼いたしました。これにてお暇いたします……ささ、二人とも、行きましょう」
逃げるように屋敷を出ると、二人は黙ってついてきた。
「……」
「……」
馬車でお送りしますと申し出があったのを丁重にお断りして、私たちは三人で岐路についている。考えがまとまらないので、ゆっくり歩いて帰りたかったのだ。てっきり冷やかされるかと思ったけれど、二人が神妙な顔をしているだろうことは、顔を見なくてもわかる。
「……奥さま。魔力がないって話でしたよね?」
ラクティスは私がどうしてあの屋敷でぞんざいに扱われていたのかを知っているし、それを目の当たりにしてもいる。そのはずなのに、私が自分の腕も犬の足も治してしまったのだから、これはどういう事だと尋ねたくもなるだろう。
「そのはずなの。隠していたとかではなくて。どうしてこうなったのか、私にもわからないのよ」
「とにかく、めでたいことです。旦那さまにも報告しましょう」
「ま、マーガスさまには言わないで!」
「どうしてです? だって、力があるかないか確認するためにあの家に行ったんですよ。報告しますよ。めでたい事じゃないですか」
ミューティの疑問はごもっともだ。
「と、とにかくよ。秘密にしておいて。三人だけの」
兄妹は顔を見合わせて「はあ……」と困惑した声を出した。
「三人で散歩に?」
知らず知らずのうちにお留守番係になってしまっていたマーガスさまが玄関で私を出迎えた。
「も、申し訳ありません。ワンちゃんのお見舞いに」
「犬?」
マーガスさまは首を傾げた。
「犬が好きだったのか」
「は、はい。犬も好きです。でも、飼う余裕はないので、見るだけです。黒くて大きくて、凛々しくて、かわいい子でしたよ」
「ふむ……そうか。考えておこう。……散歩ができるなら、問題はなさそうだな。……ケガはどうした」
マーガスさまの視線が私の腕に注がれている。包帯をしていない。そして傷がない。誰か見ても明らかだ、秘密にしておいてだなんて言うまでもなかった。
「ええと。あの……軟膏が、とてもよく効いたみたいで」
「……そうか?」
マーガスさまの訝し気な声が聞こえた。いくらなんでもおかしいと思っているのだろう。
「はい。ですから、治癒師の方は呼んでいただかなくて結構です」
「……君が不要と言うならそうしよう。では、午後は舞踏会のドレスを選んでおいてくれ」
「は、はい。わかりました」
マーガスさまはふいと視線を逸らした。……納得して頂けたのだろうか?
手をくるくるとひっくり返してみても、やはりどこにも傷はなかった。原因はわからないけれど、私の魔力が増してきている。自分と、相手の怪我を治せるぐらいには。
……でも、そうだとしたら。治癒の力は貴重だ。クラレンス家は私を連れ戻そうとするかもしれないし、家に頼らなくても仕事はいくらでもある。力を使いこなせれば、どこでも働けるようになるだろう。
……けれど、それは、私がここにいなくてもいいと、マーガスさまが認識してしまうこと。
行き場がなくて気の毒な女だからおそばに置いていただけているのに、他にもっとよい仕事ができるとなれば、マーガスさまは私に他の仕事を紹介してくださるだろう。
……それが、嫌だと思ってしまった。
「奥さま、奥さま」
ミューティに肩をつつかれて、はっと意識が戻る。
「な、何かしら」
「旦那さまが仰っていた通り、ドレスを決めましょう。……とりあえず、なんでもいいけど腕が治ったのは朗報です。だって、ドレスのデザインに気をもむ必要がないわけですから」
「ドレス?」
そう言えば服を買うのをすっかり忘れていたことを思い出した。
「ええ、舞踏会の」
「舞踏会?」
確かに、マーガスさまは先ほど舞踏会のドレスを、と言った。
「そうですよ。旦那さまは、奥さまを社交界に見せびらかすつもりなんです。その準備を」
──貧血でもないのに、意識が遠のきそうになった。




